自分の居場所がない? けっこうじゃないか。居場所がないということは、どこにいてもかまわんということだよ。こんな自由は願ってもめったに手に入るもんじゃない。君は幸せだ。

自分さがし? 自分など、どうでもいい。自分なぞないのだからね。自分がないということは、どんなものであれ自分だということだよ。無駄な行為へとせきたてられるのは馬鹿げている。もっと楽しいことがいっぱいあるぜ。

居場所も自分もどっちもない。じつにせいせいするなあ。

わりなき恋(岸恵子著)に出てくる男。
この男は、わがままで、強引で、そして、そういうところが男らしく、家庭を維持し、会社でのし上がり、女にもて続けるという、三つの行動を男の甲斐性のようにみなしていて、疑いがない。女を手なづける紳士的素振りは、学習によって身に付けたもので、日本人には珍しいので女はふらっとなるが、個としての女を見据えた上での対応ではない。発言もありきたりであり、形式的である。ユーモアのなさが決定的に、言葉の凡庸を際立たせる。回りから直接叱られたことがない男は、小児性から脱し得ない。揚州で、部下の男と笙子が、〝盛り上がった”際、嫉妬というよりは、自分が疎外され、子供が弟を母親が可愛がるのを見てむくれるようにむくれ、周囲の者の心配を顧みないという子供じみた反応をしてしかも反省がない。会社の者たちに笙子を見せびらかすのもまた小児的だ。ああしろ、こうしろと、勝手な押し付けをしても、相手の心持に鈍感であるので、そうすることがサプライズであり、相手は喜んでいるとでも思っている。笙子がいかなる人物かについての洞察を欠いているので、表面的機械的図式的な勝手がやまらない。大袈裟で空虚な言葉が効果を持つと思っている。ただの木偶の坊である。あるいは、哲学的ゾンビか?  パターンで動いている男だからね。惰性がお似合いなのだよ。人間であるかのようで、人間の真似をしているだけの、常套句を行動原理にしているロボット、情緒や雰囲気やウィットやユーモアのない、有機的な独自の味わいある構築ができていない、見かけだけ人間であるなにかの生き物。
主人公笙子が(その友人の砂丘子も)、男の本質を分かっているのに、かかわりをすぐにはやめられず、ぐずぐずしたのは、不可解である。
――何も私は、間接的に作者を揶揄しているわけではないよ。女性の不可思議さは常々尊重しているつもりです。

補記。
この記事を読んだ知人から、でも結局は笙子の方から別れた、その理由はなんだと思うか、と尋ねられた。
よくあるように、付き合っているうちに思いもかけなかったボロがどんどん出てきて、その集積が我慢の閾を突破したからでしょう。最後の引き金となったのは、別荘のことだと思う。箱根のような関西から離れたところに何故兼太は別荘を建てるのかと笙子は不審がった。実は、彼の引退の結果、海外出張がなくなり、従って横浜途中下車ルートがなくなった。だから、関西から離れ横浜に寄る口実や便宜のために建てたのだ。しかし、其処で笙子と暮らす提案など兼太はしない。家族を連れてくるかもしれないし、不倫女を連れ込むかもしれないからだ。もちろん笙子も招待するだろうが、多目的に利用する魂胆だ。だから、前もって笙子が口をはさめないように、こっそり自分の意思だけで建て始め、全権は自分にあることを示威したのだ。笙子は頭に来て、悪酔いしたでしょ。第一が家庭、第二が不倫女、第三が笙子だもの、笙子のプライドは大いに傷つけられた。不倫女は相手にするのが楽でわがまま勝手をとおせるが、笙子は自分より役者が上なので、程よいところでとどめておくのが得策だと兼太は判断した。笙子を、自分の都合の良いように自分の世界のバランスを保つための駒の一つと考えている。これは笙子にとって大変な侮辱である。いくらありきたりの甘ごとをささやかれようと、もはや聞く耳持たなくなるのは当たり前だ。だから、笙子は、数年間の思い出がもってしまう哀惜はあるものの、もう終わりだと覚悟したのでしょう。

