リトルモーゼは、金切り声を張り上げる必要のない通常時だとしても、おまえら、なにい、してるんだ、と、普通のアクセントの範囲内で平坦には言わないはずだ。市民の間に急速に蔓延しつつある新発声法の早くからの感染者であるからだ。もしかしたら創始者かもしれない。この場合では、〝ま”と〝え”と〝な”と〝る”を、一オクターブ上げてしかも裏声で発声する。ヨーデルの裏声、フールレイヒーをやってみせるのだ。おま~え~ら、な~にい、してる~んだ―!。いちいち情動を発露させないではいられないらしい。低高(裏)高(裏)低、高(裏)低低、低低高(裏)低低と、情動をほしいままにあるいは苦しまぎれにのた打ち回らせ、相手の耳に注ぎ込む。下品の無反省な跳梁に、聞いているこちらは耳を覆いたくなる。これもまた帝国で進行する言語退廃化の一事例なのか。
僕は、学習するにつれて、帝国の言語が意志伝達や知識の蓄積という機能を放棄した、日常生活全般をオペラ化せんとする文化財であると気づいた。音楽から生まれた言語はついに音楽に還っていくのだ。生まれた時は生命の力の発露として、還る時は生命の退廃の証として。そして、新発声法は、単なる事例に留まらず、音楽言語の鬼子であり堕落態だ。音楽言語の主流は、繊細微妙化爛熟複雑化を経て自らを武装していくが、新発声法はそうではない。普通の低音、普通の高音、その一オクターブ上の裏声高音。これら三音で多彩だった情動をすべてまかなおうとしている。狭苦しさのあまりのた打ち回る情動を、多彩のまま言語化しようとする意志の行使は、ディスコミュニケイションを解決する手段としては、永久にこれを放棄して顧みないつもりらしい。
僕たちは壁際に並んで立っていた。部屋の三面に沿って、天井近くまで奴隷が採取し乾燥させた食料が積み上げてある。女たちは、欲しい物を指でさして、タコ部屋から連れてきた奴隷に引き抜いてもらう。乾燥はしていてもこれだけの量があるとその複雑な臭いは部屋に充満している。入り口から見て右側の壁の傍に、奥のほうからケヤホド、ヒトミ、僕の順で立っている。足元にはひとつづつ背負い籠が置いてある。リトルモーゼは、入り口から斜めに部屋を横切って僕の数歩前まで歩いてくると立ち止まり、右足に体重をかけ、左足のつま先をちょっと上げ、小首を傾げて僕を見上げながら、両腕を頭の上で組んで大口を開け、あーあと偽のあくびをした。それから、下ろした腕を胸で組み、口はあけたまま体を前後に揺すり始めた。思わせぶりな余裕ありげな素振りを見せつけているが、何かを待っているらしい。
倉庫番は、入り口に向かって左側の壁を背にして、顎を突き出し、やはり腕組みをしながらこちらを遠慮なしに窺っていた。自分がきっかけを作ったのだから、コトの顛末を見届ける権利があると顔に書いてある。その顔は、卑しい好奇心と手柄意識で醜く火照って赤黒くなっている。だが、倉庫番の思惑は外れた。リトルモーゼが後ろを振り向き、頭を左右に振ったからだ。ヤツは見間違いかとさらに顎を前に出し充血した眼を見開いたが、頭が振られ続けているのを見て、腕組みを解き、膨れ上がった不平が漏れ出すような、打ち震えるため息を吐きながら、入り口から出て行こうとして、入ってきた大柄なブラザーとぶつかった。
その男は、黙ったまま倉庫番の両肩を持ってゆっくりと横にどかせた。見たことがある。モーゼのボディ―ガードだ。モーゼ兄弟で、共有しているガ―ドマンなのだろう。
部屋に大股で入ってくると、ケヤホドを見て、目の前を虫が飛びすぎたかのように少しのけぞり、そのせいで一瞬立ち止まった。
