夏休みだなあ。
軽井沢のバンガローにしばらくいたことがある。隣には、どこかの大学の助教授が長逗留していた。毎晩話しをしたが、何を話したのか、よく覚えていない。絶世の美女、お月様=美智子が舞っていたといわれていたテニスコートは覚えている。
志賀高原に1ヶ月半いたときは、英米文学専攻の研究者と仲良くなった。チャタレー夫人とモビ亻ディック(彼の修論のテーマ)と、不思議なことには純粋理性批判を酒の肴に、ひと夏を過ごした。
もう、ああいう人たちと直接会う夏がなくなって久しい。
僕が、間違っているのかな。


歴史あるいは記憶のないことによってもたらされる平安と、それらがあることによってもたらされる苦痛と、どちらを選ぶかと言われたら、苦痛を選ぶだろう。あなたも私も。


私は、大学対抗の野球試合で、臨時のピッチャーを演じたことがある。相手は筑波大だった。球は速かったと思うが、異常なほどのノーコン。打者の背中を球がかすめる。打者がくねくね踊る。試合が止まってしまった。三番サード中西君、などと放送されても、中西君は出てこない。あれ、あいつ、痛そうだから、危険だから、替えてくれ。敵陣皆んなの一致した意見だった。四回表を終わったところで降板。マウンドから踏み出したスパイクの右足の甲を覚えている。その後の人生の何度かの降板の、初めの一歩だったかな?


SEXに見返りを求めることを卑しむのがモラル? 見返りを求めるために性行為をするのが生き物だろうに。交換という観念が、この場合、適用可能かな? 交換の本質が騙しあいであるように、性交渉も、騙しあいであって、交換であるための必要条件を満たしているのかな? 
両者が相手に提示し、両者にもたらされる商品は何か。取引の段階では空想的な、自分たちの子孫である。
SEXの場合、特異的なのは、商品が取引相手のそれぞれに別物として引き取られるのではなく、同一のものが引き取られずに、共有されるという点だ。さあ、これが商取引と言えるだろうか。
むしろ、商取引の形式がそれ以前の社会形態に入り込んで結婚までも商取引モデルにひきつけ、そこで利益を得られるというだけの理由で、交換関係を血縁共同体に持ち込んだのだ。この事態を見よ!
いったい、こうして得られる利益とは、だれの、どんな価値判断によるものなのか。やってる当事者が裏切られる、どこかに行く利益とは何か。
利益など考えなかったのに、利益が入ってきて、利益がどこかにいってしまうというこの事態は何か。利益に価値があるのか? 不可思議な利益不等式、それによるうごめき。なぜこんなことにつきあわないといけないのだよ。


情緒が上等で、感情は下等だ、とは、その発現の強度で仕分けられた。
はっきりしている。強いほうが下等だ。
情緒は、何があろうと、どこにいようと不変であり、感情は個別の状況に応じて、大きく変化する。したがって、情緒の普遍に比べると、感情は刻々場所々々に応じる分だけ下品だ。だから、具体に即せねばならない文学は下品だということになる。確かにいくらでも下品になりうる。ガルガンチュアは、当時としてもどのくらい下品だったことか。しかし、情緒が、嗜眠性脳炎の別称であるかもしれない。岡潔が、吉田洋一の奥方に、そうなじられていた。下品と脳炎の品評結果は如何なんぞ、関心がない。違いがはっきりしているから。下品は勘弁してくれ。


私は、岡潔が、木魚を叩きつづけた壮絶な晩年を、知のひとつのあり方だと思って尊んでいる。ひとつの、である。真似しないように気をつけている。
数学については、フランス人が最新兵器を使って岡の多変数関数論をうまく噛み砕いて発表してしまって岡の神秘性が失われた。一部のガイジンは、多くの日本人のようにアイディアを盗むのに長けているな、ずるいな。まあ、いまどこでもやっているがね。


凋落しかけのテレビにも歓迎する傾向はある。
権威とされる学者専門家を招いて、ご高説を賜わる番組がおもしろい。
ありふれたことをいかにえらそうに言うか(次に、こう言うぜ、ほら言った。ちょっと知られていないことを言ったつもりでも、それは当人だけで、こちらはネタを知っているよ。だめだね。パクリ満載)、簡単に反論されうる自説をいかにもったいぶって言うか(反例、すぐ十っ個、みつかった。説になっていないがさつな思いつき)、論理が初等的にいかにまちがっているか(必要、十分、否定、対偶とか、中三高一のとき、わからなかったんだね。その当時わからなかったとしても、その後になぜ必要だと感じなかったのか?)、等々。彼らの馬脚を露わにせんとするディレクターたちの、下心がみえみえで、たのもしいかぎりだ。とくに、いかがわしい作家たちをおだてては出す諸氏には頭が下がる。テレビの前の市民らは、野次り、嘲笑し、安堵し、芸人を超えていると賞賛さえもする。そうするのは市民の天与の権利である。


