生まれて間もない赤ん坊をあやす若々しい母親の肩越しに、そのまた母親である、まだ中年と言ってもいい女性が、孫をのぞき見ながら、ふっしぎねー、とため息をつきつつ、つぶやいた。


サルトルが廃れたのは、主体幻想に対する批判によってだけでなく、彼の言動が、行け行け路線で、単調で能天気で退屈であるところにあった。アンガジェすればするほどいくつかのスローガンに従って動いているだけなのが見え透いてきた(花田清輝に、似たところがある)。彼の実存主義に、先代たちの主張の内のいくつかの部分の強調はあっても、残念ながら独創性はない。マルクス主義者ではなく、ヘーゲル主義者だった。その上、彼のキャラクターが、当人の嫌う振りをしていた俗物臭を、ふんぷんと漂わせていた。ボーヴォワールは、おだてられ騙され洗脳されもてあそばれ利用され裏切られて、かわいそうだったな。サルトルの子を堕胎させられているし。
だが、胡散臭さにも拘らず、私はサルトルを擁護する。男はどう生きるべきかを、詳細に具体的に示してくれた。世界に敢然と立ち向かう生のモデルを実際に生きてやってみせてくれた。わが国で彼と同様な役割を果たしたのは、吉本隆明だろう。戦後の日本男子の誠実と鬱屈と心情にあふれる生を生きて見せた。その混乱や蒙昧もふくめて、さすが、みごとであった。


音が聞こえると音を聴くの違いは、前者が知覚だけの出来事であるのに対して後者が知覚を意識している点だ。意識は何かについての意識だが、意識そのものが、自らについての意識なので、対象である何かを、自己からぐるりと回って自己に返ってくる矢印でいわば貫き、フィルターにかけることによって、その何かを自己化する。これがいわゆる内面化というやつだ。


コギトは実体概念ではない。その通りだ。しかし、ある確信構造の流れがそこにあって、疑い得ないのはそれだけだ、とフッサールは言う、と、某氏は言う。だが、流れではなく、志向対象が志向主体であるというハウリングが問題なのだ。志向している作用と志向されているものがセットになった作用概念としてのコギト、と某氏は、あるいはフッサールは言っているが、あいまいである。パースペクティヴの中に対象との距離がゼロである唯一のもの、思考主体をとらえてしまった異常が、すべての出発点である。近代人の悲劇が始まるのだ。自らを、指す、ぐるりと回ってくる矢に貫かれて、対象は、我に取り込まれ、他人事ではない事態に追い込まれる。ここで、はっと、ああと、なるほどと、等々感じる。この親和感はなんだろう。内在的な確信=クオリアの正体がこれだ。
私に関してのある事実を握るためには、私は他者を通ってこなければならない――サルトル。だが、そうではないのだ。とりちがえている。他者に関しての或る事実を握るためには、私は私を他者に通してこなければならない、だ。


現象学的還元とは単純な、しかし、人間にとっては不可避なことであった。せいぜい確信の共有でしか我々は我流を脱して真理(もどき)を語ることが出来ない。


認識における人間的な限界は当然のことである。自然科学が限界を見やすいものにしている。他の分野では相対的に限界が見えにくい。


知覚=原的所与性は、意識への貢献か? あるいは、憑依か? 


意識とはなにか。見たことも触ったことも写した映像をみたことも誰もないだろうに。がしかし、テレビを観ていると、私自身、僕自身という発言が、耳を聾せんばかりに頻発する。意識とは自己意識のことだから、意識という言葉が頻発していることになる。私自身、という言葉を、私自身は使ったことがないので、不思議でならない。自分は自分を意識しつつ発言していると自分でも確認し、視聴者にもアピールしているのだろう。で、なんのために?


