マンゴスチン酒を搾り取った後のスポンジを右手につかんで立ち上がる。ヒトミの歩いた跡に沿って湯の川に向かい、岸辺で立ち止まり、湯に右足を入れ、傷跡の割れ目を小石にこすり付け、さらに足先で石をどけて砂にもこすり付け、それから水中に浮かせて振り、砂を流しとった。小さな思い出を確認しておいてから忘れようとするように。

ヒトミは、ついさっき、自分の頭よりはるかに高く重ねた三つの籠を背負って、よろめきながら帝国へ帰っていった。星たちと月が、後ろ足だけで立ち上がった奇怪な甲虫といったその姿を、興味津々見下ろすかのように照らし出していた。川を渡る時には、最も下の篭の半ばほどまでが水中に没したので、鞘翅が濡れて開けなくなり、溺れかけているように見えた。

異様な後ろ姿が屏風岩の間に隠れるまで、岩穴の出入り口に腰をかけてじっと眺めていた。振り返る可能性もあると思っていたが、それはなかった。

僕は川の中央まで進み、ゆっくりとしゃがみこんだ。尻を着けると水面は胸の辺りまで迫り、立っていた時よりも川音が大きくなり、下からではなく周囲から聞こえてくるようになった。

尿意を催したので、川下に向かって体を回し、両膝をそれぞれ手でつかんで脚を開き、放尿した。それに伴って握力が弱まったので、右手と右膝の間からスポンジが流れ出そうになった。股間を見下ろすと、黄色い川床を背景に、茶色に近い濃い黄色の一線が、川波を通して震えていた。色が濃すぎる。血尿かも知れない。

スポンジを湯につけて体をこする。一こすりか二こすりしただけで、こすられた皮膚は白くなる。こすったスポンジは黒褐色になる。十こすりに一回ほどはすすがねばならない。施設ニッポンにいたころは、日に三、四回はシャワーを浴び、ボディシャンプーを含ませたブラシで体中をこすったものだった。或る目的で或る器官もこすったが。今やその器官は痩せて芯を失い、流れにもてあそばれるがままだ。

スポンジを左手に持ちかえ、また右手で持ち直し、などとしているうちに腕がくたびれてきた。スポンジを右の岸辺に向けて投げた。腕だけで投げたため、わずかにとどかなかった。スポンジは岸に当たるたびに回転しながら流れていった。

腹筋を使って徐々に後ろに体を倒していき、尻を浮かせて仰向けに寝そべった。天然のジャクジーに体を洗わせよう。耳が水没したので、流れの音質が一変した。体が、踵だけを川床に着けたまま、スポンジよりはるかにゆっくりと回転し始めた。

流れ流れて、フンジャリがたどれなかった行路をたどり、湖へ、終には海へ行ってしまいたい、という思いに一瞬とらわれたが、それは冗談というものだ。僕は、モーゼに会いに行くのだ。モーゼと緊急に話し合う必要がある。ヘレンは、暗に、来てはいけないと言ったけれど。「あなたはくたびれ果てている。寝てらしてね。あなた、もう、体も精神も、限界に達してるわよ」

体の回転はとまらず、頭が川下を向くまでになった。平行に走る山稜が、快晴の夜空を、左右で枠付けしていた。間近に迫る星々は、もうすぐ中天に達する月とともに、おもむろに逆回転した。

目を凝らすと、湯気を通してにもかかわらず、どの星と星の間にも星がありそうに見える。実に稠密に分布している。壱千垓個の眼に見下ろされている感じがする。大気と大気中の塵がなく、宇宙空間にもガスと塵がないならば、空は夜でも星の光で昼のように明るくなるかと疑わせるほどだ。しかも星同士の相互関係が刻々と変化していく。星座はやがては解読不能となってしまうだろう。この驚異の現象を前に、僕は戦慄を禁じ得ない。ましてや今このとき、体が湯の川に浮遊しているからには、宇宙においても浮遊しいているという思いがことさら生々しく実感され、冷や汗がにじみ出てきさえする。お湯の癒し効果が台無しになりそうだ。だから目をつぶることにした。ところが、水中に没した耳は、水そのものの音だけでなく蝉や鳥や獣の鳴き声やジャングル自体が出しているとしか思えない地鳴りに似た音を大いに歪めて脳に受け渡すので、視覚を遮断しても、そのぶん敏感になった聴覚が、新たな恐怖をもたらしただけだった。それに耐えていると、いつのまにか、目蓋の裏に抽象的で流動的な映像が現れ、恐怖感が薄れてきて、眠りに落ちていく自覚があった……

