個別認識の力が強いほど、愛情が深い。


危機が言葉の発生を促した。性欲が言葉の生長を促した。


愛するとはどういうことか。よくわからないではなく、ちっともわからない。


Dance, dance, otherwise we(you?) are lost. (Pina)
私は、彼女が生徒たちに稽古をつけている場面を、かつてビデオで観たことがある。彼女がおもむろにやって見せると、さすが、格が違った。宙に身をまかせるおもむき。


刻々の欠如態として君がある。


近代は、近代自身を隠蔽することによって、生き延びてきた。


不幸中の幸いは、気づきやすく、幸福中の不幸は、気づきにくい。当たり前か? 僕らは注意力不足ではないか?


芸術とは、時間とともに流れる現象を、切り取り、静止化し、形式化し、永遠化することだ、とは長らく信じられてきた俗説だ(時間よ止まれ、というあの陳腐を目や耳にして、いちいち背中をむず痒くすることもなくなったが)。芸術とは、崩壊(拡散)過程に、反復を持ち込むことだ。これに限っては、科学と同様だ。この過程と反復の境界が、細胞膜に譬えられうる枠(パレルゴン)である。


和歌の基本音調である五七五は、漢詩の、五言、七言から由来したのだろう。万葉仮名を作る過程で、和語一音に漢字一字を当てたので、漢詩の漢字を万葉仮名とみなすと、五言は五音に、七言は七音になった。 


次が生じようとしていた。教会は針でつついただけで破裂する緊張に満たされた。男たちは、自分が次か、というまさかの、しかし人に知られないように培ってきた自信にからめとられた。賛美歌が始まった。さわらないで! 叫び声が響いた。その男以外のすべての男は、落胆にまみれながら、誰だ、とつぶやく。その男は、落胆どころではなかった。翌日自殺死体となっていた。次の日曜日の教会はどんな風だったかと君は思うか?次が生じようとしていた。
 
チャップリンは、あの歩き方を、ロンドン動物園のペンギンから頂戴した。


イカの活き締めの際、脳と胴体を繋ぐ星状神経を切る(そのための専用器械がある。名称は活チャ器だ)。すると、ATPがよく残存する。ちょうどギロチン(人専用器械。活チャ器と同じように頭の上から刃が落ちてくる!)で切る部分。切られた死体も活きがよかったろうね。


歯痛が主体を喚起する。要請する。パスカルはさだめし奮い立たされただろう。主体の存在と唯一性の混同がデカルト以来起きているので、本当の主体は歯痛だったかもしれない。喚起されたほうの主体は、いわば歯痛に仕える端た女である。


生がいくら死に接近しても死を遠ざける。死を撤退させる。
生が死のいたところに至ると、死は少し先にいる。そこに生が至ると、死はさらに少し先に撤退している。かつて、アキレスと亀の例によって示されたゼノンのパラドックスが、生と死に適用される。生は死に決して追いつかないのだ! 人は自らの死を体験できないのだ!


歴史に否定要因を見つけられなかったコジェーヴ。


言語が成立するためには、同一語の繰り返しと共有が前提になる。(実は、時間軸に沿っては繰り返しとして、空間軸に沿っては共有として現れるのは同一の事態である。)

私Aの記憶や環境やのすべてを、私Bのそれらと交換しても、何も変化はない。AもBも誰も、この交換に気づけない。実は、私とは、交換可能性の把握不可能性を知った上で、発言が許されるのだ。互換性が先だ。(この悲劇に慣れよう!) かけがえのない私、絶対的な私と、人は言うけれど、間違いである。錯覚である。誰とも異なる私が、誰にでも与えられているというパラドックス(全員が、例外なく一様に個性を持っているという、この一様性の正体は、あらゆる個性同士の互換性である)を解いて初めて私を安心して口に出来るのだ。ついでに秘密をばらすと、互換性があるので、不死でもある。私の唯一絶対性は、私の死の唯一絶対性を証拠とするが、私の唯一絶対性が幻想なので、死もまた幻想である(対偶は元の命題と同値)。


