三歩離れたところで手を太腿に置いて正座するヘレンの全身を、遠くからサーチライトが差すように、月光が照らし出している。額、鼻、顎、乳房、肘、腰等々の張り出した部分が、体のどこかか、坐っている砂地かに、面積の狭い青灰色の影を落とす。僕はわざと眼の焦点を合わせずにそれらの影だけを盗み見る。おぼろな影だけからもとの立体像を再構成するのは至難の業だ。わざわざそんなことはせずとも、ただ直視するだけで、鎮座ましますヘレンはありありと現れるだろうが、そうはできないからこんなことをしている。ヘレンが僕にかけた期待を裏切ったと恥じているからだ。
ヘレンの声以外にも、聞こえてくる音声がある。ヘレンの背後からは、やっと眠入ったばかりのヒトミの寝息。ヒトミは頭を奥にして横穴に伏せり、下向きのつま先を揃えて、足の裏をこちらに見せている。僕の背後からは循環コードに合わせて流れる湯の川。上方からは夜になっても一部鳴き止まない蝉、寝惚けた鳥。左右からは岩角に切られる風、噴出する亜硫酸ガス。だが、それぞれの音を聞き分けられるのは、ヘレンが胸を上下させながら言葉を継ぐためにとるわずかな休み時間の間のみであり、語りが再開すれば、音たちは渾然一体となり、ノイズとなって後退し、なにやら宇宙背景輻射のようなものになる。
時折、砂地と同じくらい生暖かで、ひときわ濃いガスの臭いを帯びた湯煙が、渦を描きながら僕たちの間を通り過ぎる。青灰色の影はどこへやら、ヘレンの頭部や両肩はかすみ、はるかに眺める山並みのような輪郭だけになる。少々不安を覚えるが、声を聞き取るのに邪魔になるわけではない。
胸が重苦しく締め付けられるようで呼吸しにくい。その癖、わざわざ両膝をきつく抱えている。つかまるところが必要だからだ。ヘレンに両膝の代わりになってもらおうなどという了見は厳しく排す。こんな時であってもこちらにはプライドがあるからだ。
あの時、石を投げつけても無駄だと諦めた僕は、篭を降ろして中身を空けながら、自分の分身が、やつらを罵倒し、蹴り、頭や肩を殴り引っ張り、彼らの作る輪の周りを跳びまわるのを、夢うつつの境地から幻視していた。投石には動じなかったのに、僕の幻をうるさがるかのように、実際に何名かが腰を浮かしかけた。本当の僕は一歩踏み出そうとした。だが、手は動くものの、足が地に釘付けされたように重くて、焦りもがいた。その最中に、荷を捨ててくじいた足を引きずりながら駆けつけたケヤホドに後ろから羽交い絞めにされた。胸郭が動かなくなった。その時の息苦しさが今もなお続いているかのようなのだ。しかも、気分の悪さが尋常ではない。我慢し切れそうにない嘔吐感、回復の見込みのない消耗感、引き返しの限界点をとうに過ぎて底なしの宴の池に引きずりこまれていくような生理的な絶望感に占領されている。ため息を何度も深々とつきながら、やっと耳を傾ける有様なのだ。
「……自分が、殺したって? 謝るどころでは済まないが、ですって? じゃあ、私に謝ってもしょうがないでしょ。だれに謝っても、しかたないでしょ。謝りたいのは山々でしょうけれど」
「謝る相手が、君しか見つからないよ」
「私に謝ってもしょうがないと当の私が言ってるでしょうに。だれにも謝る必要はないのよ」
「こんなことをしでかして、謝らないでいいはずはない」
「自分に謝ったら?」
「自分なんかないよ」
「ま―た、そういうことを言う。屁理屈は、今はひかえてよ」
「いや、世界は屁理屈に則って動いている! ……ああもう見捨ててもいいよ」
「私を怒らせないで! いい? 油断して言ってるようだけど、なめたらいかんぜよ! いつでもそうするつもりでいるのよ、ダーリン!」
「今も?」
