僕が走ってたどっている道は山腹をほぼ水平に巡っている。上空から見ると上半分と下半分との連結部分を左上から右下にかけて斜めに長く引き伸ばしたSの字の形をしているだろう。僕は上半分の左端に近づきつつある。湖に向かって低まっていく尾根をそこで越えるのだ。ジャングル全体が咆哮していると考えたほうがふさわしい蝉の声が、パローレ、パロレ、パローレ、背後と左右から押し寄せるだけでなく、右側斜面の向こうからも、低くなってきた尾根を乗り越えて聞こえ始めた。パローレ。ソシュールが避けたパローレ。発声。蝉の種類は耳で聴き分けられる限りでは四種類だ。振動数の山は、四千五百ヘルツ、五千ヘルツが二つ、九千ヘルツ辺りだ。それぞれほぼD7、D#7、D8に当たる。同一の周波数を持つ二種は、音色とリズムによって、さらに、それぞれが高音部を持ち、そこでは一万ヘルツと一万三千五百ヘルツと異なっているので、区別できる。それぞれに、パローレ。個体数の比は2:1:3:4だが個体総数は、なにせジャングル全体が咆哮しているのだから、計り知れない。一斉に、パローレ。鳴くのは雄だけなので、聴こえる分のほぼ二倍の数の個体が樹にへばりつき腹をうごめかして息を弾ませているはずだ。鳴き声を聴いただけでどいつと交尾するかを決定していく雌の、気合の入った沈黙が、沈黙のパローレが、薄気味悪い。雌たちは、地上に出てきて後のわずかな日数のあいだに、判断し交合し産卵し死なねばならない。さぞや精妙な個体識別機能を持ち、てきぱきと行動しているのだろうう。パロレ、パローレ。僕は、自分が帝国にやってきてから長いあいだ、仲間を個体識別できずにいた。未だにてきぱき行動できないでいる。雌蝉に劣等感を抱いてしまう。パローレ、パロレ、パローレ! 耳をつんざくこの大音声。
Sの字の左端を曲がり切ってしまうと、ヒトミとケヤホドの姿が見えなくなってしまうので、振り向いた。彼らの姿は木立に隠れて見えない。かまわず後ろ向きに走り続けた。密生する照葉樹林に囲まれた水飲み場がSの字の下辺のあたりにある。長く延びた連結部は、丈の高いアカマツが所々に小規模な集落をなす疎林を突き抜けている。かつては池あるいは湿地帯だったと推察される。植物群落の遷移が進んで、現時点では陽樹林の段階にあるのだ。僕は、この山岳地帯の成り立ちを想像した。ひとつの大きな湖か海そのものがリアス式に入り込んだ岸辺に沿ってジャングルの間近に迫っていた。水位が下がるか土地が隆起するかして、谷ごとに池や湖を抱えた森と湖の地となった。さらに変動が進み、湖は遥かかなたに退行し、或る谷は陽樹林帯に、或る谷は熱湯とガスを吐き出す地獄となって、今に至った……。しまった。こんな想像はしなければよかった。大地が褶曲し、三次元の自由度を持って、乗っているものすべてを遊動させると思うまもなく、僕の宿痾が呼び覚まされかける。自らが揺れ動いているという眩暈感と宇宙を漂っているという浮遊感だ。この二つの感じは前者から後者へと連鎖することが多い。僕としては、不安でいたたまれなくなるだけでなく、急いで何か外部の一点に集中して気を逸らさねば発狂を誘発されかねない事態なのだ。
歩一歩と走るにつれて、間を広めたり狭めたりしながら木々が移動して行き、ついにSの字の右端にケヤホドが突っ立っているのが木の間越しに見えた。集中すべき一点が見つかった。僕が見つけたのと同時にケヤホドも僕を見つけたらしい。いままで、立ち止まったままずっと僕を目で探していたのだ。ケヤホドは、両手に提げていた竹かごを地面に置き、足元に背中を丸めてうずくまっているヒトミを右足の甲で蹴った。相変わらずちょっとした日常的な所作でさえ暴力的だ。ヒトミは空を仰ぐように上体をのけぞらせたが僕に合わせる顔がないとでも言うように、意識的にこちらを見ずに顎をひきつけてまたうずくまった。かわいそうに。 そんなこと、思わないでくれ。言われたまま、篭いっぱいに荷を詰めさせてしまった。僕の思慮が足りなかった。その篭の向こうにヒトミは隠れた。
ケヤホドは、両手の甲を上向きにして腕を脇の下に引き寄せると僕に向かって前に突き出した。奇怪なジェスチャーだ。二度三度と繰り返しながら、口を開いたり閉じたりしているので、何か叫んでいるらしい。遠いし、蝉の鳴き声が姦しいので聞こえない。わかった、早く行け、さっさと行け、と言っているのだ。それは、もうわかっている。言われなくてもわかっている。