個人は幻想だ。必要悪だ。しかし、幻想と必要悪は(激しく)矛盾する。 


生は、時間稼ぎを目的としたゲームだ。ゲームのルールは誰が決めて、何故みんなが納得したのか。自然が決める。みんな、適応によって、否応なく納得させられるのだ。

ありのままでありながら、しかも、脱自的に変容していく世界を言語化し分類し、上位概念である分類を、実体とみなす転倒が、かつてギリシャで起こった。イデアリズムの発生である。さまざまなイデアの乱立は、その相互関係と序列の整合的な説明を要求した。それは、南の国々から伝えられた公式や定理の相互関係と序列を明らかにしたエウクレイデスの業績として数学の分野で実を結んだが、事態の趨勢は公式や定理だけに留まらなかった。(はるか昔から、種々様々の、大量の、文明と文化の結果達が、ギリシャに流入した。あるいは、ギリシャがそれらを収集した。ギリシャの伝統は、オリエント由来の個々の要素の整合的な突き合わせにある。)さらに唯一神信仰における神が、最上位概念の正体であるとして導入された。そして千数百年が経ち、かのデカルトの宣言が来る。その真意はすなわち、我以外すべてを疑いうるほどに我の優越している有様は、すべてを見捨てうるほどに神が優越しているのとまさに同様だ! 以後、神に倣って行動すること、理性に従って認識することが、我らの原理となった。近代市民道徳の成立だ。その道徳を遵奉した歴史と認識がその道徳を内部から蚕食するまで。さて、ではその後の歴史はどうなったか。己を否定して無歴史状態に転落した。認識はどうなったか。同様に、認識への不審、認識の認識による否定に行き着き、シニシズム、ニヒリズムその他に陥った。危機は、今やもう、目前に迫っている。


親鸞は、小林秀雄に似てないか?


私は、生命の目的は必死の時間稼ぎだと、シニックな意味でだけではなく(大いにそれに体重はかかっているものの)主張してきた。時間稼ぎと似て非なる言葉に、一時しのぎ、がある。時間稼ぎには、やがて来るであろう有利な状況への期待や信念が潜伏している。一時しのぎは、目下の苦境を切り抜けるだけの、展望のない心と行為をあらわにする。ところが、時間稼ぎ(しかも必死の!)自体を目的にすると言ってしまうと、有利な状況とやらは無限の未来に飛び去ってしまう。一時しのぎにぐっと近寄る。無常観が漂ってくる。ちなみに、ラフカディオ・ハーンは、西欧の、永遠、に、日本の、一時しのぎ、を対比して論じている。彼の、一時しのぎ、が、無常、と、区別がつかないところが問題だ。いや、彼当人が、区別をつけなかった。大胆にも。問題どころか、当然かな。彼は、無常観がいかに日本人に染み透っているかをたとえて、日本人は旅人だ、と言っている。実際、鎖なす山並みもなにかは、普通の労働者階級の日本人が徒歩で速やかにいかにもあっさりと移動すると、驚嘆している。ゴゼの哀切きわまる三味線語りの場面(浄瑠璃、歌舞伎の、心中ものが、元である)も、移動性と絡めて、書いたのだろう。文明批評家としてのハーン、面目躍如たるものがあるな。ハックスレーの、旅行記プラスアルファなんぞ(読んでいる分には楽しいが)を、堂々しのぐ。


五感における錯覚の蹂躙は、合理性に基づいていないか? 感覚のレベルでも、知ってはならない、知ってもいいが、呆れてしまう経路があり、それを回避するショートカットが、我々に、安寧をもたらして、さあ、なぜ悪いのか? 真実か幸福か、どちらをとるべきか。これは数千年来の僕たちの問題であり続けた。その答えは、生物の進化の過程で明らかにされた。錯覚から生じる合理的幸福を僕たちは享受している。その状態が、環境に適しているのだ。錯覚に生きなさい。それが正しい!


延々と繰り返される日常を切り裂く電光石火の刹那があると君は期待しているね。残念、ない。延々と繰り返される日常が、その刹那であると気づくまで、君はもうしばらく生きねばならない。


