地球が西から東に向けて自転するにつれて太陽も月も含めてすべての天体が見かけの上では東から西へと逆向きに回転するように、僕が路に沿って尾根を時計回りに迂回するにつれて風景全体が反時計回りに回転していく。眼球と視界に関するこの地動説を、僕は強迫神経症さながら、しょっちゅう意識してしまう。

今まで部分的にしか見えていなかったジャングルが全身を現しつつあった。そのかなたには、何枚も端同士を糊付けした千代紙を垂直に立てたような山並みが横たわっている。炎天の霞のせいで一様に灰青色に染まっているから、いくら目を凝らしても糊付けしたつなぎ目がみつからない。現実性を失ったペイパーマウンテンズ。ジャングルと山並みを水平に切り分けているのは、銀色にきらめく湖面だ。切り口が鋭すぎて、彼岸の山並みが、此岸のジャングルの上方に跳ねたまま浮かんでいるように見える。湖の左端には滝があり、右端には施設アメリカがあるはずだ。どちらも今は叢林に隠れて見えないが。青空以外、見える限りの現象は、陽炎のフィルターを通してしか見えないので、小刻みに揺らいでいる。今ジャングルの一角から奇声を上げて飛び立った何者かも、痙攣しながら上昇するので、飛跡は微細なジグザグ模様となる。勿論飛び立たないまま奇声を発している者たちがほとんどで、ジャングルのあちらこちらからもぐらたたきゲームのように声だけが頭を出しては引っ込む。ジャングル全体の咆哮である蝉の声にとって、奇声はさしずめ合いの手か掛け声だ。(うるさ)過ぎてイライラのあまり切れた動物の罵声ともとれる。

視野の右端に、十三夜の谷を隔てて傾斜する尾根が見えてきた。それは、徐々に高まりながら移動し、僕の正面で止まった。尾根の斜面は僕の立っている斜面のほぼ鏡像であり、それぞれがおのれの写し姿にすくみあっている。右手の谷の行き止まりには垂直に石灰岩の岩壁が立ちはだかる。昨晩は、浴びる月光をにぶく怪しい反射光に変えていたが、今は炎天下まぶしいほどに白く輝き、水平の断層面に沿って幅の狭い影を作るだけだ。その影は幾ペアもの細めた目のようで、顔を白塗りにした帝国兵士たちが顔を寄せ合い目を細めて、赤目族の潜む左手下方のジャングルと遥かな湖面を見下ろしているかのようだ。そのぴんと張った架空の視線の内の一本を緩めて地に垂らして少々左右に揺すると、その曲線上に、コバルトブルーの湯の池と、黄色いヘビのようにうねうねと延びる湯の川が載る。時々光るヘビのウロコの、色はエメラルド。それらを眺めている僕の視線を手前に引き寄せると、黄色から代謝色に変わる河川敷を横断し、石ころと岩だらけの急斜面を駆け上り、官能のスミレ畑でせわしく作業する今日の午前の僕を幻視してしまう。不思議にも、黄緑色の草原は、草津波をひき起こすどころか、そよとも動かずにしんとしている。草原だけでなく風景が完全な3D静止画像だ。蝉の声は渓谷の斜面たちが形成する山びこアンプで目いっぱい増幅されて今や絶叫に近いのに。

渓谷全域を充填する空白の鯨が水底に腹を付けてじっと何かを窺っている感じがする。

昨晩尾根を巡った直後には、夜であっても偶々気象のせいで緩やかな風が湖から谷へ吹き込んでいた。一般には、風の向きが変わるのは朝晩二回で、その時は無風状態になる。昼は谷風が吹き上げてくるはずだ。真っ昼間に風がやんで平衡を保っているとは不思議な現象だ。谷底が地熱によって温まっているという特殊性がその理由だろうか。昼に山腹が温められると、山腹と谷底の温度がほぼ等しくなるから風が止むのだろうか?

草原に足を踏み込む。たちまちイナゴ、コオロギ、それにキチキチ音を立てながら飛ぶ何かが三方向に跳び散り、モンシロチョウが舞い上がった。

僕は雨水の溜まった道をしぶきを跳ね上げながら走るように走る。走っているぶんだけ風が起きる。

斜面が徐々に急になってきた。足の指が地面をしっかりつかめなくなってきたなと警戒しスピードと腰を落とし始めた矢先に、しまった、すっころんだ。右足の踵を突いた瞬間に出た草汁に滑って尻餅をついてしまった。篭もまた尻餅をつき、その上に僕が背中から乗っかった。篭は音を立てて歪み、中身がこぼれ出た音も聞こえた。すぐさま体を横に転がして立ち上がろうとしたが、その最中にも荷が耳や首の背後をこすりながらこぼれ落ちた。立ち上がって散らばった荷を見下ろし、一瞬考えた。このまま放っておいて先に進もうか、拾って詰め直そうか。結局、篭を草の上に降ろし、左手で背負い紐の根元をつかんだまま、午前中にスミレを引っこ抜いた際とよく似た姿勢をとり、右手で荷を拾っては体重を加えて篭に押し込んでいく。草の間にまぎれ込んだ千切れたチャーの葉はそのままにしておいて背負い紐に腕を通し籠を担いで立ち上がった。

