尻の位置が上がり頭の位置が下がるようになったので、斜面がゆるくなり、川原に近づいたのがわかった。立ち止まり、体を起こした。川のほうに向くと、扇子を開いて垂直に立てたような岩が、川平行に何枚も聳え立っている。十三夜の谷の玄関だ。ステゴザウルスが何頭も背中だけ出して埋まっているみたいだ。背びれは湯の蒸気で濡れそぼり、水滴を引いているので生々しい。地中のステゴザウルスも生きていて、今にも立ち上がりそうだ。ほぼ十三枚の背びれの隙間を右に左にと縫って川原へ出た。まっすぐに行くと、湯の川と垂直に出合うだろう。そこには、ゆ、と書かれた大看板の残骸がある。僕はそこではなく、川原を斜めに横切って下流へ向かおうとしていた。

その時、極めて強烈な衝撃を、どこにだかわからないままに受けた。またもや隕石に当たったのかと思ったほどだ。だが外部からの物理的打撃ではない。極めて強烈な不安に駆られる。何故だろう。衝撃は連続的な全身の苦痛となり、どんどん強まり、胸が苦しくなってきた。吐き気がする。

何が原因なのか、急いで見つけて手を打たねばならない。さもないと、失神する。疲労のせいで心房細動が起きたのか? 違う。内臓の異変でもない。脳が、感覚神経が、おかしい。どこがおかしいのか?

ああ、視野の上半分が、いつのまにか暗くなっている。視覚をやられたのか。網膜はく離か。脳をやられたのか。くも膜下出血か。ところが、そうではなかった。

四つん這いになる前までは、午後の陽光に照り輝いていた川向こうの斜面が、全面真っ暗になっている! 

それぞれ色鮮やかに、第一層は代赭色、第二層は淡緑色、第三層は暗緑色と、明確な水平の境界線によって区切られていた斜面が、マスクをはらりと落としたように、素顔の闇を突き出していた。

Oh, my gosh! こんなことがありうるのか。

続けて、もっと奇怪なことが起きた。

真っ暗な斜面がずり落ちてきたのだ。

なんじゃー、こりゃー!。

川原の砂利、石、そびえる岩を次々に呑み込んで、黒いTSUNAMIが、押し寄せてきた。波頭が、川の上流から下流までをほぼ直線に繋いで川原を掃きながら、こちらに向かって驀進してきた。

待てよ。これは見たことがあるぞ。デジャヴュを感じる。いつだったか。雨、震えるヒトミ、黒雲、雷、カラカリカリカルカレカレ、いやいや近いがその前だった。おお、思い出した。広場から見える湖面の上を背後の山地の影が渡って行ったのではなかったか。かつて、反対側、つまり影の元の側にいて同様の現象を見たことがあったのだ。なんで、どうして、前もって思い出せなかったのか。

波頭は、幽霊のように半透明な広葉樹林が重なり合う、向かいの尾根の山の端の投影像だ。黒いTSUNAMIは、川原の凹凸に姿を合わせて、歓喜する悪魔のように踊りながら近づいてきて、湯の川を身を低めてたちまち走り渡るやいなや、僕をとらえて暗闇の中に引きずり込んだ。僕は黒い浪に呑み込まれた。息が詰まった。

はっと思って息を継ぎ、振り向くと、黒いTSUNAMIはステゴザウルスの背びれを覆い、さっき僕が降りてきた斜面を駆け上がっていく。

むなしくその先の空を振り仰ぐと、まぶしい青空のどこにも太陽は見当たらない。せいぜい午後の紅茶の時間なのに、夜が来てしまったのだ。

ケヤホドが全力で走れと言った意味、足を引きずりながら叫び、突っ張りのジェスチャーをし、最後は石を投げつけてきた意味が、残念無念、今になってわかった。

夕方までに食料を持ってくるのが約束だった。

ということは!

僕は、食料を持ってきたぞ、と大声で繰り返し叫びつつ、下流に向かってこけつまろびつ走る。小便をちびり、膝や足の甲にひっかけながら走る。

見つけた。十名を超える男たちが水辺で輪を作ってうずくまっていた。何度呼びかけても見向きもしない。石を投げた。いくつも投げた。当たっている。しかし、何の効果もない。夢中なのだ。石など痛くも痒くもないらしい。


ケヤホドは、もう、お前だけで、走れメロスをやるしかしょうがないじゃないか、と言った。だが、メロスは間に合わなかった。英雄が赤面する場面はない。顔面蒼白であるはずの愚か者は、ただ立ちすくむのみだ。