誰もいないヘレンの部屋に入った。帝国には、帰属観念はあっても所有観念がない。いはんや私有観念においてをや。部屋は誰のものでもなく、先に部屋にいる者が拒否しない限り、どの部屋にでも出入り自由だ。泥棒の存在は原理的にありえない。誰が自分のものを盗むだろうか。

客間の中央に胴乱を下ろしながらの短い時間に、右に左に、特に下に首を回しながら、昨日僕とへレンがいたところを見、そこで話したことやしたこと、しようとしかけたこと、その他いろんなことなどを思い出して……………………、おっとっと、我に返る。

さて、まず、クマグス粘菌に切れ込みを入れて作ったポケットから、萎れたスミレを数本単位で抜きとって、胴乱の傍らに積んでいった。壁と胴乱との間を何度も小走りで往復する。高いところのスミレを抜き取るには、ジャンプ、ジャンプ、またジャンプだ。ヒトミとケヤホドは手持ち無沙汰そうに入り口近くに突っ立っていたが、次に見たときにはともにしゃがんで話し合いをしていた。どうする、とか、言い合っているのかな。その次に、しばし探した後で見たときは手伝ってくれていた。彼らと僕の持ち場はすぐに決まった。ケヤホドがヒトミを肩車することもある。悪いな、君たち。

やっと抜きとりが終わった。多数の切れ込みは、半眼に開いた目蓋のようだ。そこにはただの暗黒が覗いていた。僕は百数十個の黒ベタの半眼に、胡乱気に見つめられていた。眼は口にもなり、その言うことには――、いったいこいつは何をしているんだ? どこのどいつだ?

気を取り直して、胴乱のスミレを一本ずつ挿していった。抜きとったスミレは、短い茎がついているだけだが、挿すスミレは、根こそぎどころか土までこびりついている。持ちごたえがある。これを百数十株も胴乱に入れて担いだのだから、重くて走れなかったのも当たり前だ。

せっかくなら保ちがよいようにと、茎で切らずに丸ごと挿していく。指がたちまち土にまみれ、粘菌の水分に浸されて、さながら田植え中の農婦早乙女の手となる。悪態をつくケヤホドの声とそれをなだめるヒトミの声が聞こえた。

高いところにある切れ目には入れにくい。そこで、何度か失敗した後、ジャンプしてから、目薬を点眼する時のように、左手の親指と人差し指で切れ目をさらに大きく開いておいて、右手に持ったスミレを突き刺すように挿すことにした。タイミングとバランスの取り方はバレーボールにおけるスマッシュに似ている。

数十ほども挿したかと思われた頃、警報のような突然のひどい徒労感に襲われて、がっくりうなだれそうになった。気づかない振りをしてきた或ることに耐えられなくなったのだ。

モーゼはこの部屋にではなく、十三夜の谷に帰ってくる。緊急事態の可能性のある現時点でも、なんらかの意義が、立ち寄ることにあるからだ。モーゼが谷に逗留する可能性は高い。今とり替えているスミレも、彼がここに帰ってくる頃には、抜きとったスミレと同じように萎れてしまっているだろう。僕はいったい何のためにこんなことをしているのか。喜ばしい効果などまったくない。