隕石が当たって出来たたんこぶめがけてまたもや隕石が当たったのかと思ったほどの激痛が、う――っ、僕を目覚めさせた。体を右に捻って立ち上がろうとしたら、今度は右目に激痛が走った。うう――っ。強酸性の湯が目に入ったのだ。手を川床に突こうとしても指先が泥を引っ掻くだけだ。目をしばたたかせながらやっと立ち上がった。左目だけで見たものは、水面から憎たらしげに頭を出している岩だ。GODDAMN! 僕はそいつを右足の踵で蹴りつけ、そのせいで出来た傷がしみてまた唸り、飛び跳ねながら、左の岸辺にあがり、川を背にして胡坐をかき、座り込んだ。踵が血だらけだ。右目だけから屈辱の涙を流しつつ、思いつく限りの罵倒の言葉を自分に浴びせた。手持ちの罵倒の言葉が尽きたので、最後は、みんなお前が悪いんだ!、みんなお前が悪いんだ! と繰り返した。

痛みと激情が納まるまで何カウント要したかは分からないが、周囲を観察するだけの落ち着きは取り戻した。

ここから下流へ二百歩ほど行った所で、僕は運んできた食料をぶちまけたのだった。さらにその五十歩先があの場所だ。よく見ると、ケヤホドとヒトミの運んできた食料のなす二つの山は手付かずで残っている。最初の食料は、ケヤホドとヒトミを連れて来た時に、すでに食い尽くされていた。食料の山を眺めていると、久しぶりに、食欲がわいてきた。帝国の食料庫でも作業をしながら少し食べたし、岩穴に着いてからもヘレンが運んできた乾燥芋を少し食べた。だが、疲労と興奮で積極的な食欲はわかなかった。何故今食欲が湧いてきたのか。自己処罰的気分と関係があるのだろうか。

立ち上がる前に踵からの出血が止まったかどうか調べておこうと下を見た。だが、よく確かめもできずにまた顔を上げざるをえなかった。遠くで何かが動くのが見えたからだ。

ステゴザウルスの背びれの陰から、辺りを見回しながら、川原に忍び足で恐る恐る出てきた者がある。女だ。太り始めた年増女だ。坐っている僕には気づかない。あるいは、岩だと思っているのか。やや身を屈ませたまま立ち止まり、しばらく様子をうかがい、聞き耳をたてている。それから、身を伸ばすと不思議なことに後ろ向きになった。驚いたことには籠を担いでいる。その篭を自分の体の前に降ろすと横に倒し、こちらに背を向けたまま中身を空け始めた。作業に没頭しているので僕が近づいていくのにも気がつかない。

何かの合図でもあったかのように、急に女が振り向いた。ケッと叫んで駆け出そうとしたが、足が食料を踏んだ拍子にもつれて倒れ、腰が抜けたのか、手だけでいざって逃げようとする。だがままならない。そばに寄って見下ろすと、恐怖のあまり顔が緑色になっており、息が荒い。目じりが切れそうなくらいに目を見開いて、僕を凝視している。乳房が大きく上下動を繰り返す。時々息を吸い込んだまま止まり、一挙に吐き出す。

「やめてください! 見逃してください! ああ、やっぱり来なけりゃよかったんだ」

「落ち着け。とって食おうなんていうつもりはない。安心しろよ」

「信用できない。信用できない。本当はどっちなんですか!」

「どっち? ああ、そういう意味か。あいつらの仲間じゃない。食料を運んだほうだ」

女の恐怖感はやや鎮まったらしいが、不審な気持ちが消えたわけではなさそうだ。

「じゃ、あの、私たちが岩陰でやり過ごした若い男は? あなたが偵察に出したんでしょ?」

私たちとはどういう意味だ?

「ちがう。彼は一緒に食料を運んできた友達なんだ。籠を担いでいただろう? この篭と同じだったろう?」

女は無言のまま僕をみつめている。美人ではないが、どこか逸脱している感じを抱かせる顔つきだ。

「確かにあの男が担いでいたのは道具部屋にある篭でした。けれど、担いでいたのはあの男であってあなたではない。あの男は食料を運んだかもしれないけれど、あなたがそうしたのかどうかは分かりません」

僕はしゃがみこんだ。女はヒッと小さく叫んだ。

「僕の両方の肩を見てごらん。背中を見せてもいい。皮膚が剥けているだろう? 籠を担いで走ってきたんだ。君の肩だって赤くなってるじゃないか」

女の目が左右に動いた。その後に僕をみつめた。まだおびえていた。だが、顔色は蒼白になっている。

「なぜ食料を運んできたんだ」

「うわさを聞いたんです。十三夜の谷動物園の動物たちに私らが食べているものを餌として運んだ男たちがいるといううわさです」

動物園の動物? 同じ市民、原理的に同型同一だった市民を動物と言っているのか?