常春色したスミレ畑をかなたに見ながら、二度と転倒しないように、状態を前にかがめ、膝を折り、横歩きで進む。

草原が尽き、硫黄のかさぶたを被った軽石と砂礫からなる不毛地帯に入った。足の裏が温まって痒くなる。足に接触する軽石には、乾いた音を立てながら潰されるのと、どけられるだけなのと、谷底へ転がり落ちるのとがある。手で掻く代わりに足の裏を接触面に小刻みにこするので転がり落ちる軽石が増えてきた。

横歩きでも危うくなってきた。そっと山側に向かって手を突き、荷がこぼれないことを確かめてから、四つんばいで後ろ向きに下りることにした。スピードはかなり落ちるが、安心できる。草原でもガレ場でも昨夜は横や後ろに姿勢を変えることなくずっと安全確実に下ることが出来た。ヘレンほどに重いと、一歩一歩の足が杭を打ち込むように地面にめり込んだからだろう。

陽光を浴びて後頭部とうなじが熱い。体の下には自分の影ができている。その影の上に汗のしずくが垂れる。体が斜面を下るにつれて汗の跡が日向に出てきたので軽石や砂礫に黒い点々で印付けているのがわかる。その点を遡行的に追って顔を上げていくと、黄緑色の草原の真ん中に血溜まりのようなスミレ畑が見えた。そのまた真ん中に突き出ている岩が見えた。その陰に坐っているヘレンと僕までが見えるような、さらには、ヘレンが立ち上がって僕の太腿の間に坐り直しかけているような気がした。

ほぼ間違いなくヘレンだろう、モーゼ人形を胴乱に忍ばせたのは。僕に拒否される可能性を避けて黙ってやったのだろう。もし計画を話されていたら、馬鹿な僕は、拒否するというよりは、強がりの笑いを笑ったことだろう。だが、結果はすで出ている。ヘレンのアイディアのおかげで切り抜けられたのだった。湯の川の向こうで再びヘレンに会うとき、僕はいったいどんな顔をして何と言ったらいいのだろう。

食糧倉庫でのヘレン効果は、モーゼ人形に留まらない。僕は、裏切りだなんて的外れだ、とリトルモーゼに啖呵を切った。裏切られたことになるはずの、意識的な共通の了解がもともとないのに、と理由を付け加えた。ところが、今朝ヘレンは僕に語ったのだった。あのねえ、タダヨシ。裏切りという言葉が意味を持つのは、当事者同士が、ともに同じ期間に記憶をたもち続けているという条件の下でだけなの。例えばあなたと私の間柄はその条件を満たしているわねっ。ヘレンが述べたのは、広い意味での裏切りが意味を持つための、状況がもつべき条件だ。僕の啖呵は、狭い意識的契約的意味での裏切りが意味を持つための条件だ。つまり、ヘレンが僕に語った記憶、僕がリトルモーゼに啖呵として使った意識的了解、ともに裏切りが意味を持つための二つの必要条件だ。しかし、ヘレンが語った記憶を僕が記憶していなかったら、いわば、ヘレンを脳内に保持していなかったならば、リトルモーゼに啖呵は切れなかった。僕は、確信を伴う直観として、自分の言葉として、リトルモーゼに言い放ったが、実は僕の脳内に内在化しているヘレンがそう言ったのではないか? ああ言ったヘレンはこうも言い得ただろうに。では、僕の機能は何か。ヘレンあるいはヘレンの発言を保持し拡大する培養器に過ぎないのではないか? 僕には、自分が固有の言動を振るって自分を維持してきたという自信がない。今日半日のことに限っても、二ジャチがいなければ、ヘレンが人形を胴乱に忍ばせなければ、どうなっていたことか。さらに言ってしまえばおしまいだが、ニンテンドーがなければ、ここに居ることさえ出来ない。僕は他者のおかげで今日まで生き延びてきたのだ。僕は、僕以外の者、生者は父(恐らくは生きている)とへレンだけで、他は死者たちと、脳内で共同生活をしている気がする。いやいや、そこに僕がいるかどうか怪しい。僕が、自己の存在は疑わしと思ってきたからだ。だから、僕には自信がない。セルフがないのにセルフコンフィデンスがあるはずがない。では、僕を行動に駆り立てるものは何か。自信に裏付けられた行動ではない僕の行動を、僕ではない誰が支配しているのか。誰が? 僕には父も含めて彼らしかいない。僕は、直接経験が残した痕跡である記憶と、現実には死んだが脳内では生きている者たちの記憶と、今生きている者達の刻々蓄積されつつある記憶の複合体なのだろう。もし彼らにもセルフがないとしたらどうだろう。彼らを動かす多くのなにものかのまた複合によって動くのが僕だ。それらなにものかの全体は、行く川の流れのようなものか、ごうごうと音を立てて落ちる滝のようなものか。両方ともちがう。比喩でさえない。特定の個体の動きには、川や滝の持つ恒常性がない。同型多数の原理とは正反対で、それぞれは一回限りだ。だからこそ、その時その場で選択し判断を下し行動するなどという牧歌的な錯覚に陥る危険が大きいのだ。すぐに肥大する自己をまたぞろ導入するという愚行によろめきがちだ。もっと簡単なのは神の導入だ。自己も神も禁じ手にすると、では結局何か。複合でありながら特定である、それ、は何か。これからの実践と実感が、多くの失敗が、僕に教えるだろう。