<女が運んできた食料が川原に散乱したままだった。その有様から、蹴飛ばし、踏みつけ、大慌てで逃げていった女の姿が容易に復元できる。脱走者たち、あるいは元の亭主たちのための食料の一部を、空腹感に負けて少々失敬した。沢山は食べられなかった。胃が小さくなっている。川藻の佃煮と乾燥杏子が珍しく、また美味かった。味覚は忘却に対して比較的抵抗力が強いという。女が、おぼろげな記憶を頼りに、殊勝にも選んだ、昔の男の好物だったのかもしれない。男と寄っかかり合って、おいしい、すごくおいしい、などと言いながら、酒の肴としてつまんでいた構図を思い描く。
食料の間に混ざってはいたが食料でないものを見つけた。表面に沢山の白い筋が走り、指紋のような模様をなす接触変成岩で、水切りに使えば十二三段は行くほどの平べったい丸石だ。恐らくは僕らが辿ってきた大河のほとりで拾ったのだろう。ヘレンがモー人形を篭の底に忍ばせたことを思い出した。僕も施設ニッポンにいた時に誰だったか或る女子からなにやら硬い永続的なものをもらった記憶がある。机の上に置いておいたがいつのまにか消えた。抜けた乳歯だったか? あの女子はだれだったのだろう。……浮舟だったような気がしてきた。その類のものをこちらから渡したことはない。偶像崇拝、あるいはフェティシズムではないかと疑っていたからだ。こういうことをするのは女に特有なのかな。
この石は何の印だろうか? もう記憶もない昔の男たちへの合図なのか? 何かを共同でしたときの思い出の品なのか? 思い出せないはずの思い出があるとして。いやいや、もうすでに、逸脱やほころびとして、記憶の再生があの女にもいくらか生じているのだろう。そこを、頼りなくもけなげに思い詰めて、ついには冒険的な行動にまで至ったのだろう。 
ステゴザウルスの背びれが並んで突き立ち、いくつもの狭間が下流に向かって延びている。その最右端の回廊を歩む。川に浮いて流されるままは安易過ぎた。罰が当たった。
回廊の断面は、左の岩壁の上端から右の岩壁の下端をつなぐ直線で、右斜め上の薄明かりと左斜め下の暗闇に区切られていた。さらにその奥は、混入する湯気で区切りがあいまいになり、白い蒸気が暗闇を背景にして揺らめく長方形の混沌と化していた。そこからこちらへと突き進んでくるあの何をしてもゆるされると確信している男たちを僕は想像してしまう。うごめく湯気が男たちの顔や膝や肩先やつま先に見えてきたのだ。湯気で出来た亜ゾンビたちは戦闘の舞に酔う白塗り兵士らのようで、それらの隙間をつないでニギャチの姿がネガのイメージとして浮かぶ。ニギャチは、仲間に取り囲まれ、促され、急かされ、ど突かれ、罵声を浴びせられながら、進んでくる。男たちは、僕が谷に出てくるとすぐに足を踏み入れる 〝ゆ〟 の字の渡り場までやって来て待つつもりだったのだろう。ところが途中で、日が暮れてしまい、たちまち死刑執行=晩餐となった。僕が遅刻したせいで。
その場所に今まさに僕は近づいてきた。湯気の作る幻影たちも、湖からの風圧に押されて向こうから近づいてきた。そのうち衝突しかねない。