僕はもとの姿勢に戻ったリトルモーゼとにらみ合いを続ける。彼を見ながら、視野にはいって来る男たちをも見る。次々に、ボディ―ガード達が入ってきた。最初のヤツが入り口の左側に壁を背にして立つと、その次もその隣、その次もと詰めていき、四名が並んだ。更に入ってきた。入り口に最も近い男が左手を振ったので、五番目は入り口の右側に進んだ。次ぎ、その次。計七名が、入り口を挟んで立ち並んだ。僕が、ヘビの篭から跳びだした時に集団暴行を受けた時の実行者がいた。入り口の右側の一番目に立っている男、すなわち最後に入ってきたやや年配の男だ。荷物を運ぶどころか、あの時と同じように、ぼこぼこにされる可能性が高い。リトルモーゼに跳びかかって人質にするか……
全員がケヤホドを見ている。時々唇が動いているので、前を向いたまま小声で話しているのがわかる。ケヤホドが状況を有利な方向へ変えるかもしれない。門番の男たちはケヤホドを力士だと言っていた。ボディ―ガードの男たちとどんな関係があったのだろう。リトルモーゼは確かめるように振り向いてから顔を僕に向けると喋り始めた。
「な~にしてるかなんてきく~ま~でもな~かったな。だつら~く~しゃたちにくい~も~のをも~っていって、や~つらをみか~た~につけ~よ~うってきだな。あん~な~や~つらしかおま~え~の~みかたにな~るかのうせいのあ~るものはいな~い~んだよ。しに~か~けているんだからみか~た~に~なろうったってなれ~ないがね。おま~え~の~たく~ら~みはむだ~な~ことだ。だ~がな、そのむだは、ほ~うちでき~ない。やって~はこま~る。そんなことをした~ら、や~つらが、し~みんにもど~っちまう。やさ~し~く~いた~わ~ってあげるべきかわ~い~そ~うなし~みんにな~っちまう。あり~え~ないしみんがしゅつ~げ~ん~す~る。そん~な~のはまち~が~いだ。や~つらはも~はやし~みんではな~い。だ~きすべきうら~ぎ~り~も~の~だ」
リトルモーゼは左を向いて肩越しに実際つばを吐いた。そのあと唇をなめまわした。
肩のだるさをほぐすかのように、右肩と左肩を同時に逆向きにまわす。僕も試みてしまった。よく見ると、右肩を上げ左肩を下げ、次に両肩を前に突き出し、次に左肩を上げ右肩を下げ、最後に両肩を後ろに突き出している。………僕も出来るようになった。やつはそれを見ていかにも不服そうに顔をしかめた。おちょくられたと思ったのだ。いや、わるかったな、自分しかできないとでも思っていたのか。
「うら~ぎ~り~も~の~はこう~な~るというみせ~し~め~にはな~るさ。だ~が、な~さけなんぞかけ~るものは、またうら~ぎ~り~も~の~だ。おまえ、な~んで、てでみみ~をふさ~ぐ~んだ。おれのはな~し~をきけ~」
僕は両手を耳から離すと体側に下ろし、口を開く。
「裏切りだなんて。たとえ当人たちがそう言ったとしても、そんなありきたりの図式を前提とするような言葉でこの状況を捉えられるとは思わないな。的外れだよ。第一、何を裏切ったんだ? 裏切られたことになるはずの、意識的な共通の了解がもともとないのに。そんなもので帝国が成り立っているのではない。誰を裏切ったんだ? お互い様かもしれないと思ったことはないのか? 君たちが彼らを裏切ったのかもしれないじゃないか。言っておくけど、僕は彼らを味方につけようなどと思ってはいない。情けをかけようなどとも思っていない。基本的な状況についても、僕個人の彼らに対する思惑についても、君の認識不足にはあきれるばかりだぜ」