意識は、立ち位置だ。物質ではない。個体が世界でどういう位置を取っているかを、個体自体を認識することによって了解している関係性を謂う。


主観客観問題などという問題はない。大時代的な閑問題だ。問題を一方的に立てたのは主観であって、客観と蔑称された側はただ黙するだけだ。客観とは主観から投げかけられた言いがかりに過ぎないからだ。相手にしているほど閑ではない。
主観が本当に客観に一致するなら、あるいは、客観は主観的に存在するなら、矛盾はありえないことになる。ところが、矛盾は存在する。よって(もう一回!)矛盾。よって帰謬法により、仮定は間違っている。


投企とは、自殺して別の世へ行くこと。この世は、前世での投企の後の惰性態。輪廻転生かくのごときか。勿論冗談だよ。


ハイデッガーは、科学とは無縁の詩人だったのだろう。理系のフッサールとはどうにもあわなかった。脱意識(フッサール)と、意識そのものへの埋没(ハイデッガー)と。あうはずがない。
ハイデッガーには、日々死におびえる原始人の臭いが語りに漂い、まといついている。仏教が好きだったろうね。いかにもだ。


自然科学の介入不可能な場面は多々ある。例えば、対象のない場面。例えば不安。例えば鬱。実はあるがハウリング過程の対象は常に自分なので、自分では、始末に負えない。サイコセラピーを受けるしかない(W)。しかし、心理学の問題ではなく構造的問題なので、麻痺させるよりほか解決法はない(W^2)。
スピーカー、マイク、アンプ、スピーカー……、の循環で、循環するものは音響、波動だ。では、人間の自己言及で循環するものは何か。もの、かどうかの疑問も含めて問う。
答の例、広義の視線(まなざしなどと言うなよ!)


意識の志向性と、パースペクティブは異なる。
前者は心理現象であり、個的で、可変的で、対象を選択できる。後者は関係であり、類的で、不変的で、対象を選択できない。
志向性から脱出できなかったことが、実存主義の限界だった。志向性などまやかしである。騙されてはいけない。
問。騙されてきたのは誰か。
答の例、それを言っちゃあ、おしめえよ。


現代科学も含めてギリシャ以来の学問のヒエラルキーをすべて棚上げにして、問題状況を見てみたら、何が見えるか?


科学的探究の際には、ふと気がつくと、いつの間にかこんなところまで、ただし、程度として、来てしまった、ということがあるが、ハウリング=自己が自己を対象とすること、の場合、自らを追って見逃さずにここまでやってきたので、いつの間にかとかこんなところまでとかは、一切ない。

HOWLは、循環、繰り返しを、唯一の効果とする(TWEETは戻りがない。知覚したものに対する反応である。それだけでは、外化はするが、疎外とならない)。ただし、これが死によって停止すると察知する何者かが存在する。果たしてこの者は、HOWLに対して外在するのか。私、ではないのか。なのに外在するのか。内在すれば、循環過程の中にあるので、察知が出来ない。循環過程の中にあって循環過程を察知するハイパーな循環構造こそが、HOWLの無閒地獄としての面目躍如たる由縁か。

ネヴァーランドにおける無時間性(形式)無歴史性(内容)が、時間性に立脚した実存の存在を許さない。


フッサールの唱える、現象学的還元を経た後に残る形相、存在そのものを具体的に表現したものとして、イデ―ンの文学化として、嘔吐のマロニエの木の根っこほど成功した例は他にない。内容を取りさらわれた存在は、定義上無内容であるはずだが、イデ―ンを具象化すべくサルトルはおびただしい形容詞(句)を使って表現を試みた。無秩序の塊――裸の塊、恐ろしい淫猥な裸形の塊、等々。勿論そのものにおびただしい何事かが内在しているのではなく、サルトルの側が、おびただしい動揺(?)に陥っているかのような振りをしているだけだが。もしかして実は彼が重大な錯覚に陥っている可能性もある。フッサールが想定していたのはマロニエの木の根っこなどではなく数学的事象だったろう。
それにしても、木の根っこには、内容がある。現象学的還元はすべてに渡り徹底的になされるべきであった。残りは形式だけとするべきであった。二者択一しかない。中間はない。イエスかノウかだ。メモリとCPUとのあいだに中間なぞは原理的にはない。

フッサールは、不徹底な、中間的な、妥協的な、純粋意識の本質直感なんぞを残したから、ギリシャ風の観念論に逆戻りしてしまったのだ。(ただし、この半端な禁欲は、筒井康隆氏も述べているように、対象を精選する自然科学者の態度に酷似している。) 私は、ネヴァーランドのある場面で、反省によって生じる構造体が邪魔をして現実が見えなくなっていく不安を述べた。

