前を行くハットリは、僕とは異なり、本当に足が地面と接触しているのか疑わしいほどに足音を立てない。僕は、進行方向から右斜め後ろにずれて、踏み出す足を観察した。抜き足差し足忍び足とはこのことか、熱い風呂に恐る恐る入るように、踵を上げて、つま先から着地している。内股気味に、五指の先端が同時に着く。着いた瞬間、足首と膝を充分に曲げるので地面に衝撃を与えない。
前傾姿勢を保ちつつ、膝を曲げて腹に引きつけておいてから、後ろに押すように蹴リ出す。石ころだらけの川原ではなく氷の上を滑っていくかのようだ。歩幅は広くペースもゆっくりとしているのに相当な走行スピ―ドなので、僕は小走りでついていかねばならない。この差が生じる理由も、下半身だけではなく全身の動きをあらためて見ると、納得がいった。
ハットリは、右手と右足、左手と左足を、同時に前に出していた。いわゆるナンバ走りを実践していたのだ。僕も施設ニッポンで体育の授業の際にやらされて危うく後ろ向きになりかけたものだった。僕達が施設の外で暮らすだろうと予想して前もってナンバ走りを授業に取り入れたのだとしたら、父の先見の明はたいしたものだった。今、やってみようか、とも思ったが、後ろ向きどころか転倒しかねないのでやめた。
ハットリはこの技能を授業で習っただけで終わらせずに、恐らくは練習を重ね、ついに自分のものにした。たいしたものだ。飲んだくれの男子市民たちとはえらいちがいだ。だが、ハットリも市民は市民だ。いくらナンバ走りに熟達していようとも、ハットリの実体は、ハットリ役を演じる或る市民だ。その市民が、強制や義務とは無縁の、ハットリというボランティア活動をしているに過ぎない。プロは帝国ではありえない。酔い醒ましのための戯れでやっているのかもしれない。いつなんどき、飽きて、飲んだくれの市民に転身するかわからない。モーゼでさえ原理的には同じことだ。
だが少なくとも今現在そこにいるハットリは、特殊技能の権化であり、頭を一センチも上下動させずに、優雅に走リ続ける。走るというよりは、舞台演技か舞踏に近い。見えない花道を、荒々しくではなく静やかに、六方踏んで進んでいる、と思ってもかまわないくらいだ。
ハットリの頭越しに、見えない花道の行き着く先である岩舞台が見える。その下で、モーゼが、ヘレンを太鼓のような腹に乗せ、お姫様抱っこしたまま、数回の右回転と数回の左回転を交互に繰り返し、You are my moonshine. My only moonshine.と歌いながら、遠くの周囲に目を配っている。
大太鼓を下から連打する長大な撥が、回転方向が変わる際に陰から逃れ、月光を浴びて艶やかに照り映える。
Please don't take my moonshine away.というせりふに僕はひっかかる。
モーゼは時々歌を中断してへレンを見下ろす。ヘレンが何かを言い掛けるので、それに応じる必要があるらしい。ヘレンは何と言っているのだろう。おー、マイダーリン、もっと……、かね、まったく。
右隣にはクロードたちが目を逸らしながらも姿勢よく整列している。苦笑いを抑えきれない者をみつけた。
左隣には両生類が小山となって蹲り、地鳴りのようないびきをかいていて。
白っ子は、金剛力士の背から降りて、川原にへたり込んで黙ってこちらを既に見ていて。
力士は向こう向きになって両膝に手をつき大股開いて立小便をしていて。
そこが行列の先頭で、左に延びた行列の最後尾に恐竜が高々とそびえ、もう首は振っていないものの、相変わらずうえーん、うえーん、うえーんと泣いていて。
生口たちも『動物』たちもブラザーたちも、おしゃべり、ののしり、笑っていて。
大半の者は右を向いて立ち止まったままだが、楽器の演奏も歌も止めず、中には、追いかけあって走り回ったり喧嘩したりするやつらもいて。
ハットリと僕が近づくにつれて、彼らの像は拡大し解像度は高まり、視角が広がるので列は左へと延びていき、あたかも列をなす者たち全員が右を向いたまま左に向かってムーンウォークで進んでいるかのように見える。音響もまたそれにつれて左へと延びながら音量を増していく。
あそこだ! 誰かが甲高くて鋭い声をあげた。
列のあちらこちらから次々に腕が伸び、狙い撃つようにハットリと僕を指先でさした。
行列から発していたノイズが、潮が引いて戻ってこないように静まった。モーゼの歌と両生類のいびきと恐竜の泣き声が残った。川音と噴出するガスの音とセミの声を僕はあらためて意識した。
モーゼ以外は誰も動かない。クロードの列の左端に立っている者が横を向いてモーゼに何かを伝えたが、その前に、もうモーゼはこちらを睨んでいた。体は回しても顔はぎりぎりまでこちらに向けておいて最後に一瞬で回転させてからまた睨む。僕は危うくかわしたリトルモーゼの回し蹴りを思い出す。
ОUCH!!!