大学二年のとき、数学演習の時間に、毎回黒板の前に出て、解答と説明をやっていた。二コマ通しのその時間、複数回、あるいは、連続でずっと出ていたこともあった。演習が始まってまだ二、三回目ぐらいの時に、担当の助手が、あなた、何という名前ですかと聞いてきたので、言うと、手帳に書き付けていた。
○○○○○○知ってますか? 私は未熟者だった。いえ、知りません。
さらに、しばらくして、その助手は、自分と交代ごうたいで演習講義を持たないか、と言ってきた。向こうはサボりたいからなのだろう。断った。
ところが、年月が過ぎ、私は突然数学を一切がっさい忘れてしまう。歩けなくなるくらい体調が悪くなった。ちょっと手を伸ばすことさえ出来ない。
膠原病の疑いがあるといわれ、東大病院第二内科(だったっけ)に入院させられてしまった。しばらくして民間の病院に移された。そこの副院長は、後から聞いた話だが、こりゃあ死ぬなと思ったと、私に告げた。
今は元気だ。ほぼ毎日スポーツジムに通っている。よくまあ無事に生還できたなあ。何のおかげだったのか。偶然、誤診、神? どこのどなたか知らねども、もったいなさに、涙ながる。
ところで、膠原病と数学の関係は、一体なんだったのだろうか。
今、偶々、テレビを観ている。記憶が飛ぶ女性の症状を、ドクターたちが診断するという内容だ。膠原病の可能性があるという意見がある。他人事とは思えんね。


リバタリアンはヤンキー・ペドラー(東部からやってきたイカサマ行商人)の末裔だ。違いは、笑い事では済まないところだ。
さて、オコナーの短編に、善良な田舎者と題した作品がある。聖書の売り込み人が、善良な田舎者=地の塩を騙していく。自分も地の塩である振りをして。
善良な田舎者ではないと自分では思っている孤立したインテリ女に対して、行商人は、その知的スノッブにつけ込む。リバタリアンが急進的個人主義の哲学でもって現代の知的スノッブを騙したように、ナイーヴさと宗教を手段として彼女を騙す。行商人は、その知的スノッブの、なんとまあ、恥ずかしい義足を、彼女にとっての魂を、だましとる。売買の素振りをかなぐり捨て、盗んで逃げる。
リバタリアンがうまくやりおおせたのは、一方で無知で善良な田舎者を、他方で教養ゆたかな知的スノッブを、ともに騙くらわせたところにある。みなさん、やられたね。


私は、商取引に平等はないと思っている。あるとすれば騙しあいの意識においてだ。両方ともしたたか者である限りでの惨憺たる平等はありうる。(等価)交換も机上の空論だと思っている。等価であれば交換への駆逐力が存在しない。等価は、交換の結果をサーヴェイした時にのみ認めうるが、交換に終わりはないので、等価はない。


昔、構造主義を、死後硬直と評したところ、その言い方、もらった、と叫んだ詩人がいたな。


いったいこれは、男子校の乱痴気修学旅行か。駅も役所も工場も、生鮭をかじりながら、ウォッカをラッパ呑みしながら、裸足の、十七、八の少年ソ連兵が、奇声を上げて、蹂躙していく。
アメリカ合衆国よりも新しい国、国の体裁をとるかどうかもわからない新天地をつくろうと思って満州にやってきたのに。私たちの青春は無駄についえた。あなたと私は今ここで別れなければなりません。平和になるまで、十年では無理だ。二十年後、標準時の今日と同じ月日。昼の十二時。あなたと私は駅前のここで会います。女は悲運をあっさりと伝えた。男が何十回も見て、なじんでいる微笑を浮かべた。唇を少し突き出した微笑。その時まで生きていてね。きっと、来てね。
吉林省は豊かだ。この市の駅前ロータリーには、日本製の自動車も走っている。朝市場は、もうそろそろしまい仕度をしている。ロータリーの真ん中には人工池がしつらえてあり、砂岩を積んで磨いた縁に中年後半とおぼしき日本人の男が坐っている。何度も現地人が話しかける。中国服を着ているが日本人であるとわかるらしい。男はちょっと笑うが長く応じない。しわは深く、白髪も多い。池の周辺から中央に向かって噴水が上がっている。男はそれを背にして、膝に肘を突いている。噴水は高々と上がり、中央の最頂点で交錯し、真上からの日光を浴びて、虹を浮かべる。池に入って水遊びをしている子供たちや、その母親たちは、時々身をそらし、声をあげて虹をたたえる。その噴水すべてが絡まって落下し、注ぐものがある。池の中央にソ連進駐時代に作られた女神像が取り壊されずに立っている。次の戦争までの平和を保障するかのように、片手で天を指し、もう一方の手で地を制し、かすかに笑いかける。男の背中へ。男は気づかない。腕時計を見る。まさに、十二時。荘厳な、あるいはかなしげな鐘のなる音が、何ヶ所からも聞こえる。男は音の記憶をたどる。あなたと私は駅前のここで会います、と女が言っている最中に、機関銃の音、爆弾の炸裂する音、建物の崩壊する音、逃げまどう人々の阿鼻叫喚の向こうから、正教会の鎮魂の鐘の音が聞こえていた。頭を振るって周囲を見回すが、背後は見ない。約束の時。大理石の女神はひときわ唇を突き出して微笑んだ。約束どおり。男の背中にむかって。お会いできてうれしい。何十回も男がなじんだ微笑はあらためて永久に石化した。男はまた時計を見る。そして、立ち上がった。復活した超特急亜細亜号に乗れば夕方までには大連の港まで帰れるだろう。


