指使いの速さで、チャーリー・パーカーに敵う管楽器奏者はいない。今でもいない。マイルス・デイヴィスは、こりゃかなわんと、路線変更した。キチガイには敵いませんよ。
ところで、昔のLPに録音されたチャーリー・パーカーの演奏を、何分の一かに落とした回転速度で聴くと、ブラームスになるとは、どこかで聞いた噂だ。私も、チャーリー・パーカーを、常々褐色のブラームスだと思ってきた。実際、パーカー自身が語っている。
〝俺はジャズなんか聴かない。聴くのは、ブラームスばかりだ〟
確かに、ブラームスの、半音フェティシズム、中間音への懲り、こだわりから、モダンジャズまで、つまり、シカゴ風のブラック・リズムセクションがバックアップする環境に至るまで、あと一歩だった。
私が、中学一年生のとき、ブラームスの交響曲第一番を聴いて、鼻血を出したことなど、どうでもいい。
心、というあいまいな言葉を使うのをそろそろやめたらどうか? 私、という、私にとってはあいまいな言葉を使うのを、私はそろそろやめるつもりにしている。だが、替わりを按配するのが面倒くさい。つくづく必要悪であったなと思う。
心という単体は存在しない。私が存在しないように。後者は、個体から発生したので、存在は一目瞭然であるとおもわれるが、個体の姿をとって分散を狙うのは生命の戦略の一つに過ぎない。固有の私というのは幻想である。
前者は、記憶が必要条件である複合現象であり、現象としては存在するだろうが、多義すぎてほとんど意味をなさない。こころ、とだけ言われて、わかるか? 私は何のことかまったくわからない。言葉の基本的機能を持っていないではないか。
だがね、心がないと感じられる人(心ない人ではない!)もいるので、だから、心は、ある。
一方、私がないと感じられる人がこれまでの経験でいなかったので、私がない可能性は、ある。全員が何かを信じている場合、それが間違いである可能性は結構高い。例:天動説。
実際、私には私がない。ずっと、あるふりをしてきた。すいませんでした。
利己主義とは、個体利益至上主義だとすると、その意味での利己主義はなぜ生存競争においてまずいか。利己主義に基づく競争は、リーグ戦ではなくトーナメント戦であるので、敗者はサドンデスとなる。参加者Nの内N引く1が消滅するので、総体の持つ情報量が激減する。リーグ戦をとれば、負けても死なない。負けたり勝ったりするうちに合意が生じる(戦いの後の平等)。順位は優位の序列ではあろうが程度の差と見做され、序列は決まっても、参加者=種全体は、情報量を減少させない、むしろ、戦いという経験の分だけ増やす。しばらくすればまたシャッフルすなわち戦いが始まる。
Selfish Geneという名称が誤解を与える理由のひとつがこれだ。
さて。競争が戦いになってしまうのはなぜか。競争が起きる条件とは何か。生存競争は必然か。資本主義は生命モデルだから強いのか。
チック・コリアトリオの演奏をブルーノウト東京で聴いた。センターの、前から四列目、いい席が最後に残っていた。私は昔、キースジャレットと彼とのピアノデュオを、新宿で聴いたことがある。
印象派の系譜であるか、との気もする。年齢による衰えもある。しかし、個性は変わらなかった。非常に不思議である。様々な試みと誘惑を経験したはずなのに、なぜ変わらないか。いったい、個性とは何か。
独特の破調と変則リズムをコムパクトに集中して弾いてみせた。我々は平均律に拘束されているが、それによる閉所恐怖症を突破するヒントがここにある。何十年間にわたる試みの積み重ねを、何ともったいない、あっという間の時間で、他人に聴かせていいのか、などとつじつまの合わない感想を、切実に抱いたのは倒錯的か?