岩の間から横目で現場を盗み見た。何も残っていない。見ようによっては川べりのあそこが黒くなっている。
川に放り込まれた残骸は、川床を這いながら湖に向かって静々と下っていき、強酸で溶かされ、明日あさってにも、白色鮮やかな骨となり、川面にもし耳をつける者がいたとしたら、大気中ではからりからから鳴るはずの音が、重く、だんらり、くぐもるだろうけれど、しかしやっぱり空虚に聞こえてくることだろう。空虚を語るだろう。
急に視野を岩壁がふさいだ。星と月の光が、湯気で濡れてしずくを垂らす岩肌を薄気味悪く照らす。歩みに連れて後ろへと移動する大小高低さまざまの凹凸が、恐竜の腹の蠕動のようだ。ニギャチの言葉がよみがえる。〝言いだしっぺの俺が、ここにつどう我が友たちの恨みを買い、暴行されて食われちまったらどうすんだよ〟 そんな言い方で、自分の発言を冗談にしてしまい、照れるようにふふんと小さく笑った。ヘレンの言葉がよみがえる。〝夕暮れまでに帰って来られても来られなくてもどっちでもかまわないとニギャチは思ってたんでしょうに。どっちであれ、とにかくあの場からあなたを助けたのよ〟。僕はニギャチという存在にあらためて驚嘆する。同型同一からのはるかな逸脱。僕のために犠牲になったニギャチから、さらに、ゆるすという言葉を聞いたなどという妄想をいだくとは、ずうずうしいにも程がある! ニギャチは、かなり年長に見えたので、戦争には幾度か行ったのだろう。家庭も複数回持っただろう。ひょっとして、カンジの母親の元亭主であったかもしれない。あの平たい石はニギャチ宛だった可能性もある。
胸が苦しくなってきた。息を吸った状態で呼吸が止まっている。パニックを起こしそうだ。小走りになった。岩壁が尽きて、再び川面が見えた。右前方に、岩舞台が見えた。視野の変化がきっかけになったらしく、排気できた。そのすぐあとに、亜硫酸ガス臭い空気を肺いっぱいに吸い込むこととなったが。かまうことか。歩き続けろ。深呼吸しろ。冷静に、冷静に。
キリストと見紛うほどに神々しいニギャチ、シーシュポスのようなケヤホド、全力投球少年ダビデ=カンジ、そして、その母。彼ら四者は、いずれも逸脱の実例とみなされる。彼らを逸脱へと駆った動因はなんだったのだろう。わが身を捨て、危険を顧みない献身?。無償の愛?。価値あるものへの信仰?。ヒューマニズム?。それらを一括してモラルと呼ぶとして、一見、それが現れたかのように見える。 だが、そういう判断は間違いだ。僕だって何故食料を持ってきたかと問われたとしたら、ヒューマニズムからでも、同情からでも、やむにやまれぬ同胞愛からでもなかったと答えざるを得ない。僕は母を知らないから、観察によってしか母子関係を判断できないが、カンジとその母親、あの酔っ払いとその老母の様子から推すと、モラルとは無関係であると思う。
では、ニギャチとケヤホドは、モラルが、突き動かしていたのか? やっぱりそうではないだろう。白っ子1の、いかにも僕を馬鹿にした言い様を思い出す。
(あー、そーかあ、君は、モラルを語りたいんだね? はるか昔の世代が築いた壮大なナンセンスを!)
