最初に目に入ったのは、足だった。死体のではなく、生きている男の、大きな足だ。逆さ向きの潜望鏡のようなその足が、さっきからもう僕を見つけてしまっていたような気がした。湯の川を渡り、川原を通り過ぎて、斜面を登りかけるところでだ。昨晩、ここよりかなり上流で、川原に出ようとする際に手こずった。そこには、扇子を開いて垂直に立てたような岩が、谷川に平行に何枚も立っていたからだ。ステゴザウルスが何頭も背中だけ出して埋まっているみたいだったここにもその現象が延長してきていた。ステゴザウルスの背びれの一枚と思われる大岩の縁が窪んでおり、下部が欠落していた。そこに、わざと見せるかのように、足が見えた。見つかったらまずいという意図は感じられない。欠落していない岩のほうが多いのに、そこを選んだのはなぜか。僕が通らざるを得ないところだったからだ。走ってきた僕が立ち止まり、そろそろと、足の主の男の背後にまわれるようにと迂回を試みたが、下流へといくら走っても岩の切れ目が見つからなかった、つまり、背びれ構造は男のいるところで尽きていたからだ。

落胆が去ると不安がやってきた。焦りに駆られて、仕方がない、上流側へ戻って、さらに、背びれ三枚目まで遡行し、男のほうを窺いながら斜面へとにじり寄っていった。もし男がこちらを見ているとすれば、互い違いに立ちはだかっている背びれ岩は、横方向から見ているので縮退して柱状となり、幾列かの列柱からなるコロネードのように見えるだろう。抜き足差し足そこを横切りつつあるのが僕だ。進むにつれて、大岩たちが回転し、岩肌に寄りかかって腕組みをしている男の全身が遠くにだが岩と岩の隙間から覗くことが出来た。最初に見えていたのは左足の足首で、右足には体重がかかっておらず、川原に接しているのはつま先だけで、足の踵が岩肌に接していた。腕組みをしてうつむいたまま沈思の最中さながら微動だにしない。あたかも僕に気がついていないかのような様子だ。マッチョな体型からすぐにわかった。タイマンの相手だった。待ち伏せをしていたのだ。しつこいやつだ。しかし、困ったな。あの、いつ終わるかわからないマッチを、繰り返す暇は今の僕にはない。だが、勝負はお預けだ、などと呼びかけても聞き入れる相手ではないだろう。横目で様子を窺いながら、前へ進む。明らかに、逃げ切るには近づき過ぎている。もっと上流まで遡るべきだった。テキは、背中を見せて走る僕に石を投げ、まず外さないだろう。石を使うのにはいやに慣れていたから。いや待て。幸いにも、今僕は胴乱を担いでいる。これが防護のための楯になってくれる。下からだと、胴乱によって頭は死角となり、直球は頭に当たらない。足やケツに当たっても我慢すればいいだけのこと。逃げられるかもしれない。僕は、首を捻らず、視野の右隅ぎりぎりにテキの姿が移動するまで我慢して、それから、ダッシュした。岩と岩の間をジグザグに、前へ進みながら反復横跳びをするような感じで、衝立岩がなすバリアーを抜け出た。斜面が一挙に眼前に迫ってきた。慌てているから顔をぶつけそうだった。

四つん這いになって、岩か、あるいは深く埋まっていそうな石をつかんでは引き寄せ、それが頑丈だったならばなるべくそれに足を掛け、体側を急ピッチで伸縮させながら、イモリのように三十メートルほど一気に這い登った。一息ついて下を振り返ると、ヤツが後頭部で岩肌を押し右足を下ろし垂直に立ちまぶしそうに太陽を仰ぎ見ておもむろに走り始めたところだった。その余裕綽々たる態度は、いやらしい限りであり、僕を恐怖の穴に蹴り落とすのに充分だった。慌てて再び登坂作業に取り掛かった。ハーハー。

やや傾斜がゆるくなったので、四つん這いは止して、膝が胸に当たるくらいの前かがみで登る。時々手で突き出ている岩の頭をつかんでそれに体重を乗せるようにした。ロスをなるべく分散させて個々の体の部分の負担を小さくするように、全身を使って登る。いつ後ろから石が飛んでくるかとひやひやしながら。ハーハー。

草原地帯に入った。手で草をつかんでも仕方がないので背を伸ばし、頭だけは防御のために前に倒して走る。足もとの瓦礫が崩れる恐れはなくなったが、そのかわり、時々草ですべる。膝を突かざるを得ないこともあるので、乾いた血に、緑の草の汁が塗りつけられ、なにやら怪しく美しい。その際、間近に迫った草たちを見ると、昨日の夜に感じた柔らかな単色の一様な絨毯といった印象とは全く異なり、単子葉植物と双子葉植物が混在していて、ひねた小麦のようなもの、細くて半透明の蔓を持つマメ科のもの、小さな団扇のように葉を広げたもの等々、僕を留まらせかねない多種多様さだ。ハーハーハー。息でいくつか草の葉が揺れる。湯の川の影響で樹林は生育できず、平地の草の植生だけがこの高さまで及んだのだ。通常は森林帯より標高の高いところにある草原の位置が逆転しているのもそのせいだ。ああ、こんなことで、何カウントかを無駄にする。ハーーー。