個人的な経験からに過ぎない印象を述べる。頭が、部分的にでも、わずかでも、おかしいなと、感じなかった個人にあったことは極めてまれであった。私の意味するところでまともだと思えた人間は、一〇〇の内一〇に満たなかった。ところが、私は、しばらくまえから、九〇こそがまともだと思うようになった。一〇が加工物であると見破ったからだ。やっと。そこで、今後の私の身の振り方だが……

過剰な複雑度の脳神経系が、対象を求めて、しかし目下緊急のそれはなく、自らをもてあまし、あげく自らを対象として、マスターべイションを働くのが、意識の由来である。意識は常に自意識であり、複雑性の余剰と時間の余裕を前提とする。
なぜ過剰なのか。定向進化では説明にならない。恐らく、はるか過去にフルに脳の全ネットワークを使わなければならなかった事態があったのだ。類の存亡が賭かる危機に陥り、適応のために、脳の肥大化が加速されざるを得なかったのだ。後になってよほど暮らしが安楽になってから、戯れに意識を生み出したのだろう。

意識が対象に接近するのではなく退避する場合、退避する対象が底をつき、ついに自らから退避するのが自殺である。
求めて接近する場合は、対象は大きく多くなり複雑化するが、退避する場合は、小さく少なくなる。要約や一丸化や所詮あれらは、所詮この世はうんぬんといった総括は、いともたやすい。意識の定義から、最後に残るのは自己であり、鏡に自己の像を見て、そこからの最終的退避が自殺である。退避が安易であるから快であると感じてしまった人間は結局こうなる。

強い相互作用は、高次元空間が微小領域=素領域でのみ残存していることの力による表現である。素領域の周縁では次元が減ってくるので(もしかしたら、あるいは、恐らくは連続的に)強い引き戻し効果を持つが、クォーク同士が接近すると、即ち、素領域の中心部分に近づくと、充分次元が高くなり、自由度が高くなるので、強い相互作用は弱まる。これが、漸近的自由のメカニズムである。

コホモロジ―が、最終のテクニックだなんて、どれだけの多数者が、同意したの?

ホテルに宿泊しているはずの友人を、私たち三人が訪れたが、約束にもかかわらず応答がない。携帯等にも応答がない。ホテルのシステムの限りでは、室内にいるはずだ。死んでいるのか? 
警察機動隊員が、3,4、名来て、オールマイティーキーでドアを開けて、中を見た。死んではいなかった。死んだように寝ていただけだった。我ら、部署に戻る機動隊員諸君に、最敬礼。私らの場合で、申し訳ないが、またお手数をかけるかもしれない。その時本格的だったらどうしましょう。

個々を分別可能にする差異のいちいちは、常に小さな差異である。ネグれるほどの差異である。例えば、Tシャツのロゴが同じでも、わき腹のところに小さな印があるかないかで差異が生じる。印が、背中にあるか肩にあるか、印の直径が1センチか1点5センチか、等々で差異が生じる。ジーパンでも、タトゥーでも、あれでもこれでも。(商品をデザインする側としては差異の生産はお手のものだ)。さらに、身体において、特に神経系においても。これらが重なると、重なりの内側になにやら独特の個性豊かな実体が、アイデンティティーが存在するように見えてくる。個々のレイヤーは、言葉の原始的な意味で表層である。そこにネグれるほどの差異が散っているに過ぎない。それらが意味しているのは、基本的な同一性であり、つまり、単一性である。ネグってしまえば同じであるので、いくらレイヤーを重ねても同じは同じはずなのだ。ところが、人々は実体を持つ個性を幻視してしまう。そして、幻視されるものはついに誰とも異なる自己を持っているのだと錯覚してしまう。(別の、やはり錯覚である経路から生じる自己もあるが。) 独特の個、何にも置き換えられない、固有の個がまずあって、それが、表層的差異に拡散され帰着させられたという通説は転倒している。幻想から出発している。では、どこに私はあるの? どこにもない。あるなら指でさして見せてくれ。