そのモラルが文明とともに崩壊した後に、物心ついた頃から無モラル教育を受けてきた市民を成員として、帝国は実現した。そこからの逸脱が、古来のモラルに戻ることは出来ない。記憶がたとえ戻ったからといっても、それらのモラルが復活するはずはない。元々持っていなかったものが復活するはずがない。
市民は、モラルとは別の原則に従った教育を施されていた。いくら白っこ1が、危機と奮闘を通して民族自身が自覚したと言い張っても、あまりに短期間での達成を説明は出来ない。文明と文化の崩壊を反省し、解析と批判に立った前もっての教育があったのだ。あの、眼鏡をかけた神によって。いっぽう僕は、モラルに従って生きたことはないと思うが、モラルを学習はさせられた。だから、僕が隔離されていた理由のひとつが明らかになる。彼らとの接触によって、学習の結果であるモラルが彼らに流出しかねなかった。父はそれを恐れたからだ。なぜ父が、有害であるにちがいないモラルを僕に教えたかは不明だ。神の意図など分かるはずがあろうか。ただし、ふふっ、神は眼鏡をかけていた。近視か、遠視か、乱視か、何らかだったのだ。だから、とにかく神が、視る者として完璧ではなかったことだけは明らかだ。
単一が崩れて多数性多様性を持つように見えてきても、それは、過去への回帰ではなく単一の実現にすぎないかもしれない。分化し、見かけの差異を持ち、様々に仮装した、単一かもしれない。単一理念からの逸脱が、原理の体現であり、深く潜在していた同型同一の顕在化であり、個別現実化であり、生々しい実践であるかもしれない。
それぞれの具体的な逸脱、僕にとっては切実な体験の数々を繋げると、全部を貫く共通性が見えてきそうだ。この開いた可能性の誘惑に、は―、僕は抗し切れない。広大な可能性が秘める共通性、指し示すひとつのこととはなんだろうか? いち→いっぱい→いち。おや? はて? 前後二つのいちは、同じ、いち、なんだろうか? そうだ、それが問題だ。いち、がひとつであることは証明を要するぞ! 
…… ううう、悩みは果てない。あのねえ、お父さん。ヒントをくれてもいいんだよ。ねえ。
再び岩壁が切れて隙間が開いた。川を隔てて岩舞台が正面に聳え立っている。四つん這いになって川原のがわの岩壁に左肩をこすりつけながら沿って進み、窪みを見つけてそれに背をくっつけ、両脚を両手で引き寄せ、あたかも岩であるような振りが出来るようにと願いつつ身を潜めた。そこここから噴出する亜硫酸ガスも、音を立てるなとでもいうように、C―C―C―と音を立てる。複数のハットリが、向こう岸の、岩のてっぺんや、崖の中腹や、川原の岩陰に、いつのまにやらなにげなくそっと現れた。我々の種ではないかのように、手のひらや足の裏に吸盤があるかのように、動きによどみがない。
想像上の拍子木が、耳をつんざくほどにかき鳴った。実は、上流はるかの間欠泉が吹き上がって、かり、かり、訶、訶、訶、訶っ、不眠症のセミ達が一瞬ひるんで鳴き止むほど音高らかに、吼えたのだ。舞台の幕がまさに切って落とされようとしていた。
土俵入りの際の露払いか大名行列のヤッコのように、どデブのガードマンが下手からやってきた。太い首をきつそうに左右に廻らし、だれもいない周囲になにやらつぶやきながら、のっしのっし。
岩舞台の下、数名のクロードが、ヘレンの周りに、じわり、集ってきた。ヘレンは、立てた右ひざに右ひじを乗せ、手先を垂らし、静やかに坐っている。掲げた顎で川下を指し、歌声だけは聞こえるがまだ見えないモーゼを、すでに予想として見ている。浪を切る舳先のような横顔が、ものすごく美しい。