モーゼが大声を上げた。右回転が急停止した。両脚がつっぱった。足もとの小石がいくつか跳ね飛んだ。
何ごとかと、クロードやボディガードらが一斉にモーゼを注視した。
ハットリが急停止したので、僕は彼の背中にぶつかって停止させられた。視界が急変して湯の川が上辺にあるだけの石ころだらけの川原しか見えなくなり、顎がハットリの頭頂につっかえた。体に挿した木の葉の中には棘を持つのもあるのがわかった。すぐさまハットリの両肩に両手を置いて立ち直ると、腕を組んで前方を見た。
ヘレンは、両手はモーゼの首に巻きつけたままだが背中はこちらに向けていた。左脚はモーゼの太鼓腹の右側に垂れているが、ほぼ水平に伸びた右脚が奥から手前へと勢いが止まらずに回ってきているところだった。
何が起きたのか。モーゼが左手を離したのだ。
ヘレンは、ほぼ右向きになり両手を離しモーゼの体から滑り降り足をそろえて着地し小走りにクロードたちの前を過ぎて岩舞台の右横の坂を駆け上ろうとした。
そこでふと立ち止まって上げかけた右足を下ろし振り返り僕を見た。その形相がものすごい。目を吊り上げて熟れた果実のように真っ赤になってかんかんに怒っている。唇がうごめいている。声を出さずに何か言っているようだ。愚かな僕にもその文句はわかる。
寝ていてちょうだい、来ないでちょうだいと言ったでしょうが! ああもう、ずっ―とみんな見てたのね! モーが真夜中に来るから、帰るまでは来ないでと言ったのに! どうしてなの! なんでわかってくれないのよ!
ヘレンは荷をふるい落とすように両肩を震わすと向き直って走り去った。
今はわかるが、あの時はわからなかった。
伝達機能を二の次にしている言語、ヒントあるいは比喩としての言語は、いまだに判じ物のように聞こえる場合がある。僕は、市民との交流において経験した行き違いや勘違いを点検することによって、手探りでKY学を独習中だが、帝国内を電磁波のように飛び交うテレパシーにまだよく感応できていない。ヘレンとでさえ時々交信が十分でないことがある。あの時もそうだった。
なぜこの点について僕はスローラーナーなのか。その時その場の空気というより、諸々の空気が前提としている、帝国全体に濃厚に澱んだ、基底となる空気に、違和感を感じているからだろう。テレパシーとしか言いようのない問答無用のその手段にも納得がいっていないからだろう。自分自身にまといついて離れない、どうも変だなおかしいなあという批判性向がじゃまをしている。だからノリが悪いのだ。社会に対する批判と社会への適応とを、分離して並立進行させることはできないのかな? できないでいる不甲斐なさ、既に父親であるくせに未熟なところ、クールでないところを思い、自信が口から逃げていくようなため息をつきつつ、モーゼに目を移す。
川原にどっかと胡坐をかいている。左腕の上腕を右手で抑え、寄り集まったクロードやボディガードたちに、指と指の間の負傷部分を見せつけている。白っ子もそばにいるが関心は示さない。
離してくれといくら訴えてもモ―ゼが聞かないのでヘレンが噛みついたのだ。
集ってくる者の数が段々増えてきて、モーゼの姿が見えなくなってしばらく経った。