自我の目覚めは、ものごころつく、から、やや遅れてやってくる。第二次性徴の発現を自分の肉体に発見し、それを体験することで、否応なく自己に対面させられる。だから女子の方が、自我の目覚めが早い。女子は男子を馬鹿と、しばしの間、思わざるを得ない。

多摩川のほとりを散歩していると、川原の小さな三日月池で、一尺ほどのなまずが水面近くを泳いでいた。小学生の時、二匹のなまずが小川を泳いでいるのを見た。初めて生のなまずを見て、興奮のあまり、小川に飛び込んでしまった。はるか後になって、多摩川で鯉を釣っていると、なまずがかかった。手で触るのは生まれて初めてだ。ひれが固定して、飛行機のようであることをはじめて知った。鱗がないので両生類の感触に同じだ。今日の泳ぎ方を思い返すと、魚にしては不器用である。静水中で低速で泳ぐ限りでは、固定したひれは、敏捷であることを妨げる。何故、この種が生き延びてこれたのか。ひれをつっかいぼうにして、大魚に呑みこまれなかったからかも。まさか。鳥が筋力によって翼を上下動させて直接反作用を利用していた段階から、飛行機が水平翼を固定して空気の揚力を利用する段階に進化したように、形態が画期的に他の魚と異なっていたからか? 私は戦闘機のように高速で泳ぐなまずを想像する。


自分の書いたメモや計算を読み直していて、間違っている部分を消去してはならない。線で消して残しておくべきだ。同じ間違いをまたしないために。失敗の記憶を忘れないでおいて、挫折感のほうは消去するという操作に慣れませう。


友人が、七夕のフェスティバルの時にやってきて、酔って私にこぼした。
俺は、二人の子供を、小さい時に、泣かせたり、叩いたり、馬鹿呼ばわりしたりした。どんなに今悔やんでいることか。でも取り返しはつかないよ。ごめんじゃすまんよ。悪いことをしたどころではないよ。子供たちの人生に対して、決定的なダメ出しを前もって与えてしまった。親である俺が家族の外にいる審判者だと思わせちまった。犯罪的だな。子供たちのその後の不幸がもしあったとすれば、それは俺の責任だよ。だけど、責任ったって、単に張本人という意味でしかないなあ。だってさ、責任をとれと言われたら、どうすればいいの。絶対戻ってこない、もうどこにもないあのときあのときを変更するなんてできゃしないよ!
僕のところに泊まってった。


うちの亭主がね、私は、顔が、イシンバエワに似てるって言うのよ。
そういえば。いくらか。あれほど男っぽくはないがね。
長いあいだ近くで見てきても、平気で間違えるものだな。
長さではかなわないが僕は間違えなく言えるよ。君は、イシンバエワより美しい。


私は、十年ほど前に、Hiroshimaという詩を書いた。顔見知りに戯れに見せたら、あんた、どう個人的にかかわりがあるの、と訊かれた。どういう意味かと問うと、そこにいたはずないよなあ? と言う。ご覧の通り生まれていなかった。親戚に被爆者がいるの? いない。広島に住んだことあるの? いや。それじゃ、話にならないよ。そんな他者があれこれ言っても無意味だね。ほんと、いやったらしいんだよねえ、関係ないくせに原爆のこと、いかにも、もったいぶって、知ったようなこと、言うやつ。
ははあ、当事者以外は、黙っていろ、ということか。だが、その理屈の本質は何か。被爆して死んだ人たち以外は黙っていろということだ。死んだ人たちは当然無言だ。つまり、残された人間は当事者ではないから発言する資格がない。発言する資格がある真の当事者は、死んだ者だけだから、発言できない。結局、いかなる発言もありえないことになる。
こういうことをやっているから、また、原爆が落ちてくるのだよ。