遠くにどやどやがやがやざわめきがある。群集がやってくるのだ。不規則でたくさんの足踏みの音が聞こえる。歌も聞こえる。独唱と合唱が繰り返される。さらに谷間にこだまする得体の知れない動物の咆哮も聞こえてきた。
独唱をつかさどるのは聴き慣れたあのバリトンだ。ボディガード達が手拍子とはやし言葉で騒々しい合いの手を入れる。

あー こーりゃあ、はい こーりゃあ、あー こーりゃあ、はい こーりゃあ、
(朗々たる独唱)岩よ、林よ、山岳よ。尽きせぬ流れよ、湖よ。月よ、風よ、動物よ。はてなき空よ、星辰よ。森羅万象、すべての現象、ありうる限りの神々よ。ともに、歌えや、楽園讃頌。
(一転、北海盆歌になり)楽園め―い―ぶ―つ(は―、ど―したどした)、かず―か―ずこりゃあ―れどよ―。(はっ、それからどした―)おらがな―、おらが楽園のこーりゃ―、やれさな―、おっおいおい、せか―すなよ―。
(は―、えんやーこーらやっと―、どっこいじゃんじゃんこ―らや―)
(急にラップ調になって)幸せいっぱい、喜びいっぱい、お宝いっぱい、我らが楽園。精力いっぱい、平和いっぱい、信頼いっぱい、我らが楽園。快、朗、祝、好、情、憩、泰、寧、慈、恵、安、篤、雅、貴、仁、慶、誠、潔、優、寿、慰、聖、寵、徳、楽、真、善、美、福、生、命、愛いっぱい。ああ、愛、愛、愛。ああ、愛、愛、愛。世界に冠たる我らが楽園。
ああ楽園は、千代にぃ―いっい、八千代に。さざれ―石の―、巌―とな―りて、苔の生う―す―まぁ―で―。とこしえに― とこしえに――。
(は―、えんやーこーらやっと―、どっこいじゃんじゃんこ―らやっ はーぁ)

空疎蒙昧陳腐な語句で、奇怪猥雑滑稽な歌詞を、いかにも楽しそうに歌うのは、我らが魅惑のバリトン、コーテー、モーゼだ。立ち昇り渦を巻く白いガスの中から、宴の池のヌシである巨大両生類に乗っかって、両手突き上げガスをかき混ぜ、繰り返し大見得切る地雷也さながら登場した。
歌から始まった言語は、帝国では情報伝達と記録の機能を失い、歌で終わろうとしている。日常、歌いまくって暮らしているモーゼが、その最先端の現実態だ。歌いっぷりは自信満々で、空白を、日常の空虚を、言葉と音響で充填しつくさんとする圧倒的な勢いだ。歌う内容は、弟のリトルモーゼに劣らず、コーテーらしからぬ誤解と錯覚に満ちみちている。だが、モーゼは冗談の権化だ。ふざけきって冗談めかしきって、道化の、トリックスターの振りしきって唱えている可能性もあるから油断はならない。僕は、もうしばらくのちに、モーゼと、深刻な話をせねばならない。モーゼのこの躁、興奮、高揚が続きっぱなしだとしたら、何と切り出したらいいのかと、思い迷う。恐ろしいことだが、もしもモーゼが、本当に冗談を生きているとしたら(ジョウダン、ジョウダン、ミンナ、ジョウダン!)、まともな対話は不可能だ。そういえば、僕との学習時間中で、モーゼが上の空でなかったためしはなかったようだ。学習も冗談だとみなしてきたのか。
両生類の尻のすぐ後ろに、チャーリーに僕がおぶわれていたように、金剛力士のようなブラザーにおぶわれて、白っ子がついてくる。一瞬白っ子1の再臨かと錯覚し、狼狽してしまった。知能の高い、めげた生き物。
列の後ろのほうから、生口十五名! 。十四十六ではなく、生口十五名とはっきり言ってくる。 言葉がリレーされて口々に繰り返され近寄ってくる。十五に何の意味があるのだろう。せいこうとは捕虜のことか? 