批判精神にとっては、禁欲主義は金科玉条の規範である。これがなければ論理が働かず、これがなければ、ディルタイ流の内観主義に陥り、さらに劣化すれば、小林秀雄風の、印象放言といざという時の常識すがりつき、に陥るからだ。

本質直感の正体はたわいないものだ。いずれもが数学における主要なモティヴェイションである。一つは帰納法。二つ目には極限移行。三つ目がゲシュタルト。四つ目が集合(そもそも現象学的還元は集合論の精神から生まれた。ある条件を満たすそれら全体のセットを○○とする、カッコでくくる、は、露骨に数学的!)。


は、海以外では不可能である多種多様な化学反応を繰り返すことが出来る実験室だったから、生命誕生の場となった。海のおかげで、熱プラズマではなく、常温でイオンが大量に発生した。これが決定的であった。長期にわたる主体不在の実験室でのイオン反応実験の結果、昇華の果てに、ついに生命に行き着いた。生命発生の後も、海は実験室であり続け、死屍累々の挙句に、進化の大道を見出した。この過程を見て、あいた口がふさがらない。


現生人類が、一時期水中生活をしていたと主張する人々がいる。鯨のように大洋を泳ぐのではなく、水辺近くの浅瀬で水草や貝を採り、砂浜で寝ていたという。直立歩行は、水中で首だけ出して呼吸をする必要性から発生した。体毛がほとんどないのも水中生活の結果だという。さらに私の仮説を付け加えよう。素もぐりをする必要上、呼吸を止めねばならない。この、呼吸を止めておいてから吐くという技能が、言語の発生を可能にしたかな? ヨガの四呼吸法、吐いて止めてを短く四回繰り返す、は、さぞやインドの地で言語の発生育成に力を貸したことだろう! はは。
付記1。
カバ類から現在の鯨まで約五千万年、チンパンジーとヒトが分岐したのが五百万年前。もし人類がカバほど長く水中にいたら、イルカか鯨になっていただろうが、すでに十倍のハンディがついているから無理だね。
付記2。
鳥と鯨の共通点は? もしかしてだが水中生活をしていたある時期の人類との共通点は? 鳥は空中、鯨(人類?)は水中で、浮遊生活をしていることである。無重力状態を日常的に経験する。このことと、音声言語、さらには発語(パロール)の発生には関係がありそうだ。


学生時代に友人のラブレターを代筆したことがあった。書く前に、私は彼が真剣であるのかどうかを厳しく追及した。彼が照れているので、途中で可愛そうになって引き受けた。こういうところが私の甘いところで、以後、苦労することになる。後年、相手の彼女と偶々会った。あなたが書いたのはわかっていた、と言われた。その後、会ったことはない。


上野千鶴子が、男たちはバリケードからベッドへ帰ってきた、と語ったように、その父親たちが大東亜戦争から帰ってきておこなったのと同じことを、息子たちはおこなった。迎え入れた女たちも含めて、戦後の第一次ベビーブーマーたちは、第二次ベビーブームの犯人となった。


内向的な引きこもりオタクだったマイルズ・デイヴィスが、大衆を発見してロッカー化したように、嘔吐なぞを書く内向的引きこもりだったJ・P・サルトルが、大衆を発見してアンガジェし、共産主義者化した。二人とも晩年は、子か孫の世代の若者たちに、魅了されとらえられ感化され利用された。


タダヨシのビュルドュンクスロマンとアンガ―ジュマンとがアウへーベンするように企んでいるのだが。予定調和などではない。だが、まだ、第一部の半ばまでも進んでいない。アウへーベンなどと言うもおこがましい段階だ。