僕の友人タイセイは、メアリーという名の、七歳の男の子(寝ションベンがどうしてもなおらなかった)を連れた女性と結婚した。友人との間に女の子が生まれた。僕が、浜辺にある大きな古い家を訪ねたときには、まだ生後七ヶ月だった(心屈していた僕は、数ヶ月その地で共同生活を営むことになる)。マーヤという名だ。釈迦の母親の名だ。左の腹に紫色のあざがあった。メアリーに、これはなんだ、と聞いたら、ヒステリックになにやらわめいた。
タイセイの両親を招待して、クリスマスパーティーを催した。ご近所のかたがたも、珍しいからだろう、多数が訪れた。
海の浪の寄せたり引いたりする具体的な音を聞きながら、ロックもインド音楽も聞きながら、僕たちはグラスをまわしのみした。七歳の男の子、デーモンも、参加した。オトーサンは、昔は、辞書のペーパー、インディアペーパーで、巻いたもんだ、とおっしゃった。オカーサンは、何のことかわからないふうだった、あるいは、わからないことにしていらっしゃった。
メアリーが、沢山のスパイスをぶち込んで作ったパンチは、悪酔いを予想させる複雑な味だった。メアリーが、ニューヨークにいた時の話、中部や西部のイチゴ畑で働いていた時の話、ロスでタイセイと知り合った時の話、タイセイの友人と先に付き合っていて、タイセイに乗り換えた時のいきさつ、なんでも、よくしゃべったね。
赤ん坊が水浴びできるほどの大きなボールに赤紫色のパンチはゆらめきをやめない。誰かが絶え間なくおたまでしゃくっているからだ。沢山のエキゾティックな野菜と果物。メアリーは仏教徒であり菜食主義者でもある。
オトーサンとオカーサンは笑い続けてつつきあって昔話を連発して眠くなって行き倒れのように床に寝てしまった。みんなあきれて退散した。


……もしもし、わかるかな、わたしは、マーヤ。京都大学に留学することになりました。八月十日に成田に着きます。もしもし、わからない? タイセイのチョージョです。


古典的な形式を、学習することは楽しい。興味深い。確認、再認識であっても。いや、なおさら。飽きるほどの学習の後、いや学習途中で、脳と四肢がうごめき始める。反抗精神、批判精神のなせる業だろうが。古来、その病、コウコウに入り、はてには、サーカスじみた表現をして、音楽における超絶技巧ヴァイオリン曲のようのものをでっち上げて、丸ごと世間に拒否されることを経験した諸兄姉はまれではない。彼ら彼女らは失意の果てに悟っていたと思う。だれか弾くものがいつかいるかもしれない。いなくても、……ふん、べつに。


君、自分のこと、美人だと思ってるでしょ。彼女は、当惑しながら、首を横に振る。おでこにウソですって書いてあるよ。点滅してるぜ。
イエスであれノウであれ、どっちに答えても、答えたほうにはマイナスになるこんな質問をする男は、ワルだね。


音楽で、神の憂鬱を表現できた者がいたか? 音楽の目標はそれであったのに。ワーグナーがそうだって? まさか。神の重大なミステイクを、ワーグナーが、かすかでも知りえたか。さらに再び問う、音楽で、意識の憂鬱を表現できる者がいるか? 音楽の目標はそれであるのに。私たちの重大なミステイク、数千年来の神の仮定。そんなことをしてきたので、精神の麻痺から未だ覚醒しきれない私たちが、覚醒のための手段として、音楽にすがりつくこの有様を、自らあわれめ!


西欧の誤り、東洋の誤り。誤りの必然性。お互いがお互いに、許してあってもいいよというこの感じ。誤りが、洋によって、どう異なるか。なんとでもいえるでしょう。理解なしの許しあい。男女関係でよくある過誤。


文章におけるリズムセクションとは何か。ドラムとベース。循環コードを弾くピアノも。それらは何に相当するか。

男子トイレ(個室)で用を足して、ロールペイパーを下げている支えの上を見ると、使用済みの生理用ナプキンがたたんで置いてあった。


知人であるT夫人の娘が、自分の父親の裸体を見て、フン、粗チンが、と言ったそうだ。


退廃的な生活をしている者には、尻尾が生えてくる。ピノキオの退廃。退廃者は、尻尾が生えて何が悪いと居直る。こちらは、邪魔になるのではないかくらいにしか、そんなくらいにしか、反論できない。何の邪魔にもならないと反反論してくる。見栄えが悪いのではないか。まったく気にならない。不衛生ではないか。そんなことはない。生やしてみればわかる。長々と延びていく無駄な言い合い。まるで長くて巻いた尻尾のよう。


亜熱帯の某国の浜辺の竹の小屋を借りて、しばらく住むことにした。初めての夜、真夜中、周囲から音楽が聞こえてくるので目が覚めた。何が起こっているのか。私は、扉を開け、手すりにつかまりながら、月光が降り注ぐ中、かなたの水平線に見とれながら、階段を下りた。一歩、二歩、三歩、ちゃぷん。おお、潮が満ちて、我が家は床下浸水。海のざわめきが音楽だった。