こんなことを言って。ますます状況は悪化するぞ、と反省した時、リトルモーゼの顔がふくろうのように急に後頭部になった。いったい何が起きたのだ? あっ、そうか、あぶない。後ろに跳び退いた。首に垂らしたモーゼ人形が胸の前の空中で踊り、回し蹴りを掛けてきたリトルモーゼの右足の踵がそれを払った。右の首筋に擦過感を覚えた。紐は切れ、人形は飛んで乾燥食料の山に当たり、床に転げ落ちた。リトルモーゼは、男たちが発する低いざわめきの中、ゆっくり近寄るとそれを拾った。おや~、これ~は~、とつぶやきながら葦の紐の結び目を解いた。人形は四,五片のかけらとなっていて、そのひとつが粉末とともに床に落ちた。
「あ~にきがじまんにして~ゆ~にうかせて~みせ~び~ら~か~してた。おれ~の~せ~いじゃな~いぜ。おま~え~が~そん~な~とこ~にぶらさげて~たのがわる~いんだ」
だが、リトルモーゼは、腹に肘をくっつけ、両手で人形の破片を掬うように持ち、それを見つめたまま動揺していた。ふいに僕を見上げた。
「あ~にきがきょかしたのか。あ~にきはも~うつ~いたのか」
僕は無言だ。
「とる~すてんがきょかしたのか」
無言。白っ子1の名前がトルステンだったことが明らかとなった。
「ま~さか、ね~えさんが」
無言。ヘレンを姉さんと呼んでいるのか。
リトルモーゼは僕から目をそらし、口を利かなくなった。酔った男たちのおしゃべりや高歌放吟は遠くから聞こえてくるが、この部屋で発生するのは、男たちの控えめな呼吸の音しかない。リトルモーゼは天井と積み上げられた乾燥食料の隙間あたりを見上げている。
急にリトルモーゼは回れ右して入り口に向かって大またで歩き始めた。こちらを振り向かずに怒鳴った。
「いけ~。いけ~。さ~っさとうせ~ろ」

門番たちは昼寝していた。
暗くて涼しい洞窟内からかんかん照りの炎熱の野外に出た。朱雀大路ではかすかにしか聞こえなかったセミの声が、一挙に大音響となって正面からぶつかってきた。まぶしすぎて目を開けられない。薄目で自分の影を見て測ると、既に太陽は南中線から三十度ほど西に傾いていた。地表では一日で最も暑くなる頃だった。明と暗、冷しさと暑さの落差が大きく、体がショック状態になった。足の裏は熱く、腿の辺りまでは見えない湯の川につけたように熱気に包まれた。脚だけは早々と十三夜の谷に着いてしまった感じだ。
往路にかかった時間から推して、ゆっくり歩いたとしても、太陽が六十度傾く前に谷の底までたどり着けるはずだ。ほとんど上りがないのもプラスに働く。時間的に余裕はあるものの、早く着くに越したことはない。荷物は主に乾燥食料なので、スミレを入れた胴乱よりもむしろ軽い。ケヤホド、ヒトミ、僕、の順で走る。

まずケヤホドが参ってきた。さすがに荷物が重すぎたのだ。次にヒトミだ。僕は苦しいが立ち止まるほどではない。僕の成長に合わせて作成されたメニューに従って、体育館で連日訓練をうけられたことに感謝する。泣きながら走っているヒトミを、余計な言葉を掛けずに追い越し、ケヤホドと並ぶ。
「反対したやつらは、お前が間に合わなかったら、ほんとに言いだしっぺの二ギャチ(ああ、止めに入った年長者か)を殺して食いかねないぜ。お前を逃がしてやってから、延々内輪もめが続いたんだ。どれだけ俺たちの心がすさんでいるか、お前にはまだよくわかってないようだな」
「おいおい、おどかすなよ」
「全力で走れ。もう、お前だけで、走れメロスをやるしかしょうがないじゃないか」
僕は思わずケヤホドとは反対側に顔を向けて吹いた。違いが多すぎる。それに、全力で走れとは、妙なことを言うものだ。
黙ってケヤホドをゆっくりと抜いた。

まばらな林の中を走る。影と陽光が不規則にまだらに現れる。軽いが眼痛を感じる。眼痛もまたまだらだ。
今走っている路が尾根を大きく迂回すると、黄緑色した大草原に、谷から上がってくる風のTSUNAMIが、いく筋も走る光景が、展開するはずだ。