「試しに、食料庫の爺さんに頼んでみたら、驚いたことに、不承不承ですがゆるしてくれたんです」

今だけだ。モーゼが帰ってきたら、リトルモーゼとヘレンが叱られて、元に戻る。僕は、叱られるどころではないだろう。

「本当にあなたは動物ではないんでしょうね?」

僕は憤りは感じない。呆れるばかりだ。

「剥けた皮膚を見ても疑うのなら、こちらにはもう打つ手はないね。で、話の続きだが、うわさを聞いたからといって、なぜ食料を運ぶことにしたんだ?」

「いつからかは忘れましたが、運びたいと思っていました。思っていたようです」

声が震えなくなった。

「なぜ?」

「前の亭主か、そのまた前の亭主か、もう忘れてしまった男たちが、戦争から帰ってきませんでした。覚えていませんが、きっとそうだったはずです。私には、今の男しか亭主はいないのに、その亭主と顔の似ている子は、一番下の子だけですから。どこのうちでも同じですが。で、前の亭主たちが、動物園にいるような気がして仕方がないからです。恐ろしい動物になっているかもしれませんけど」

僕は意地悪な質問をしてみた。

「たとえいたとしても、今の君に何の関係がある?」

「まったく関係はありません。その男達が上の子らの父親だからといって、そのことが今の私の生活と何かの関係を持つとは思いません」

「では、記憶にない昔の亭主で、今は恐ろしい動物である男に、なぜエサを運びたいと思ったのか?」

「そこが私にも分からないんです。何かはっきりした理由があったんでしょうが忘れてしまったんです。そんなもの、なかったかったかも知れないし」

女の顔に兆候として見え隠れしていたうっすらとした狂気、逸脱傾向が、夢見るような、ほとんど微笑んでいるような表情となって、顔全面に広がった。

「理由が分からないのに大きな危険を冒すというその理由が分からないな」

「そうしたい気持ちだけがあるのです。どうしようもないんです」

「その気持ちはどうにもしようがない、抑えがたいということか? それとも、わけがわからない自分はどうしようもない存在だということか?」

「あっ、両方。掛けことば」

僕は笑わないように努めた。女はもう立てるだろうと思ったのか、横坐りから、正座の姿勢に移ろうとしたが、かえって横倒しになってしまった。僕は、腰を浮かし、さらに近寄って、右手で女の左の上腕をつかみ、引っ張り起こそうとした。ところが、どうしたことか、女は和みかけてきた態度を急変させ、尻ごみしながら悲鳴を上げた。

「ああ、やめてください。堪忍してください。放して下さい。あなた、どうして顔の横が血まみれなんですか! どうして足にも血がついているんですか! 片方の眼が血でにじんでるし! あなた、ほんとうは、どう―」

その時、屏風岩のほうから、子供の声がした。女は、そちらに首を捻り、叫んだ。

「そこにいなさいって言ったでしょ、カンジ! 何で言うことが聞けないの! ああもう、育て方が間違ってた! なんてことなの!」

岩陰から出てきたのは、ヒトミよりずっと若い、僕の横隔膜ほどの背の高さしかない男の子だった。ケヤホドのように両手に石を握っていた。その子はまた声をあげた。

「カアチャンヲ、イジメルト(その続きはもごもご。何と言ったかはっきりしない。おそらくは)、ショウチ、シナイゾ、ユルサナイゾ!」

女は上半身を揺すりながら、絶叫した。

「あああ、逃げなさい、カンジ。何してるの、早く逃げなさいって。この男は怖いヤツだ。とっても怖いヤツなんだよ。食われちまうよっ。かあちゃんの言うこと、どうして聞けないの! ああもう、あたしの教育が失敗だったんだ!」

女は狂乱状態になって、カンジ、逃げなさい、を繰り返した。叫び声は僕の脳壁内部で反響し増幅し、チャーリーの声を呼び覚ました。逃げてください、坊ちゃん、逃げてください! 