ヘレンは、最初、メノトとベータを僕たちから隔離する口実として、スミレを採りに十三夜の谷に行くようにとメノトに命じた。記憶が戻った後では、自分もスミレを採りに行くと言った。実はアルファに会うためだった。スミレ採りはこの段階でも口実だった。頭突きでメノトをどやしてトネリに連れて行かせたことを考えると、部屋で完遂しなかったことを、密室ではなく邪魔しそうな者はすぐ見つけることができる広々としたスミレ野で遂げようとヘレンが企んでいたこともわかる。この意味でも口実だった。まったく、こちらのわるだくみの上を行くぞ。あの後、実際スミレ採集をしていれば、僕はそれを持ってこの部屋に帰って来なければならなかった。ヘレンが、放心の表情を浮かべ、立ち上がるのも億劫だという様子を見せ、僕にそうさせなかったのは、僕を浮舟とアルファに会わせたくなったからだ。前から計画していた可能性もある。〝私が足をくじいたので、タダヨシに胴乱で運ばせざるを得なかったのよ、スミレ採集は明日に延期したわ〟 とでもメノトに耳打ちしたのだろう。メノトはその戯言に怒ったり呆れたりしたことだろう (おひー様、あまり調子に乗らないように)。 結局どの場面においてもスミレを採集して壁に飾る行為は、口実としての仮想性しかもっていなかった。一連の結果が出た現在、口実は役割を終え存在理由を失い、出た結果以外の喜ばしい効果なんぞは持ちえなくなった。効果は別のところで現れ、たちまちもう過去のこととなったにもかかわらず、口実を口実ではなく現実に果たすべき課題だとして、今ここで実際実行しているとは、馬鹿げた話だ。今やっている行為に意味はない。そう結論が出たまさにその瞬間、僕は今までで最も高く跳び上がり、最も高い最終ポケットに挿し込んで着地し、取替え作業を完了した。

さらに追い討ちをかけるような、僕を打ちのめす事実に気がついた。挿し終えたスミレは、茎が長いので、萎れたスミレと同じように頭を垂らしてしまうのだ。深呼吸しながら部屋の中央に立って眺めやると、挿しかえる前と後と、光景が同型なのだ。取り替えても意味がなかったことが見ただけでも明らかだった。

また抜き取って、茎を短めに切って挿しなおせ、という悪魔のささやきが脳のどこやらからきこえた。同型の無意味の繰り返しに僕を引き込もうとするのか、この忙しい時に。悪魔の本領。僕は震え上がった。

集めたスミレを胴乱のなかの余ったスミレの上に乱暴に詰め込み、引っ担いだ。慙愧に耐えない。まことに申し訳なかったという気持ちを込めて、ありがとう、と、入り口で待っているヒトミとケヤホドに言葉を掛けたが、騙しているようで疚しくてならない。逃げるように彼らの前を駈け抜けて、倉庫街へと急いだ。

その最中、奇妙な胸騒ぎに襲われた。

後に残してきた、もう誰にも見られずに萎れるしかないはずの、たくさんの無効のスミレたちが、幻想の中に、姿を現したのだ。

口実の手段としての、材料としての、スミレたちは、すべての生き物の持つしぶとさを、こちらの事情などとは関わりなく、示そうとしていた。

クマグス粘菌から、今やようやく吸い上げた水分と養分を全身にみなぎらせ、重そうな青紫色の頭を、かすかに左右に揺らせながら、掛け声を掛け合うようにして、一斉にむくむく持ち上げていくところだった。 ああ。

朱雀大路を突っ切って右京地区に入った。運搬や工作に利用する道具類を格納する物置倉庫が朱雀大路がわの一坊ニ坊に、食料や酒を貯蔵する倉庫が、奥の三坊四坊に並んでいる。三条を西堀川小路で右折し、すぐ左手にある物置に入り、胴乱とほぼ同タイプの、しかし一回り大きな背負いかごを二つ調達し、ヒトミとケヤホドに担がせた。管理しているブラザーとちょっとした押し問答があった。ブラザーは、ぶつくさ言いながら出て行った。それを追うように僕たちも倉庫を出て、三条を西へと進んだ。ブラザーは前方にいない。大内裏に向かっているのだろう。あまりいい気がしない。

乾燥食料庫の一つに入って、その二つのかごに食料を詰めていく。市民は自由に取って行っていいことになっているが、さすがにこれは異例で、そこにいる女たちが僕らを見ながらひそひそばなしを始めた。その女たちに、塩饅頭をわけてくれないかと声を掛けた。饅頭といっても、石で叩いて植物から搾り取った澱粉に泥と岩塩を加えて団子を作り、岩に押し付け張り付け、日干しにした土煎餅だ。女たちは返事をせず互いにつつきあってから出て行った。