個性は、個人の恣意とは対極的な、歴史の、個人を突破口とした発現である。チック・コリアは、とても体感のいい男で、自分を貫く歴史をひりひり感じ、同化し、表わした。
表わされたものは何か。
終に、これほどまでに、普遍化した、エスニックスピリット。普遍とエスニの合一を、満喫させていただきました。
イスラム教徒が関取になったそうだ。取り組み中に礼拝の時間となったらどうする? 土俵にひざまづいて、アラー、負けちゃった。
八十四歳の老女が3億7千万ドルを宝くじで手に入れた。
「行列に並んでいると、親切な人が、行列の順番を譲ってくれ、私に先に買わせてくれました。」
世の中にはとてつもなく親切な人がいるようだ。
親指一本、あるいは二本で、文を打ち込む煩雑さ、のろさに絶えられない。十本使っても、喋るスピードに追いつくかどうか。もっともっとー。猫の手も借りたいのだよ。
〈老後が惨めである社会のどこが悪いか。非生産的、マイナス生産的で、投資が全く還ってこない浪費を社会に強いる世代は、惨めに扱われて当たり前だろうが。
この主張が間違っている理由。老後が惨めである社会には、住もうとする人間がいなくなる。未来の前倒しが生じてしまい、今も惨めであるかのような仮想性が蔓延し、そんなところには居たくない、と人は思うに至るのだ。ましてや、働き盛りの人間は、辛抱のし甲斐のない、今より惨めな老後が待っているのなら、今も、もうやる気がなくなるのだ。
東京郊外の住宅の庭に狐が出るというテレビ報道を観た。私が居る所も東京郊外で、知人から、庭にハクビシンが毎晩来る、飲み屋から出ると路端に狸がいた、天井に何かが住んでいる、等の話も聞く。多摩川の向こうは里山が連なる。さもありなん。やつらは、川を渡ってくるのだ。私は、警察官たちと一緒に、公園に侵入したイノシシを捜索したことがある。
なぜ、こちらに彼らは来るのか。向こうがマイナス、こちらがプラス、と判断した者が、数は多くはないものの、出始めたのだ。マイナスはなにか、プラスは何か。言葉が通じるものならば、彼ら先駆者たちにインタビューしたいものだ。
小学生の時、叔父の博と一緒に散歩していたところ、高音で長く延びる美しいソプラノを聴いた。人間の女ではない。飼われていた熱帯原産の鳥が、逃げてきて鳴いているのか。いや、鷹かトンビの雛とも思われる。親を呼んでいるのか。
ところが、博叔父は、カエルだと言う。カエルが蛇に食われているのだと。探してみろ、と言われて草むらを分けていったところ、青大将がカエルの上半身を飲み込んでいる最中だった。青大将の、大口開けた奥から聴こえてくる妙なる歌声は、ゲロゲロ、ブーブーの日常とは、何と異なっていたことか。博叔父は、そーら、とニコニコ笑っている。
今思うに、カエルは、蛇の天敵である鷹かトンビを呼んでいたのではないか。雛の振りをして。その声色を、断末魔で、試みていたのではないか。
ボクサー、ジョージ・カーターが、ミドル級のチャンピオンだった頃の話。
彼と僕は、ぶつくさ、お互い夜の商売(僕は予備校の教師)だったので、昼間のうんざりさを嫌がりながら、無意味なおしゃべりをしたものだった。モハメッド・アリが、日本に来た時、スパーリングパートナーだった。
アリは、もう、だめだよ、人に言うなよ。
シャイな、繊細な男だった。ホモではないか、いつやられるかと、警戒してはいたが。
白人のレスラー三人と飲み食いしたことがあった。
言葉も態度も謙虚な男たちだったが、食欲飲欲極めて旺盛、五人分、テーブルいっぱいに、皿とジョッキがひしめき合い、とりかえ取替え、ボーイさんたちが呆れかえり、周りの客たちも呆れ果てていたな。店主が怖がって無料になった。私は、有り金全部置いてきたと思うが。
乳がんと中絶経験との相関を調べよう。中絶経験のない乳がん患者にどう対応するかも考えた上で。ABCリンク。