君が、涙を流すのはいつどこでか? 何故君は涙を流すのだろう。その時と所で。
NHKのドラマの視聴者もまた涙を流す。おもいっきり泣けます、というキャッチの映画はいくらでもある。俳優、特に女優は、注文に応じて涙を流せる。涙など、栓をひとひねりすれば、いくらでも出てきますわ。
こんな状況で、まともに涙を流せるチャンスなどないでしょう。まともに? まともな場面を想像してみよう。葬式? だれの? 君の? ああ、理念としてはありうる。自分の死の予感の雰囲気の内に涙、か。


私は、小学六年生のとき、父が死んで、以来、自分の死の予感の雰囲気の内に生きてきた。長くそうしてくると、予感どころではなくなってきた。時々、父が夢に出てくる。声も聞こえる。話しかけてくる。議論する。笑いあう。
実際は、あの時一緒に死んでいた気がする。だから今でも話が出来るのだろう。


一生に、何度、君は、絶叫したか。五を超えなければ幸せな人生だったろう。
さて、絶叫の機会を、一回分、大切にとっておこう。君の死の瞬間のために。せいぜい大声を出したまえ!


西欧の対話編の極致は、プラトンのそれ、ガリレオ・ガリレイの新科学対話、ミル自伝、ヘーゲル精神現象学、ニーチェあまりに人間的な、だ。優れた作品はすべて対話的、挑戦的である。

言語、ランガ―ジュ、を、重大視するな。短期間に、学者らが、整理整頓、つじつまあわせででっち上げた。つじつまあわせをやる者とは、学者の定義である。ギリシャ人は、民族として学者であった。世界で最も評価される民族である二つのうちのひとつであるが(もうひとつはユダヤ。こちらは原理主義者)、つじつまあわせと謂う、彼らの行為の本質を忘れるな。ギリシャ、ラテン、中国、フランス、朝鮮(ハングル)。言語の短期間での整合化に成功したからこそ今の古典文化があるが(唯一、英語は例外。みんなが作った言語。これほど単純化された、がらくたいっぱいの、矛盾の多い、常に変態していく、だからこそ万能である言語も珍しい。今後も出現しないでしょう。最終言語だ。)、その正体を忘れるな。


安部公房、星新一、筒井康孝、朝永振一郎、高橋源一郎らは、素脳がいいと思う。大江健三郎や三島由紀夫や谷崎潤一郎や開高健や湯川秀樹やアインシュタインはそれほどでもない。悪くはないが。ひそかに私は、中村光夫や横光利一や正宗白鳥や佐藤春夫や森鴎外も評価している。みなさん、頭いいぶんだけ、軽薄に見えるが。バッハやブラームスやプロコフィエフやライプニッツやノイマンやヴェイユやモーツアルトやアンリ・ベールやアーベルやグロタンディックやミルナーが軽薄だったかどうか、天使の踊りを舞ったのかどうか、さあ、判断はつかない。だけど、好きだよ。


