地下帝国の薄暗闇にやっと目が慣れた頃、部屋に着いた。わずか一日にも満たない不在だったのに、懐かしさに囚われる。同時に、朝帰りの亭主たちが共有する疚しさにも。疚しさと懐かしさには因果関係があるのかもしれない。都会での生活に疚しいところがあるからこそ故郷を懐かしむように。だとすれば、懐かしい、などと不用意には言えないな。
蛍光を放つクマグス粘菌が床以外のすべての面に蔓延っているので、くっきりと照らし出された隅や稜は、部屋の輪郭を明確判明に描き出している。この標準タイプの部屋を刳り貫くのにさえもどれほど多くの奴隷が必要だったことか。
足音を立てないようにそっとヒトミに近づいた。手錠をかけられたように手首を重ねて握り締めた両手から、一歩はなれたところで、石灰の撒かれた床に膝を突いた。枯れた葦で作った、自分のではなく僕のベッドに、痩せた小さな体を埋もらせ、横向きに丸まって眠っている。かつて僕は小川のほとりとこことを行ったり来たりしてこの葦を運んだ。出来上がったベッドで連日陽に焼けた枯れ草の香ばしい匂いを享受したものだった。葦はもう湿気てしまっているので、匂いはとうに失せ、ヒトミの饐えた汗の臭いと体臭が立ち昇ってくるだけだ。
哀れなほど華奢な身体だ。市民とは異なり、黒くて長い産毛に全身が覆われているので、刈り上げたなら、さらに華奢である実像が明らかになるだろう。ヒトミの少年体形は、何に起因するのだろう。過酷な労働と習慣となっている少食のせいで、成長が阻害されたからか。実際まだ少年だからなのか。未だによくわからない。
僕がモーゼに強要した結果、奴隷の身分から解放されたのに、ボランティア奴隷として働き続けている。ボランティアだからといって、特例は一切ない。むしろいじめられる。それでも頑固に活動を止めない。奴隷を天職とでも思っているのだろうか。
右半面しか見えない顔を覗き込むと、長いまつげが朝露の降りた下草のようにまだ涙で濡れており、目の下から頬にかけてがトトラパトラに赤くすりなされている。朝になっても帰ってこなかった僕のせいだ。寝入ったばかりなのだ。寝かせておいてやろう、と思っていると、気配を感じたのだろう、薄目を開けてしまった。最初は横目で見ていながら寝惚けているのか反応がなかった。二度、長い呼吸の往復があった後、枯れた葉や茎を手と尻で押して勢いよく起き、葦のくずを飛び散らせながら抱きついてきた。さらに強まった体臭に鼻腔を刺激されても、ちっとも嫌ではなく、むしろほっとしてしまう。懐かしくさえある。
「タダヨシ、どこに行ってたの? 心配のあまりめそめそしちゃったじゃないか。どうよ。ちょっと懐かしいでしょ」
顎の動きが僕の右肩に伝わってくる。まさか、挑発されているのではあるまいな。
「ああ、懐かしすぎて床を転げまわりそうだよ。行っていた所は十三夜の谷だ。済まなかった。しかし、こういうことはこれからもあるだろう。そのたんびにめそめそするのはめんどくさいぞ。万一どこかでくたばったら、それはそのうちわかるだろう。そのときなら、めそめそしてもいいよ」
背中をさすりながらぞんざいにならない程度にさりげなく言ってやった。内心の動揺を隠しおおせているかどうか、自信がない。
「もう。やなこといわないで。わかったよ。あのさ、どうしてかごを背負っているの?」
「胴乱だよ。スミレが入っている。谷間での用事には、植物採集も含まれていたんでね」
「食べるの?」
「食べない。鑑賞するだけだ」
「ふーん。鑑賞という意味は知っているけれど、実行したことはないな。タダヨシと一緒に鑑賞してみたいや。ところで、十三夜の谷って、リゾート地だそうだね。川になるほど大量のお湯が湧き出てる楽天地なんでしょ?」
右の耳に息を吹き込むようにして言う。何してきたの、とでも追加して聞きたそうに。
「違う。地獄だ。この世のものではないからこそあれほど美しいのだがね。(脳裏にたちまち蘇える紺青の源泉、エメラルドの熱流、カナリア色の川床、抽象を極めたトンネルアート、ゆめまぼろしの湯煙、はっと意識に舞い戻らせるような、轟音立てて吹き上がる間欠泉、……)詳しいことは今度話す(本当に昨晩からのすべてを詳しく話せるのか? 話すじゃなくて告白だろ?)。今は寝てな」 腿にまたがっているヒトミを、脇の下のところで持ち上げてベッドに坐らせると、立ち上がった。
「どこに行くの。また、十三夜の谷に戻るんじゃないの?」 首をかしげた。
「よくわかったね」
「僕を谷に連れてって」 目を大きく見開いた。
「いいから、寝てな」
「いやだ」 口を尖らせた。
「行っても楽しい目にはあわないぞ。ここにいて、寝てろ」
「いやだ」 もっと尖らせた。肩も前後に揺すった
「実は危険なんだ」
「いやだ。美しくて危険だなんて! 絶対行く!」 坐ったままジャンプした。