皮膚の色が、白黒黄色その他ハッとする緑色や罪深そうな赤色なんぞの、異民族集団が、歌いながらやってきた。奴隷にされるはずだが、白煙にまみれながら現れた男達は、あまり悲しげには見えない。いや、喜んでいる。自分らがこれからどうなるか分かっていないな。左右を機動隊さながらのブラザーたちに規制され、行列をなしている。踊りながら歌をうたっているやつらがいる。三弦のギターをかき鳴らして、くぁっつ、ぼれりん、などと音を出す。両手に持った石をぶち合わせているやつがいる。奇声を、おーっ、ほっほっほっほ、発するやつがいる。おーっ、ほっほっほっほ。昔、しょっちゅう聞いたジャングルの樹上生物同士が取り交わす同士確認のための吼え声だ。おーっ、ほっほっほっほ。
タトゥーなのかボディペインティングなのか、後頭部に女の顔を描いているやつがいる。そいつが、くるくる回るので、男女が組んで顔を背けあい、ダンスしているように見える。スミレが刺さった壁が回り、ヘレンと僕もくるくる回った。うんたった、ウ―ララ、ウラーラ。ラララララ。あの酩酊の三拍子! こんなものを見たせいで、思い出を汚したくないが、想起は場所も時もわきまえない。逃亡者たち、動物園の動物達が、野次を浴びせたり、石を投げたりしながらついてくる。その中に浮舟の姿がある。やりすぎをコントロールしようとしているようだ。あれこれ大声を挙げて指示を出しているが男達は聴きゃーしない。
逃亡者たちと生口が喧嘩を始めた。浮舟の姿が見えなくなった。生口らのしゃべりことばは猛烈な訛りに侵されている。いや、それどころか正体不明の多言語が同時に発せられている。興味深いな。ちらり、かつてヒトミが喋っていた言語を聴いたような気がした。だれかが、もしかして浮舟かもしれなかったが、せっせっせっせっ、と合図すると、魔法のように喧嘩が止んだ。ヤツらはツキが落ちたように、だみ声を張り上げて合唱し始めた。各々の自尊心を明らかにしたそうな行進をしながら。数名は口ぱくが明らかではあるが。

うれしやうれし、バトロワで、生き残ったぜ、おれ達は。
棺桶島には十五たり、YO-HO-HO、おまけにラムが一瓶ずつ。うれしやうれし、生き残ったぜ。酒と悪魔が残りは片付け、YO-HO-HO、おまけにラムが一瓶ずつ。
浮舟ではない誰か、この場にふさわしい粗雑な男がだみ声で怒鳴った。どうせなら、もっと正確に唄え―! へっへ――い。だんなさまー。
うれしやうれし、バトロワで、生き残ったぜ、おれ達は。
地獄谷には十五たり、YO-HO-HO、おまけにスポンジ一つずつ。うれしやうれし、生き残ったぜ。酒と悪魔が残りは片付け、YO-HO-HO、おまけにスポンジまたひとつ。

確かにそれぞれがスポンジをすすりながら行進している。遠征で残ったぶんをブラザーたちが傲然たる態度ではあるが分け与えている。竹筒に入った酒もある。けが人はいない。使えないからだ。壮健な者ばかりだ。たくさんの生口をバトル・ロワイアルさせて十五名を選択したようだ。がっかりするほど安易な選択方法だ。誰が仕切っているんだ?
両生類が、ゲロを吐いた。空中に茶色い幕が一瞬架かった。その幕を蹴破るように、足の踵が見えた。川原に落ちて、訶っ! もう一回、訶っ! 音を立てて転がった。フンジャリの踵だ。膝から足首までは灰色の骨だけが露わだが、踵からつま先にかけてはまだ肉がついていて、僕がそこをつかんだ感触がよみがえる。やっぱり湖までたどり着けなかったのか。
僕はさっき食べた川藻の佃煮を少し吐いた。あんなに美味しかった佃煮なのに、食道を痛める胃酸にからめられて、後味が悪くなってしまった。