「そうよ。特にそうよ! 子供たちも一緒にね。もう、私はいつでも子供たちに言えるの。あなたたちのパパは、仲間を殺したのよ。しかも、自分の愚かしさを理由に言い逃れようとした卑怯な男よ。口とは裏腹に、謝れば済むと周りをなめてた卑劣漢よ。みんなで見捨てましょうねっ。子供たちは声をそろえて、うん! って言うわよ!」
僕はやっとヘレンの顔をまともに見た。そうか、僕は自分の子供たちともっと仲良くなる前にそんなシャッターが下りる可能性を持ってしまったのか。
ヘレンは、僕の視線を避けたのか、それとも、幽霊にでも背後から呼びかけられたのか、右に振りかえって、その勢いで涙を水平に飛ばし、あらためてこちらへ顔を向け直した。その目は訶っと開きっぱなし、鼻も大きく高く、唇は酷薄そうに薄く、顎は尖りっぱなしで、全体として見かけだけは冷静だ。
「そうよ。あなたの言う通りよ。あなたのせいで、ニギャチは死んだのよ。あなたの命を助けてくれた男をあなたは殺したのよ。謝らなくていいけど、事実は認めましょう。ついでに準事実も考慮しましょうよ。彼はあなたが約束の時間までに帰って来られると確信していた? そうかな? そうかな? いいえ!」
「なんだって?!」
「ニギャチが何と考えていたか。帰って来られても来られなくてもどっちでもかまわないと思ってたんでしょうに。どっちであれ、とにかくあの場からあなたを助けたのよ。それを、出発前に少しも察することが出来なかったあなたは、既に愚かだった。ああ、自分の愚かさを強調してやまないあなたに、さらに追い討ちをかけて愚かであることを確かめる新しい材料を与えてしまったわね」
「…… …… ……!」
「馬鹿っぽいわよっ。いまさらうわごと吐いて。けど、あなただけではないの。私も愚かだった。だから、あなたに対して私が優越的な立場をとったり、慰め役になったりする資格はないのよ。私の愚かさとは何かというと。私も日没が早いとは思い至らなかった。夜に来て朝に帰ることしか経験がなかったしね。私は昼過ぎにはもう起きて、岩舞台の上であなたが帰ってくるのを見張っていたの。急に暗くなった時は、私も何が起きたかわからなかった。尾根の影が川向こうの斜面を駆け上っていくのを見て、やっとあなたと同じように事態を理解した。そして、あなたがどんな目にあっているかを想像した。そして、あなたがまた変なまねをしかねないと思うと居ても立ってもいられなくなってやってきたのよ。川の向こうで起きている惨劇も、あなたがケヤホドに引きずられて屏風岩の陰に入っていくところも、薄闇を透かしてどきどきしながら見たわ。タダヨシって、叫んだけど、あなたには聞こえなかったんだよね。私ねえ、岩舞台の上ではなく、怖かろうがなんだろうがあの男たちのそばであなたを待っていればよかったと悔やんでいるの。そうすれば、あんなことは起こらなかったでしょうに。愚かだった」
驚いた。ヘレンはこんなことを思っていたのか! 僕はヘレンにこんなことを思わせてしまっていたのか! 申し訳ないどころではないが、申し訳ないと口に出せるきっかけを大急ぎで探してしまった。
「君が胴乱にせっかく人形を入れてくれてその恩恵をこうむったのに、結局無駄にしてしまった。悔いている。それだけでなく、人形の件は、後々問題になって君を煩わせるだろう。申し訳ない。せめて僕が盗んだことにしておいてくれ」
「言い訳はもう考えてあるから、あなたは心配しなくていいわ」
「そうはいかない」
ヘレンは湯の川の下流を漠然と眺めている。もはや人形については語りたがらない。誰に対してのどんな言い訳か。それに手出し口出しを出来ない無力な自分を恥じる。沈黙が続いた。