作業途中で、ちょっと失礼と言ってから、僕はヒトミとケヤホドを残して三条通に戻った。さらに西へ移動し、怪しい地帯へ入り込んだ。

そこは、酒を溜めた池を擁する部屋すなわち酒蔵がずらり並んだ無料(貨幣がない!)飲食店街であり、ブラザーたちが居住するハーレムが北側に隣接している。酔っ払い男達が大路小路のそこここをゾンビのようによろめき歩いている。ゾンビになってもここに戻ってくるおそれさえある。左京の、枯渇した鴨川沿いのBond Streetは、密造酒を求めて一部の奴隷たちが巣食うエスニックな酒場街であり、市民は近寄らない。

目も頭も痛くなる強烈なにおいに耐えながら、酒蔵のひとつに入る。男たちは酒池を囲んで酒盛りを永遠に続ける気でいる。女が一名だけいた。ホステスではない。男の背後に突っ立っている。倉庫街には、乾燥食料を調達するために、女たちが頻繁にやってくるだが、彼女らはハレの日にしか飲まない。たまに酒蔵に来るのは、亭主を探すためだ。用事があるからさっさと帰って来いと命令したり、場合によっては拉致したりする骨盤が横に堂々と広がったこの女もそうだった。

「何べん言ったらわかんのよ。自分の子でしょ? モウジャが、算数わかんないからもうやんないってよ。ふてくされてんだってば。言ってやってちょうだいよ」と大きな声で言っている。

帝国に学校はない。白っ子たちが主催する定期的な統一センター試験はある。毎回まったく同じ課題が出る。そのための教育はすべて家庭まかせだ。親が、身振りと口伝で教えるのだ。そうだ、子供たちに算盤を教えよう。まず、算盤そのものを作らなければ。木の実食堂に落ちているどんぐりに穴を開け、乾燥させた植物繊維を通して……

女は、胡坐をかいている亭主の肩を拳固で突いた。やせ細った亭主は、無言のままゆっくりと池に頭から落ちていった。周囲はざわついたが、女房は特に慌てず、腿まで酒池に入り、肩甲骨をいっぱいに両側に開いて伸ばしておいてから腕を寄せ、亭主をかかえ上げた。バーテン兼汚物処理係の奴隷が、おつまみを取りに行ってきたところで、この光景を見、手伝いそうな素振りだけした時には、夫婦は池の縁に上がっていた。亭主は両手を突いたまま女房の向こう脛に消防ホースの放水さながらのゲロをごろごろ声を伴って吹きつけた。そして立ち上がり、女房の後について部屋を出て行った。

僕は、彼らが立ち去った後、隙間の開いた池の端に立った。釣られて胃の中の物を空けないように、歯をかみ締めながら、胴乱を床に置くと、両手で抱えて逆さにし、池にスミレを空けた。

おや、酒池の表面で、こぶし大の軽石が、スミレに囲まれて揺れている。十三夜の谷の源泉の湯で、白っ子1の傍らに浮いていたやつ。両生類なのかモーゼなのか判別不可能な彫刻だ。そのモーゼ人形が、胴乱の底に入っていたらしい。溺れる白っ子1が藁の代わりに掴んだような記憶がある。断末魔の白っ子1の指図か? なぜ? トネリが独自の判断で胴乱に入れた? なぜ? ヘレンの機転か? 何を想定して? 

両手で酒池の面を掻いた。右側に反時計回り、左側に時計回りの渦が出来、浮いているスミレと一緒にモーゼ人形が寄ってきた。僕はそれをつかんで、ちらりと見て、やはり両生類かモーゼか判別できないことを確かめてから、床に置いておいた胴乱に入れた。