長々大々の咆哮を可能にするのは、あきれるほどの、僕の施設での部屋ぐらいの容量の肺活量だ。列の最後尾、湯気を峰の白雲のように体にまつわりつかせながら恐竜が現れた。ブラザー達が、棘の蔦で左右から追い立てている。二本のまっすぐに尖った角がVサインのように左右に突き立ち、畑の土を鋤くように切実に空を掻く。ひとあし進めるごとに、首を上下に振りたてて、その反動を利用して体を前へ送っているからだ。まだ子供だが、獣に比べると格段にデカい。左の後ろ足が膝下で切れている。三本脚で歩いている。ドギーを殺した恐竜も三本脚だった。もっとも、本来ニ脚である畸形のTレックスだったが。血はもう流れ出てはいないが赤黒いブドウの房のような血餅が膝上でぶるぶる震えている。仲間達にとっては大収穫だ。広場で屠殺されるのだろう。鳴き声が泣き声に変わって、うえーん、うえーん、うえーんと運命の悲惨を嘆いているように聞こえてきた。僕は、ドナドナド―ナ―ドーナーと口ずさみつつ、逃がすにはどうしたらよかろうかと、考え始めた。
ヘレンが立ち上がると、クロードたちは一斉に、池の真ん中に落ちた石が作った波紋のように、小石を蹴る音を立てながら散開した。よく調和の取れた、王女を気遣うナイト同士の、男性バレリーナもどきの動きだ。もやっと、鼻先に匂いが漂った。ヘレンがこの男達みんなと関係しているのではないかというあきれた妄想に駆られた。まさか。現在学習中の、まあ、独習中だが、KY学が教唆するところであるのか。学習には身のためにならないものもあるな。特にこのKY学には気をつけよう。学習を開始したばかりの今は、過敏になっているようだ。
メノトが、アルファとベータを両手に抱えて姿を現した。下ろされた子供たちは即座に正座してヘレンの横に並ぶ。三つ指突いて、大きな声で、一緒に唱えた。オトーサマー、お帰りなさい。僕の妄想に装飾されたヘレンもまた、面を上げて、顎を高々突き出して、眼前に迫ったモーゼを見上げて、官能の一言、お帰りなさいませ、ダーリン、と言ったのだ。ちぇっ、この場面、見なければよかった、このせりふ、聞かなければよかった。儀式が終わるや否や、メノトは息子には憎んでいるかのように目もかけないで、子供達をかき抱きあげて、あっという間に場面から消え去った。醜悪で巨大で好色なモーゼにそっくりの両生類に、いや、そんな醜悪で巨大で好色な両生類にそっくりのモーゼに、ヘレンが走り寄った。途中でつまづき、それを口実にした風に、好ましくもちょっと躊躇した。両生類の鼻面を踏み切り板にして跳び降りたモーゼは、委細かまわず掻っ攫うようにヘレンをお姫さま抱っこした。派手にわざとらしく音を立ててキスした。クロードたちは、大袈裟に首をひねって横を向いた。あーあっ、と、声が聞こえた気がするのは、気の迷いか。ヘレンは、今はもうこれまでと、抱っこが、まな板の上に載ったことであるかのようにふしだらに身を任せている。また回転だ。(僕はスピンをひどく気にする性質だ。) 急速回転。優雅ではない。ぶんまわす。左手で脇の下から担いで、右手で尻の下から持ち上げている。ヘレンは、快さげになされるがままだ。ダーリン、お―、マイダーリンなどと、時々甘い声が聞こえてくる。おい、モ―ゼよ、君の右手の主要な二本の指は、どこさわってるんだよ。ああ、みじめじゃ。
モーゼは、うれしそうに、ヘレンをぶんまわし、いじくりながら、大音声を上げた。
タダヨシは―― どこだ――。
なんだって? びっくりしてしまっちゃったじゃないか。僕を意識してやってるのかい、君。
効果てきめんだぜ、興奮のあまり、もう射精しそうだ。もう、あ、あら、あららら。
川原の軽石を潰す音とともに、視野がさえぎられたので、つづけざまに、別様に、びっくりした。さえぎったのは両膝を抱えて着地した男の後姿だ。頭、上腕、背中、腰に蔦を巻きつけ、色とりどりの木の葉を根元のところでそれに突き刺している。木の葉の間から地肌が見える。黒い血の塊が滲んだまま固まって大小の引っかき傷を埋めている。いつのまにかステゴザウルスの背びれに立って頭上から僕を見張っていたハットリが、目の前に飛び降りたのだった。そいつは振りかえらずに低い声で言った。
行くぞ。/strong>