僕は戦争を思い出し始めてしまった。回顧するたびに精神が蚕食されていく戦争。脳内で、石灰の粉にまみれて全身真っ白になった僕が群集にもみくちゃにされながら叫んでいた。良心的兵役拒否! 良心的兵役拒否! その後の戦場での恥ずかしい行状も、もうすぐ見えてきそうだった。

「あの子はまだほんの子供です。勘弁してやってください。逃がしてやってください。末っ子なんで甘やかしてしまったわ。私の後をついて回るんです。近頃は知恵がついて、今日も、よそのうちの子達に混じって門衛さんをだまくらかして、途中までこっそり私の後をつけてきたんです。あの、あの、あの、なんでもします。なんでもします。あなた、何してもいいです。犯しても食べてもいいです。ですから、あの子は逃がしてやってください」

女は僕の右手の上に自分の手のひらを重ね、そこに額を繰り返しぶつけながら懇願した。ふいに顔を上げると、涙に濡れてまだらになった顔で僕をしげしげと眺めたりもした。

「カアチャンヲ、ハナセ!」

男の子が石を投げる構えをして叫んだ。そうか。ああ、なにをしているんだ。女の腕をつかんだままだった。腕の内側を走る動脈が拍動している。親指以外の指の腹で察知できる。あの子の言うとおりだ。さっさと腕を放せ。だがこのとき、頭の中へ亜硫酸ガスが吹き込んできたように或る悪だくみを思いついた。僕はゆっくりと大きな声でその子に伝えた。

「お兄さんと、うーん、おじさんと約束してくれ。約束を守るなら、かあちゃんを放してやるぞ」

男の子は、姿勢はそのままで、眉をしかめた。

「ハイって言いなさい、カンジ。ああ、まちがった。そんなことどうでもいいわ。は―や―く―逃げなさいってば! お願いだから、かあちゃんの言うことを聞いて!」

カンジはしかめっ面のまま動かない。女は僕の手にぶら下がるようにして、右手をせわしなく左右に振っている。イケナイということか? バイバイということか? だが依然としてカンジは動かない。僕が約束とやらを口にするのを待っているかのようだ。僕はそれに応じるようにカンジに向かって言った。

「戦争に行くな」

カンジは力が抜けたように両手を下ろし、しかめっ面を改め、困惑の表情を浮かべた。無理な注文だからではなく、恐らくは、戦争とは何かを知らないせいだろう。母親を、もの問いたげに見つめている。その母親は口を半開きにして僕を見上げていた。恐怖に加えて驚愕が表情に混じっていた。女の思っていることはこちらにはおおかた分かっている。この男は、なんて変なことを言うんだろう。親と離れた後の男子市民は、充分な数の遺伝子提供をした後は、一回で済むか数回かかるか、とにかく戦死するまで戦争に行くのだ。誰も反対しない当然のことだ。自然なことだ。それに反するようにとうちの子に強要するとは、なんて悪いヤツなんだろう。

僕は、この女が、誰も反対しない当然のことと、自分がなにものかに突き動かされて食料を運んできたこととが孕む重大な矛盾を、どんな風に解決できたか、将来会って聞いてみたいと思いながら、カンジに目を移し、無言で呼びかけた。

君は口には出さなかったがハイと言ったはずだ。戦争の意味はすぐにかあちゃんが教えてくれるだろう。戦争に行かないと周りの者に言いでもしたら、言わなくても悟られたら、君はいじめられる。僕だって別の意味で君を今いじめている。悪かったな。しかし、子供だもの、しかたがない、そういう目に遭うのだ。耐えろ。長い間ではないのだから。君は僕をも自分をも裏切るだろう。約束は守られない。親たちほどではないにしろ、社会の慣習に従って記憶は急激に薄れていくはずだ。約束の内容どころか約束したことさえ忘れるだろう。君は戦争に行くだろう。例外が許されないからではなく、ありえないからだ。みんなと同じように、酔夢の果てに終焉へ向かって出征するだろう。僕は無駄なことを言って、しばらくのあいだ、君を脅してしまう。済まない。

カンジが急に左足を踏み出し、石を投げつけてきた。母親に当たるのを危惧して今まで迷っていたらしい。だが、雄々しくも決断を下したのだ。僕はそれを顔の前で両手で受け取った。「ストライク!」 大きな声で言った。女は小さく叫んで崩れ落ち、肩を打ったようだったが、腰が抜けていたとは思われないすばやさで体勢を立て直すやダッシュし、わめきながら疾走し、急停止してカンジを抱きかかえ、何かを耳打ちし、音高らかに尻をひっぱだくと、再びわめきながら、またたく間に走り去った。