浮舟がその上でダンスしかねないテーブル状の岩のそばまで来た。スミレ畑にやってきたのだ。わざと急停止してみせた。そっと後ろを盗み見ると、ヤツもすでに立ち止まっていた。僕との距離は最初と変わらない。石は持っていないようだ。石を投げたり、握って水車のように振り回したりすることを、自ら放棄したようだ。何をたくらんでいるのだろう。今度は素手で向かってくるということか? むしろその方が恐ろしい。ヤツのマッチョぶりからして、つかまえられたら最後、ひねりつぶされかねない。

僕が立ち止まったので、ヤツは、ここが、僕の側から提案する、決着をつける場所だと思っただろう。しかし、立ち止まったのは、胴乱を持ってきた目的を少しでも果たす暇があるかどうかを窺うためだ。ヤツが身構えているうちに、いくらでもいいから大急ぎでスミレをむしりとって胴乱に放りこめないかと思ったのだ。優先順位を大いに間違えているように思うが、できればそうしたい。馬鹿げたことの魅力には弱いのだ。まったく、自分に信頼を置けなくなるような発作的行為だ。

僕はヤツと対峙し、ゆっくりと胴乱を置いた。ヤツは突っ立ったままだ。聞く者を狂わせる警戒警報のような、背後から押し寄せてくる蝉の声を聞きながら、停止から100カウントのあいだ様子を窺う。にらみ合いだ。101カウント目から、僕は腰を屈めたまま、ヤツから目を離さないようにして、震える両手でスミレをむしりとっていく。つかんでいられないほどたくさんになると、胴乱に入れた。ヤツはじっとこちらを見ている。僕の不思議な動きに当惑しているのかもしれない。トリッキーな戦闘準備に見えているのかもしれない。そうだったらありがたい。

僕はふとわけのわからない親和感に捕らえられた。こんな場面には不似合いなこの感じの原因は何か。しばらく考えてわかった。スミレを摘みながら少しずつ移動してきた結果、テーブル岩の影に覆われている倒れたスミレの一群が、視野の左隅に現れたからだ。昨夜、ヘレンと僕が坐っていた場所だ。スミレが茎の途中で切れていたり土にめり込んでいたりする。いったい何があったのかね。(私も 潮 かなひぬ あああ 今は 漕ぎ出でな!


胴乱の三分の二ほどまでスミレで埋まった。ヘレンの居間のスミレの数とほぼ同数のスミレが採れたことになる。ヤツは依然として突っ立ったままだ。僕は重くなった胴乱を背負うことによって、ハンディをも背負うことになる。忍び寄られて襲われたらひとたまりもない。後ろ向きで歩こうか。しかし、それは消耗だ。僕は、十歩ごとに振り返ることに決めて、前向きで歩いた。さすがに走れない。

森林地帯に入った。尾根を回り込む通路の周辺はさほど樹木の密度は高くないが、それでも蝉の声だけでなく、カナブンの羽音、鳥の奇声、枝から枝へ跳び移る何者かの物音に囲まれる。ヤツと僕との距離は依然として一定だ。いったい、いつ襲われるのか。ヤツはどこを想定しているのか。こちらからの、逆待ち伏せという手もあるぞ、などと短気な僕は考える。。

小川の浅瀬を渡り、水飲み場の右岸を回り、トンネルのような暗い林道を抜け、広場までやってきた。ヤツは何も仕掛けてこない。ヤツとの間隔は、正確に一定だ。ヤツにとっては、地下帝国に近づけば近づくほど不利になるのに。何をたくらんでいるのだろう。

左側の岩の斜面に沿って、ペースは落ちながらも、早足で歩きながら、二名の門衛の投げ出した足が目に入る頃になって、やっとわかった。こういうのはあまり好きではないな。

入り口の右側に坐っている痩せた男は、両脚を広場の方に伸ばし、岩壁に背をもたれさせていた。男の左手の欠けた人差し指と中指に目が行ってしまった。左側に坐っている白癬掻きは、片足だけ伸ばして、もう片方を両手で胸近くまで引き寄せていた。こいつが昨日僕を転ばそうとして足を出した。

「結構重い荷物をかついできたんで、足を踏まれると痛いぜ」

僕を見上げて、両者ともにたにた笑った。そして、ほとんど同時に横を向いてつばを吐いた。

「後から男が来るから通してくれ。友達なんでね」

どれどれというふうに、そいつらが首を伸ばして森の方を眺め、あいつ、力士のケヤホドじゃないか、生きていたのか、などと声をあげている間に、僕は中に入った。