「何をやってもだめな気がしてきたんだ。戦争の際の利敵行動も、崖下に火をつけたことも、遂道に横穴を開けたことも、そもそも君たちをエクソダスに誘ったことも、現実に負の結果をもたらし、僕の罪悪感の要因となった。なにごとかを行うたびに罪を重ねる。生涯をすごそうと思ってきた共同体を、僕は理解できず、手を出せばマイナス効果ばかりを生み出す。それらは累積する。共同体にとっては迷惑至極であり、個体としての僕も生理的重圧感から逃げようがない。今回はとどめの一発だ。何もしないほうがいいのではないか? むしろ、いないほうがいいのではないか?」
どうしても君を悲しませてしまうのだよ、とは言わなかった。首を打たれる者のように膝に顎を乗せた。ヘレンは深々とため息をつきながら僕を見やった。
開いたうごめく薄い唇の間から、うめくような声がもれてきた。
「私を失望させないで、タダヨシ。自分だって、本音じゃないでしょ? とどめの一発だなんて。生まれてこなければよかったとか言いそうだわね。笑わせないでよ。始まったばかりでしょうに!」
また背後から幽霊に呼びかけられたかのように、今度は左を振りかえって、その勢いで涙を水平に飛ばし、すぐさま正面にもどって、見開いたどんぐりまなこで僕を凝視する。
「失望させて、すまない」
ヘレンは、舌打ちをすると、短い周期で首を何度か横に振った。
「あ―っ、そういうところが、変におとなになりかかってるわ。注意してよ、タダヨシ。なによ、そのいいぐさ。虫酸が走るわよ。失敗が、あなたを、馬鹿なおとなにしないようにと、私は願っているのに」
ヘレンは語尾をふるわせた。いらついている。上半身はゆっくり円を描き始めた。跳びかかる前準備のよう。
「僕は、自分がどんなに滑稽か、最初からわかっていた。これが害毒にならないうちに、滑稽を演じ切ってしまう手段はないだろうかと考えていたが、とんでもなかった。害毒をもたらし続け、罪を犯してきた。今また……」
「ニギャチを殺した、カンニバルの餌食にしてしまった、でしょ。聞き飽きたって。くどいなあ、君は。犯罪ではないわよ。犯罪の、私、意味だけはわかるけど、ここでは犯罪なんて現実にはないわ。悪なんてないし、だから善もない場所だもの。これは事実よ! べつに、あなたを慰めるために口先だけのことを言ってるんじゃないのよ!」
「何をするにも、何をしたとしても、ゆるされるということか? 行為の前の許可という意味でも、行為の後の赦免という意味でも? 何をしたとしても赦されるのなら、何をしようと許されるから、まあ、どちらも結局は同じだが」
「と言うよりね、ゆるされるというテーマがそもそもないの」
突然、僕の上半身に、隕石が貫いたほどの痙攣が、走った。
「ちょっと待ってくれ。ゆるされる、は、存在していて、それはとてつもなく恐ろしいことなんだよ。何故かというと、僕の脳内で、今、声が聞こえたからだ。それが存在の証拠になる。誰が言ったのか。ニギャチがだ。ニギャチが、お前をゆるすと言ったんだ。確かに聞こえた。お前をゆるすと。それを聞いたので、もう、僕の背筋は凍りつきそうなんだ!」
実際、脳内で鳴り響いたニギャチの声に衝撃を受け、慌てふためく。妄想が眼前を通り過ぎる白い湯気のように頭の中を通り過ぎていく。結局ゆるされるのだ。施設アメリカ等では、天国の入り口で、追い返される者はいないそうだ。みなゆるされる。施設ニッポンでは、善なる者ですらゆるされる、ましてや悪なる者がゆるされないことがあろうか、いやない。もし、神も仏もあるとしたら、神や仏である以上限りなく慈悲深いので、すべての者をゆるす。もし、神も仏もないとしたら、神や仏を象徴とする諸々がないとしたら、定義によってすべてがゆるされるのですべての者もゆるされる。つまり、神や仏があってもなくてもどっちにしろ、ゆるされるのには変わりはない。ニギャチの声が引き金となって、ああ、この単純な論理に気づかされるやいなや、ぱりぱり音を立てて背筋が凍りつくではないか!