酒池を取り囲んで坐り、ろれつが回らないのに夢中でおしゃべりしている男たちのうちのだれかが、胴乱を担ぎかけている僕に向かって叫んだ。

「そのくらいじゃあ、色も匂いもつかねえぞ」

「じゃあ、また持ってくるよ」

壁際に重ねてある木の皮を一枚引き抜いて池の傍の床に置いた。いつの間にかおしゃべりがやんでいた。男たちの視線を感じるがそっちは見ない。

スポンジもまた壁際に積んである。時々陽に干すようにしているので、カラカラに乾燥している。

モーゼ人形ぐらいの大きさのブロックを九個抱えて持ってきて、木の皮のそばに置き、ひとつ取って酒池に浸し、沁み込むまでしばらく待つ。池には入らないものの、さっきの女と同じ姿勢だなと意識しながら引き上げて、木の皮に乗せ、それを繰り返した。一段が三個の三段積みとなった。倒れないことを確かめてから、皮の端をつかんで、中腰のまま、ゆるゆると引いていく。

ヒトミとケヤホドは、壁際で作業中だった。僕の荷物を見てぎょっとしたようだ。しかし、各々が、木の皮の端をつかみ、僕が両側からこぼれ落ちないように支え、かごのひとつに入れた。中でやや崩れた。両側に食料を詰めて安定を図らねばならない。相当重くなるはずだ。ケヤホドに担いでもらおう。酒が、積んだ荷物に沁みてしまうのはやむを得ないだろう。塩饅頭に沁みたら? むしろ美味いかもしれない!

失礼とまた言って、僕はヘレンの部屋に駆け戻り、我慢して寝室に入り、床に胴乱を置き、モーゼ人形を取り出し、空になった胴乱を部屋の隅に伏せて置く。ちらりと小山のようなベッドを見てしまう。驚くべきことに、まだ若い薄緑色の葦で作ってあった。

モーゼ人形をここのどこかに置いていこうかと、またちらり、思った。しかし、そうするのは、誰であれ、僕に黙ってこの人形を胴乱に忍ばせた者の、意図に反すると思った。善意であれ悪意であれ僕の恣意は出さずに従っておこう。若干気持ち悪いものの、これを身に付けておこう。

おずおずと巨大ベッドに近づいた。幸い、何のにおいもしなかった。葦を五、六本引き抜くと、寝室を飛び出した。

倉庫街の物置に戻り、背負いかごをつかんで走り出す。ブラザーはいなかった。

ヒトミたちのところへ戻った。二つのかごには既に満杯に食料が詰め込まれていた。チャーの葉で上部が覆われている。僕は新しいかごに乾燥食料を詰め始めた。彼らは、僕が自分で担ぐかごに自分で詰めていると思っているようなので、見ているだけだ。視線は僕の手元ではなく首から胸に下げてあるモーゼ人形に注がれている。三条通りを通過する間に、葦を噛んで作った紐で人形を十字結びにして葦の首輪に結んでおいたのだ。

僕はかごの半分まで食料を入れたところで作業をやめた。満杯にするとヒトミには重過ぎるからだ。ヒトミを見ると、事情が飲み込めたようで、首を横に振っている。

「ヒトミ、十三夜の谷まで担いでいくんだぜ? だいじょうぶか?」

「何言ってんの。僕は、子供の頃から奴隷として鍛えられてきたんだよ。満杯にしてよ。あっ、僕がするよ」

涙ぐましい強がり振りだ。勝手にしなさいとはもう言わなかった。ヒトミが作業をするのを見ることにした。すると、ケヤホドが、手提げの竹かごがあったか、と訊くので、うなづきながら、ケヤホド、おまえもか、と思った。また物置に行って、竹かごを二つ持ってきた。

すべてのかごが満杯になったとき、ヒトミがキャッと叫んで、地中に潜む誰かに足の裏をキリで一突きされたように、ひときわ高く跳び上がった。ケヤホドは舌を打ち鳴らした。振り向いて入り口を見ると、倉庫で番をしていたブラザーに案内されて、リルモーことリトルモーゼが入ってきたところだった。そして、重大場面ではおなじみの、耳を覆いたくなるような、わざとらしい金切り声を上げた。

「お前ら、なにい、してるんだあ―!」