「じゃ、勝手にしなさい」
余計なことを言ったから、こんなことになってしまった。
僕がヒトミを後ろに従えて部屋を出るとケヤホドが待っていた。入り口を遮蔽している粘土製の板に、幅の広い肩と同じ高さのところで右肘を突いて、体全体をもたれかからせている。右足は、親指の付け根でしか床に接していない。遮蔽板が崩れはしないかな。なにせ、ヘレンの部屋の前の遮蔽板は、酔ったメノトが肩で触れたただけで、部屋の中が外から見えるまでに崩れたのだから。僕は、左の、目蓋の皮膚がよじれて眼窩に詰まっているほうは見ずに、右の、濁った網膜に赤い毛細血管がはびこるギョロ目だけに注目しながら、ヒトミにも聞こえるようにやや声を大きくして言った。
「食糧倉庫に行くぞ」
ケヤホドは肘を下ろしてまっすぐに立つと、ああ、と答え、さらに、「念のため言っとくけどな。お前のことは好きではない」 と言いながら右目を大きく見開いた。眼球が細かく左右に振動しているのがわかった。どこも悪くない、などと威張っていたが、戦場で負った傷は浅くなかったようだ。
「そんなこと、わざわざ言うと、本当は好きなんだと邪推されかねないぞ。僕も君を好きではない。あっ、同じことを言ってしまった。おっと、まあまあ、暴力はよせ」
ケヤホドの右の握りこぶしが下がるのを、二、三歩後退しながら確かめてから、横ずさりして通りの中央に出た。
洞窟の壁や天井に張り付いているのはクマグス粘菌だけではない。多種多様の粘菌や菌類が青や黄やピンクの蛍光を放射しているその中を、前後左右に三の数倍の数の濃淡様々な影を引き連れながら、僕たちは走った。
堀川通りを上がり、三条に出たところで立ち止まった。ひんやりとした微風が懐かしさとないまぜになって右体側に当たる。ちょっと寄るところがある。先に行っててくれ、と疚しさのせいで後ろを見ずに言った。聞こえたかどうか、心もとなかった。
「どこにいくの。胴乱のスミレと関係があるの?」
しょうがない、振り返って言う、「プライヴェイトなことだ。すぐ近くのところに用がある。スミレと関係がある」
しまったと思ったが、もう遅かった。プライヴェイトはないだろう。ほったらかしていたのだから優しい言葉をかけるべきなのに、よりによって蜜月のおぼつかなさをにおわす言葉を発してしまった。ヒトミには、僕との関係以外にプライヴァシーはないのに。すぐ近くもないだろう。指さしたも同然だ。
「あそこだね。僕も行くからねっ。でも、その、プライヴェイトって言葉はどういう意味なの?」
熱心な学ぶ者であるヒトミも、この言葉は聞いたことがなかったのだ。当たり前だ。ないものは聞けない。一時的にだが助かった。
「そうか、うっかりしてたよ。ここにはない言葉だったんだね。いつか説明するけれど、ヒトミには使い道がないだろうね」
大きく開いた潤んだ眼が、不審と不安で複雑に輝いている。その目と、目を合わせたくない。べつに大袈裟なことじゃない、こういうことだよ、たとえば、などと言ってもよかったが、うそ臭いのでやめにした。
「そんなこと言われるとますます興味深くなるなあ。とにかくあそこには行くからねっ」
僕は、プライヴェイトという言葉を発してしまった自分を責める。僕と、ヘレン、アルファ、ベータ、浮舟との関係が、短時間でいかに劇的に進展しても、僕とヒトミとの関係は、固有で不変だ。ここに、相対性を導き入れるのは、ずいぶん勝手な話だ。
「ん――っ。勝手にしなさい」
勝手! ついさっき言ったばかり、今思ったばかりだ。まただ。使い勝手のいい言葉だこと!
三条通りを東へ走る。背後はるか遠くから奴隷集団の歌うヨイトマケの歌が聞こえてくる。つい振り返ってしまうと、三尺後ろにいるヒトミの首と肩のなすL字越しに見え隠れして、一ブロックほど後ろに、ケヤホドもついてきていた。間を空けてついてくるのはヤツの習性なのか?
酔っ払い達が、驚愕の表情を浮かべて僕とヒトミを避けようとするが、哀れにもたいして体は移動しない。こちらが早めに回りこむ。女の姿は見えない。しかし、ソプラノの歌声が、左手と右前方二箇所から、赤ん坊の泣き声に混じって聞こえてくる。
ベッサメ―、ベサメム―チョ―、コモシフェラエスタノ―チェ ラッ ウルティマヴェース…… トイレには―、それはそれはキレイな―、女神様が―、いるんやで―……
愛の行為を促すためには今夜が最後だ明日はないと、汚わい所の清掃を促すためにはそれはきれいな女神がいると、どちらも、喜ばしい効果を得るためなら、反実仮想を利用して憚らないという内容だ。さて、僕の行為は喜ばしい効果を得るだろうか? もし得るならば、何に促されているのか? あるいは誰に? 反実仮想の誰かなんて、まさかいないだろうに?
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