……疲労と睡眠不足と精神的動揺のはてに、おい、頭がおかしくなりかけているぞ。
息を呑んだまま興味と不審の混ざった視線を僕に注ぎ続けてきたヘレンは、何かを思い出したかのように不意に緊張を解き、尻を踵から上げると、膝を突いたままいざり寄ってきて、左側に腰を下ろした。軽石や砂がきしむ音がする。吐く息が甘い。発酵したマンゴスチン吐息。両腕を僕の胸と背中に回し、強く締め付けた。左の上腕が両の乳房に挟まれた。僕が左を向いたとたんに、唇を唇に押し付けてきた。発酵したマンゴスチン味。ところが、ヘレンの上唇の一部が、塩味になってきた。ヘレンは、十カウント後に唇だけを離すと、額を額にぶつけたまま囁いた。
「月が空のてっぺんに昇った頃、何かの事情で半日遅れたんだけど、モーがやって来るわ。あなたはくたびれ果てている。寝てらしてね。あなた、もう、体も精神も、限界に達してるわよ」
腕を解き、右手で僕の頬を人差し指でつつき、左手の掌で臍の下あたりをさすりながら、言葉を続けた。
「たった一日でこんなにやつれるものなのかしら。かわいそうに。おお、かわいそうに」
そして立ち上がりざまに僕の頭上から一言つけくわえた。
「そうよ。何をしてもゆるされるの。恐ろしいことだわね」
ヒトミと顔を見合わせるのを避けて、足から横穴に入る。濡れた埃がまだらにへばりついている小さな足が胸の前にある。片肘を突いて左手の上に顎を乗せ、ガレ場を降りてくるヒトミの姿を思い浮かべた。
ケヤホドは、岩陰で、羽交い絞めから僕を解放した。谷には戻らず、市民から降格した奴隷になるつもりだと言った。僕はケヤホドとともに斜面を登った。向こうから荷を担ぎ、そのうえケヤホドの残した篭を引きずって、ヒトミが用心深げに降りてきた。ケヤホドと別れ、僕はケヤホドの荷を担いでヒトミとともに谷に舞い戻り、荷の中身を川原に空けた。食糧からなる三つの山が出来た。ヘレンにあわせる顔がなく、宿舎である横穴に帰ってきたところ、それを見越していたヘレンが先回りして待っていた。
ヘレンとのことを一切合財ヒトミに話して聞かせた。ヒトミは悲しみと嫉妬で地団駄踏んだ。そして嗚咽しながら、ヘレンと自分とどちらをとるかという、がっかりするほど陳腐で消耗な問を投げてきた。哀れを感じた。ヘレンはそっぽを向いていたが、聞き耳は立てていたと思う。僕も情けないほどありきたりの答をした。君は、親友であり、弟であり、同志であり、強く愛する者であるが、僕に少年愛の傾向はなく、君を性的関心の対象にはできない。ボーイズラブを実演するつもりはない。ヒトミはほとんど待ってましたとばかりに深く傷ついた。遠吠えのような大きく長い悲鳴を上げたのでそれとわかった。
腕をはずし、こめかみを床につけた。たちまち睡魔に急襲された。僕を掌で奉げ持ちながらゆっくりと階段を上る父の巨大な上半身が目蓋の裏に現れた。僕の体は、一歩、揺れる、一歩、揺れる、一歩、揺れる。あれ? 父は眼鏡をかけていたのか。だが面相は陰になっていてわからない。天窓がある。透明な一枚ガラスなのか、窓が開いているのか、長方形の窓枠の向こうに、僕の部屋の天井に描かれていた偽の青空ではなく、本物の青空が見える。白雲が浮かんでいる。とっくの昔に既に僕は見ていたのか。おお、もう、眠る、眠る、眠る。
砂利をこする音が聞こえた。右足の裏の傷跡がむず痒い。少しづつ音ががせり上がってきた。何が起きているのか。ヒトミの足首や脚が床をこすり立てる音だ。うとうとした。傷の割れ目をさすられつつくるぶしをなめられている。足があたたまってきた。またうとうとした。舌と唇が膝まで来た。ヒトミの足の甲が閉じた目の前にあるような気がする。やめろ、と言いたいが声が出ない。半睡状態どころか、疲労のあまりだろう、金縛り状態に陥っている。何とか、何とかして覚醒までよじ登ろう。しかし、ああ、このままなりゆきに身を任せてしまおうか。だって、僕がはっきり目を覚ます前にかすかだがはっきりともされた火、この官能、に、いったい逆らえるだろうか?