ある男が、教師に扮して小学生に授業をするというテレビ番組を観たことがある。その男に将来どんな人間になりたいかと問われて、ある小学生は、世のため人のためになる人間になりたいと答えた。すると、彼は、せせら笑って、えーっ?、うそをつくなよ、まずは自分だろう?、と言った。君は、と別の生徒に聞くと、その子も、人(他人)のためになりたい、と答えた。男は、段々腹を立て始めた。生徒たちも頑強で、以後、無言で抵抗した。
その後、彼は、議員になった。ニコニコ笑いながら、他人のために尽くしたいとインタヴューで語っていた。

私は、生命が神聖であるとは思わない。神聖であるなにものもないと思っているからに過ぎないからだが。(生命を神聖視する思考伝統あるいは宗教がいかに迷妄であれ今日まで何とか続いてきたからこそ我々は生存しているのであって、それがなかったなら、つまり、生命など取るに足らないと皆が思っていたならば、とっくの昔に我々は絶滅していただろう。よって、神聖視のおかげで人類は自らを救ったという利点がこの迷妄にはある。早まって放棄すべきではない迷妄の一例だ) しかし私は、シンガーのように、功利主義的観点から、生命を分別することはしない。生命が多種多様であるのは、涙ぐましい生存への切磋琢磨がもたらした戦術のひとつであり、元来の元来のそのまた元来は、歴史的にも論理的にも、生命はひとつだと思っているからである。おお、この、奇跡のひとつを見よ!
シンガーの、利益という概念を何通りにか恣意的に使い分けているところが、まず胡散臭い。従来の倫理と一見異なるように見えても、近代主義であることに変わりはない。近代的個(実は神を後ろ盾として生まれたのに!)を(たとえ人間以外の動物でも!)持てば、私的利益獲得の権利があり生きるに値するとシンガーは断じる。近代的個万能の、しかも、哺乳類全体にそれを無反省に拡張した限りでの動物擁護論となっている。近代的個から動物へと敷衍する倒錯論理の奇怪さを見よ!
近代的個を持たなければ生きるに値しない、はこの主張からすぐ出てこないはずだが、論理的に飛躍して、並行的に主張している。AならばBと、AでないならBでない(つまり、BならばA)は、互いに逆命題であり、独立に主張し、証拠を挙げねばならないのに。(註。近代的個と意識は異なると私は思うが、シンガーは、敢えてであろうか、混同している)
哺乳類、恐らくは鳥類にも、〝意識、あるいは、自己観照能を持つほどに豊饒化した脳神経系”らしきものがあるとは私も思う。だが、では、爬虫類以下の動物と、すべての植物には意識がないので、生殺与奪の権は人間とその仲間たちにあるというのか?
シンガーの隠された顔が見えてきた気がしないか?

最後の乳歯が抜けた女の子が発句する…
歯が抜けて 幼年時代 さようなら

NHK報道特別番組で、関東大震災の時の、被服廠の悲劇を、映像と語りでたどった後、大地震が起きた時は、とにかく広域避難所へと繰り返した。被服廠こそがまさに広域避難所に相当していたのに! あきれてしまった。
現在東京都が指定している百九十七ヶ所の避難場所のうち、面積に関して、九十ヶ所以上が、被服廠より狭い(被服廠の面積を七ヘクタールとし、避難有効面積と比較した)。当時はほとんどが平屋建てであったので、現在の二階建て以上が普通である住宅や高層マンションと比べると、可燃物の総体積が数分の一だった。化学建材も使われなかった。もし今地震が起きて同時多発的に火事が発生したなら(傾いだ高層ビルのすべての窓から火の粉と黒煙が噴き出すさまを想像しなさい)、たとえ火が襲ってこなくても、煙、いや風だけで、生命の危険にさらされる。風の質だけでなく風力もまた問題だ。当時、被服廠に襲来した火災旋風の風速は秒速七十メートル、あるいは八十メートルに及んだと言われている。竜巻に関する藤田スケールに当てはめるとF3クラスに相当する。列車が脱線転覆し、ダンプカーが浮いて飛ぶレベルだ。栃木の竜巻は、F1と判定された。
地震が起きたら。留まっていては火に囲まれてしまう。北北西なら北北西に進路を取って、ブレずにひたすらその方向に、家族マラソンを敢行するのだ。何も持つな(靴は持って出て後で履く)。半日もすれば、火の手ははるか後方となり、水や食料を市民が恵んでくれるだろう。