即自は、知覚を持たない、神経系を持たない、持っても、反応しかない。対自は神経系を持つという前提の下で、余剰性によって個体自体、神経系自体を知覚対象にする。

かつてのことわざ、実存が本質に先行するとは、言語以前が言語以降に、時間的にだけではなく存在として先行しているということ。本質はまず言語によって与えられるから。ソシュールが言っていることは、存在が本質化するのは、言葉が生まれるからだ、ということ。かつてのことわざは、実存(すなわち、余剰な神経系=異常発達した脳、かつて或る時、危機を回避するためにフル回転せざるを得なかった脳を持った生物)もまた本質化するためには言葉が要るということだ。言葉は実存を露わにするための道具であった。


我はない、他者はない、意識はない、心はない、死はない。ないないづくしだ。いったいなにがあるの? 生の真っ只中に我々は今あるのにねえ。
答。もの、と、媒体、と、もの同士の配置。あと、愛(W)。
愛ー―、だけが――、生きた―ー、しるし――っ。


交換は、いんちき、ごまかしである。実は騙しあいだ。相手を騙して自分が得をした経緯を交換という偽善的な言葉で糊塗する。疚しさを麻痺させてくれる言葉だ。お互い様がモラルの元となる。モラルはもともと道徳的ではなかったのだ。人はどれほど元から悪いのかねえ。では、実態は、交換とは言わずゲームといえばよいのか? 道徳を犯すようなゲームのモデルがゴマンと発表されたし試された。だが現実ではそうは行かない。違う。ルールが顕在的ではない。裏技にきりがない。異質な行為も入り込みうる。
蕩尽しかないのか?。蕩尽の後、ひっくり返って腹を相手に見せるのだ。相手から文句がでない唯一の戦術。いささか情けない。いや、とても。


死は、これからもお前の内で、こんな風に生きていくぞと、恫喝しながら、近づいてくる。接近してくる死と延びていく生が重なる。おお、絶対矛盾の自己同一!


キャラクターの構成要素。
1、過去。2、パラメータ(特技等)3、心理、性格、つまり、刺激に対する反応の仕方の特異性。4、役割。ポジション。世界との関連性。
いずれも、コミックや通俗小説用だ。いろいろなレベルで起承転結の内にまとめる。機械的に書ける大量消費用のよみもの。何のためにこういうものがあるのかと問うのは野暮だ。馬鹿にしてはいけない。シェイクスピアがこれだったしね。


宮本常一の報告にある、数日徹夜の、泊まりこみの話し合い。直接民主制。寄り合いは、土地に縛られているという圧のせいで開催されるわけではないという。話し合いの挙句に不満ならさっさと移動する。村から立ち去る。


群論の権威、鈴木通夫。鈴木群の説明に至る講義を聴いたことがある。ぺらぺら、ぺらぺら、群そのものが喋っているという感じ。ところが、その独白のような講義がよくわかるようになっていた。どういう仕掛けだったのだろう。
眼鏡をかけた痩せた長身の猫背の方だった。


本質的ではないが、質量を同じとすると、二つの質点は、同じ強さの力で引き付けあう。作用反作用の法則による。近づくにつれてその力は大きくなる。終に極限として、二つがひとつに重なる時、引力は無限大となる。一点(重心)に二つの無限大の大きさの(だから依然として等しい強さだ!)力が反対向きにかかっている。作用反作用がつりあいに化けた。しかし、質点一点がただ単に存在しているのと見かけは同じだ。わずかな質量を持つ物質の核分裂で質量欠損による莫大なエネルギー放出されることは、この思考遊戯の近似的な現実化のひとつだ


女はじっと待っている。亭主が死ぬ時に入るカネを確実に手に入れるために。


昭和○○年の夏は暑かったわ。そうだったわよねえ。あら、あなた、いなかったの、生まれてなかったの? ああ、そうか、そんなこともあるわよねえ。とても暑くて、すごく暑くて。戦争があって。私、どうやって生きていこうかとなやんでたのよ。とてもとても暑くって。けど、若かったもの。あれこれ、工夫したわよ。
とてもとても美しい白髪の老女。
大仏次郎の、上海もののモデルは、私さ。あいつ、いい男だったねえ。
子供も孫も曾孫もいるわよ。息子がもうすぐ迎えに来るわ。あなた、いていいわよ。

かあさん、いい加減にしろよ。
(この男、横顔や体格が大仏次郎に似ていないか。まさかね)
もう、どうなってもいいのよ。