ケヤホドは、まだ僕がわかっていないと思ったのか、どうしてなのか、今度は手のひらで僕を押すように、ツッパリをやってみせる。さらに、ケヤホドは、路をはずれて熊笹の中を前に進んできた。足を引きずっている。捻挫でもしたのだろう。びっこを引きながら、繰り返し繰り返し繰り返し、両手を交互に前に出す。対戦相手の胸を突きながら寄ってくるように。僕は、引き返して、肩を貸したほうがいいのではないかと思い、立ち止まった。すると、ケヤホドも立ち止まり、屈んで得意の武器である石を拾い、僕に向かって投げつけた。届くような距離ではない。意思表示だ。ぐずぐずしている僕に腹を立てているようだ。石は近くのコナラの木に当たり、数枚の葉と数匹の蝉を散らせた。ケヤホドの声は聞こえないのに、蝉の逃亡の際の鳴き声はかすかに聞こえた。ちぃーーー。
僕は、漠然とした不審を抱きながら、前を向いて再び走り始めた。
Sの字の左端を曲がり切ってしまうと、ヒトミとケヤホドの姿が見えなくなってしまうので、振り向いた。彼らの姿は木立に隠れて見えない。かまわず後ろ向きに走り続けた。密生する照葉樹林に囲まれた水飲み場がSの字の下辺のあたりにある。長く延びた連結部は、丈の高いアカマツが所々に小規模な集落をなす疎林を突き抜けている。かつては池あるいは湿地帯だったと推察される。植物群落の遷移が進んで、現時点では陽樹林の段階にあるのだ。僕は、この山岳地帯の成り立ちを想像した。ひとつの大きな湖か海そのものがリアス式に入り込んだ岸辺に沿ってジャングルの間近に迫っていた。水位が下がるか土地が隆起するかして、谷ごとに池や湖を抱えた森と湖の地となった。さらに変動が進み、湖は遥かかなたに退行し、或る谷は陽樹林帯に、或る谷は熱湯とガスを吐き出す地獄となって、今に至った……。しまった。こんな想像はしなければよかった。大地が褶曲し、三次元の自由度を持って、乗っているものすべてを遊動させると思うまもなく、僕の宿痾が呼び覚まされかける。自らが揺れ動いているという眩暈感と宇宙を漂っているという浮遊感だ。この二つの感じは前者から後者へと連鎖することが多い。僕としては、不安でいたたまれなくなるだけでなく、急いで何か外部の一点に集中して気を逸らさねば発狂を誘発されかねない事態なのだ。
歩一歩と走るにつれて、間を広めたり狭めたりしながら木々が移動して行き、ついにSの字の右端にケヤホドが突っ立っているのが木の間越しに見えた。集中すべき一点が見つかった。僕が見つけたのと同時にケヤホドも僕を見つけたらしい。いままで、立ち止まったままずっと僕を目で探していたのだ。ケヤホドは、両手に提げていた竹かごを地面に置き、足元に背中を丸めてうずくまっているヒトミを右足の甲で蹴った。相変わらずちょっとした日常的な所作でさえ暴力的だ。ヒトミは空を仰ぐように上体をのけぞらせたが僕に合わせる顔がないとでも言うように、意識的にこちらを見ずに顎をひきつけてまたうずくまった。かわいそうに。 そんなこと、思わないでくれ。言われたまま、篭いっぱいに荷を詰めさせてしまった。僕の思慮が足りなかった。その篭の向こうにヒトミは隠れた。
ケヤホドは、両手の甲を上向きにして腕を脇の下に引き寄せると僕に向かって前に突き出した。奇怪なジェスチャーだ。二度三度と繰り返しながら、口を開いたり閉じたりしているので、何か叫んでいるらしい。遠いし、蝉の鳴き声が姦しいので聞こえない。わかった、早く行け、さっさと行け、と言っているのだ。それは、もうわかっている。言われなくてもわかっている。
ケヤホドは、まだ僕がわかっていないと思ったのか、どうしてなのか、今度は手のひらで僕を押すように、ツッパリをやってみせる。さらに、ケヤホドは、路をはずれて熊笹の中を前に進んできた。足を引きずっている。捻挫でもしたのだろう。びっこを引きながら、繰り返し繰り返し繰り返し、両手を交互に前に出す。対戦相手の胸を突きながら寄ってくるように。僕は、引き返して、肩を貸したほうがいいのではないかと思い、立ち止まった。すると、ケヤホドも立ち止まり、屈んで得意の武器である石を拾い、僕に向かって投げつけた。届くような距離ではない。意思表示だ。ぐずぐずしている僕に腹を立てているようだ。石は近くのコナラの木に当たり、数枚の葉と数匹の蝉を散らせた。ケヤホドの声は聞こえないのに、蝉の逃亡の際の鳴き声はかすかに聞こえた。ちぃーーー。
僕は、漠然とした不審を抱きながら、前を向いて再び走り始めた。