九州には美女が多かった。西洋と東洋のミックスがやたらといた。東京に来てブスだらけだとあきれたな。(秋田、青森、山形にも美女がビジョビジョいた。ロシアとの混血児だ。北海道については、アイヌと植民者とロシアとのまぜこぜで結論が出せない)スペイン、ポルトガル、オランダ、アメリカ、ロシア。何代も交雑をつづけて長崎平戸大分鹿児島博多近辺では、世界で一番背が高い、異様な美男美女が生まれるようになった。特に、オランダ人が実質300年以上も長崎周辺に渡来し続けたので、港近くでは、ファッションモデルみたいな脚長の女の子が生まれ続け、オランダ弁をしゃべくっていた。男の子たちは、ほぼみんな船乗りになったので、地場にはいつかなかったが。キリストを敬いながら、性的にタブーを持たなかった。その末裔を、私は数人知っている。無国籍美少女たち。ヤッピーオイローパ。綺麗だぞ。ブラジリアンより綺麗だぞ。近代科学が伝わったのも、彼女らが、向学心あふれ性欲もあふれていた日本男子のために、あれこれ持ち出してくれたおかげだ。
だが、彼女らのうち長崎にとどまっていた者は、原子爆弾でほぼ全滅。
オーー マイ ガッド!。


体育会系を馬鹿にするな。教養がない、勉強してない、粗雑、よくあるパターン、先輩だいじ、声おおきい。しかし、たとえば、男子では、為末大、女子では、山口香。惚れ惚れするような知性の持ち主である。運動神経の指令元だけが、脳内で孤立しているとは、誰も証明できていない。神経系は、連動している。故木原美智子が言っていたなあ。
運動神経と、音感は、いっしょだよ。


十四歳で死んだ息子のジャージを手に持って引っ張りながら、もっともっと洗濯したかったと、つぶやく母親。


日本語の丁寧語に関して某女史が言う:それは、世界中の出来事がすべて自分の落ち度であるかのように喋る言葉だ。
私が思うには、丁寧とは、自分がそうであるかのように振舞うからには、あなたもそう振舞ってくれという脅しでもあるでしょう。いかにも日本的ないやらしいところで、それは認めます。さてここで、それほどの強制力を持つ丁寧の意図する内容は何か。あなたは西欧人なのに、個別具体の落ち度だけではなく、根本的な落ち度が例外なく誰にでもあるということ、原罪、をお忘れになったのでしょうか? 実際、すべて自分の落ち度であると公言して、敢えて十字架上で死んだ人もいたでしょうに。丁寧とは、その偉大な先人には遠く及ばずとも、せめてブンを、身の程を、弁えた、罪を意識しております、と言う態度なのですよ。常に忘れてはならないこころがけ、こころやりではありませぬか。日本人は神を持たないなんぞ、俗説、流言蜚語、に値します。意識して、○○を意識して、丁寧に振舞っています。
さあ、どう反論する、西欧人君?


なぜ、長い間の期待にも拘わらず、ETは地球を訪れてくれないのか。そういうことが出来るには、138億年は、短かすぎたからだ。生命が発生し文明に至るころには、発生以来急速な膨張を続けてきた宇宙は、半径無量大数にまで巨大化した。だから、将来生命が住むことになる惑星のもとのそのまたもとの……どうしの距離が近いうちは、生命も文明も生まれず、いやもうそれどころではなく、生命も文明も生まれた時には手遅れで、惑星どうし(それらの惑星を支配する恒星どうし)は遠く離れていたのだ。文明が成熟段階に入るころには宇宙はもう充分に膨張してしまっておりコミュニケイションを取れる規模を超えてしまっていた。文明の進展は宇宙の膨張に追いつけない。どちらにも加速度がかかっているとしてもね。


マルクスはヘーゲルを経済に応用したに過ぎない。マルクスの数学、と言うよりは算術は、貧相な代物だった。現代の科学のレベルでは批判に耐えられない(近経、新古典派が科学だなどとは言っていない。近経も呆れるほどナイーヴだ)。ついでに。彼の性格や行状を私は好まない。たとえば、女房が実家から連れて来た、レズすれすれぐらい仲良しだった女中とのあのスキャンダルはなんだ。アナーキストたちとの論争での口汚さはなんだ。
ただし、疎外が、物神化が、労働力商品が、グローバリズム成立の予言が、的をはずしてはいないように思える(今日のグローバリズムこそが革命を誘発するぞ!)。よくぞ気がついた。まあ、どなりまくる革命家の彼はひとまず置いておこう。今ではめったにいない、シェイクスピア劇やドンキホーテを暗誦する汎教養人としてのマルクスがいた。それも置いておこう。私が称賛するのは、脳内至る所にチロチロ燃えていた、当人としては当たり前の、教養人とは裏腹の、野生の心情だ。それは、今に伝えられている。曰く、
ビー クール。ドゥー クール。
ヒッピーくさいって? きみ、なに言ってるの。マルクスは、正真正銘のヒッピーだったんだぜ。キリストと同様に。どんな時代に出てきても、ヒッピーたちは、同じ単純なことしか言わない。