歴史主義を採ることと、歴史を尊重することとは、正反対の精神姿勢だ。
前者は、「歴史は繰り返す」、と、「正、反、合」、との混合で本質を露わす。それがいやなのに歴史に拘わると、実存主義に陥る。
後者は、実は敬して遠ざける立場だ。非歴史主義。
生物主義、固定主義、反復足踏み論、終末論。
興味深いのは、歴史主義者たちも非歴史主義者たちも、「繰り返し」は認めている点だ。
もしかして、これが真理か?
進歩も知識も失敗も退廃も単なる環境衣装であって、私たちの生身は繰り返しを繰り返しているだけではないのか? 


日本の近代で、西欧自然科学を体得して、なおかつ文章を稿した者の嚆矢は、森鴎外だ。読めば、理系だなと、今でもだれでもすぐ分かる。晩年の考証ものは、科学的実証主義の日本封建社会への応用だった。(丸山真男はこれを見逃さなかった。ふん、ネタはばれているぞ)この系統は、日本の文学には根付かない。そこから排除された多くの者達の吹き溜まりが文学の世界だったからだ。理系、医系の文学者は居たにはいたが、畢竟手遊びであった。宮沢賢治はちがうぞ! などとの声がきこえるが、彼は宗教者である。
鴎外は、漱石と比べると、いかにも外連味(けれんみ)がない、と言った者がいたが、それはそうだ。みもふたもないことを言ってしまうのが科学者なのだ。二十一世紀の新たな啓蒙主義=自然科学と情報技術にすべてを還元する意図、が広まると、鴎外のような味気ないパーソナリティーを個々が持つのが当たり前になり、漱石なんぞ、お調子者だ、いい気なものだ、小児的だ、迷妄だ、くだらないとする風潮が蔓延するだろう。科学的批判精神に容赦はない。


異性間での第一印象がその後を支配するように、科学における第一印象(初めて望遠鏡を作った男が見た土星の輪が与えた衝撃)がその後を支配しているか? 実験結果の量に比べて、ときめきが減ってしまった。これは、支配か、支配からの脱落か。

愚かな親たち、あるいはその周辺の愚かな者たちが愚かな子をつくる。子としてはえらい迷惑だが、選択できない。意識する前に愚かになってしまうからだ。逃避の手段としてウェブはある。愚かしさから、愚かな親や自分から脱するための道具にもなる。使え、使え。理由を学び、自分で改変し、展開し、子供を産み育てるほどには成熟していなかった親とそのマイナスの影響をまともに受けてきた自分を、新たな論理で、批判しろ。


挑発に乗って、自らの切り札である平和憲法を自らの手で捨ててしまうのは愚かだ。そうなると、テキどもは、それ見たことか、これで安心して日本を攻撃できるようになったとほくそえむだろう。
私はかねてから、正反対の主張を繰り返してきた。自衛隊をポリスに繰り込め。日本は軍隊をこれこのとおり持たない、警察しか持たないと、世界にあらためて宣言せよ。繰り返しアピールせよ。平和憲法の理念を露骨に現実化して見せるのだ。
ただし、絶対的な他者であることを譲らない相手に対しては、最先端の科学と技術で武装された日本警察は、国内用を国外用に転換増強させることなどいとも簡単。瞬時にあらゆる種類のロケットを組み立て、原爆でも水爆でも製造し、十倍返しでも百倍返しでもやれるよ、と隠然と脅しておけばよい。仏の顔は何度も期待できないよ、堪忍袋の緒が切れたらものすごいことになるよ、過去の実例がないことはないのはご存知でしょと。この逆説が、新たな、実に不気味な抑止力になる(米軍なしでも!)。脅しを現実化させないという内輪での血判が条件だが。
こうでもして、今この過渡期を乗り切れ!


Y氏の間違いのひとつは、観察対象たち相互の物質としての違いと、観察主体のパースペクティヴの移動から発生する違いを、識別していない点だ。>