ある国で、飲み会の際、それぞれの国の代表的な歌を唄うことになった。私は、椎名林檎の歌舞伎町の女王を歌った。皆さん、ちょっと対応の仕方がわからず、すまなそうで、盛り上がらなかった。となりに坐っていたご夫人は、知的で複雑な歌ですね、などとのたまわった。あっていると思う。


真理への意志(かつて私の場合、自然科学、数理科学への従属!)から、その意志そのものを問題視する自己否定への誘惑に絡めとられ、真理の価値など何ものぞ、ついに、仮構へと身を投げるに至った。
これがまたニヒリズムでないと言えようか。ついでに言う、ニヒリズムを意識しない科学なんてもの、あるのか?


リバタリアンと共同体主義者との壮絶な戦いを、ジャッパニ―ズアニメが絵にして茶化すと、その後の展開が下手すると止んでしまう。(アニメが、現実への影響をもたないとは今や言えないだろうが!) 繰り返しの定型劇になる。アニメでも、ゲームでも、それに、もう陥っちゃってるな(例。ワンピース)。引き伸ばすのは、ただ金儲けのためだ。戦いは早く決着したほうがいい。着地点を見い出せなくてどうする! そうではない? だからといって、アニメとゲームで結論が出るなんぞと言わないでほしい。さらにだからといって、その後ろに、ぼんやりと、だがやっぱり、見える、大きな暴力を、ことさらはっきりと、意識させないでほしい。しかし、こんなところに需要があるとは。ポストモダンとそれ以降の日本人の特異性が原因だ。ポストモダンのうごめきにあいふさわしげであると思われた日本人の誰も、議論に参加せず、そのくせ、沈黙の何百万、千数百万人、もっとか、がむすっとしたまま存在している。ベビーブーマーたちは、依然として、最大人口層だ。大東亜戦争の際の、自分の所業を言いたくない兵士たちの沈黙と、ベビーブーマーの沈黙と、何が共通で、何が共通でないのか。


私は、過去の人々の言説を読む。そのために生まれてきたかのように読む。読書の機会と時間を確保するためには現世の劣勢を顧みなかった。実を取るのだ。個にとって、もっとも貴重なのは時間だ。時間をどれだけ確保し、どれだけ本が読めるか。人生における工夫はそれだけだった。私の一生と引き換えに、延々と読んできて、幻想を頭に詰め込んで、さあ、賢くなったか? 否。そのそのたびたびに、愚かしさを、遅れを、思い知らされて、ついに諦観に陥った。もう、なにもやる気がなくなった。読むとは、こんなにも退廃的なことであったのか。この状況、悪習は、アルチュウに、似ていないか?
結果、残ったものがある。これがオリジナル。これだけ読んできても読んだことがないこと。……私だけが知っている。


今は昔、友人のYが、自分の父親の情婦に手を出した、あるいは出された。後に女は、酔った席で、親子どんぶりを頂きました、おいしゅうございました、と笑いながら言ってのけた。
父親は、中小企業の社長で、下司で無教養なオヤジだった。
いいか、ちんぽが腐るほど女は抱かせてやる。あの女だけはやめておけ。
彼女が東京に出奔してきた時、私たちは二十歳そこそこの学生だった。女は、三十八歳。常に和装の、妖艶な美女だった。
飲み過ぎないように、鉢植えのゴムの木の根元に、お客さんの目を盗んで、お酒を捨てていました。あのゴムの木は、どれだけ私のお酒を吸ったでしょう。今どうしているでしょう。
Yが、親父の手下たちが見張っているので、俺の近辺には置けない、かくまってくれ、と言った。私は、ベッドを提供し、自分はソファで寝た。女は、パジャマのかわりの浴衣を着て、眠り姫のように、何日もこんこんと眠り続けた。こちらはもう、気が気でなくて、勉強どころではなかった。学生下宿の共同シャワーで、マスターベーションに励んだ。
時が経った。彼女は、癌を患っていた。子宮癌が、全身に転移していた。
あの時の御恩は、一生、忘れません。
一生。ああ、一生。 Yは、癌であることを彼女に伝えていなかった。私は、彼女の生が、もうすぐ尽きることを知っている。
思い出すと、涙が流れて、とめどもなくなります。
私だって、そうだよ。




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