モーゼが立ち上がった。周囲を掻き分け、右手で噛み跡を揉みながらいびきをかいて眠っている両生類に近づくと、その鼻の穴の間を左足で蹴った。それでも起きないので鼻面に乗り、閉じた右眼をまた蹴った。透明な瞬膜が眼球の上部の会合部からゆっくりと下がってきた。モーゼは川原に飛び降りると、なにやら怒鳴りながら両生類の下唇に相当する部分を足で押し下げようとした。戸惑う相手への何度かの暴力的な試みがあった。やっと口が開いて長大な舌がエスカレーターのように延び出てきた。モーゼは、舌の向こう側に座り込んで両生類に面と向かい、うってかわってねぎらいの言葉を投げかけると、こちら側に頭を倒して寝そべり、舌先に傷口を押し付けた。両生類は嫌がらずゆるゆると舌先を巻きかけたり伸ばしたりし、揺れるモーゼをうれしがらせているようだ。
静電気が走ったようなむず痒さを足の裏に感じた。かり、かり、訶、訶、訶、訶っ。間欠泉が吹き上がって、耳をつんざくほどにかき鳴った。十五名の生口全員が、恐怖の金切り声を挙げた。引っぱりあげられたように伸び切った姿勢をそろってとって上流へ顔を向けた途端、星空を背景にすっくと立った白い悪魔を意外な高みに見出して仰天し、たちまちその統一を崩してしまい、顔をしわくちゃにして目を閉じる者、背を向ける者、頭を抱えてしゃがみこむ者、口を開けたまま見とれる者へと、三、三、四、五、分裂した。
僕は、間欠泉の姿を見て、美しいと思うほどには慣れてきた。だが、蝉が一斉に鳴き止むのには、今まで気づかなかった。全天の星の瞬きが突然めまぐるしくなった。飛び立った蝉たちが、星の光をさえぎるからだ。川原のあちらこちらから何かが転がる乾いた音が聞こえる。蝉どうしが、空中でぶつかり合って、落ちてきたのだ。
さっきの噴出から今回のまでにかかった時間がかなり短いのが気になるな。
間欠泉の轟音がスターターになり、魔法から解かれたかのように、ざわめきが復活した。
クロードの先導により、行列が上流へと移動し始めた。ただし、『動物』は、ブラザーたちによって追い返されていく。『動物』たちの先頭に、実際に後ろ向きになってムーンウォークで進む浮舟の姿が見えた。舞踏に移行しかねない大きな動作の手話をまじえて演説中だ。酷使のはてに割れて掠れてしまった声が、かすかに聞こえる。
わかった? もう一度言うわよ! ちょっとぉ―、こっちを見なさい、ホンポーシャ!
ハットリもまた歩行を再開したが、川の縁まであと五歩ほどの地点で、黙ったままふいに右に逸れていった。僕は直進し、川の浅瀬に立ち入って待機する。
終にびっこの恐竜が頭を振りふり泣きながら正面にやってきた。茶色の皮膚の下のあばら骨が露わだ。左右についているブラザーが、しゅっ、しゅっ、と大声で威嚇しながら、自分達の身長の三倍ほどもある長い蔦で、骨盤の浮き出た尻をたたく。雌であるのがわかった。
親と離ればなれになり、常食していた餌を探せず、痩せ衰えたのだろう。ハットリのように、体中に擦過傷が走り、泥や落ち葉がついている。崖から転落したのだろう。左脚が切れているわけはなんだろう。湖の岸辺か浅瀬で水を飲んでいたところを、ワニか淡水鮫に襲われたのか。ジャングルで大型肉食竜に襲われたのか。脚を食わせておいて逃げたのだろうか。……両生類が吐いた溶けかけの片脚を思い出した。
屠殺されるはずの、具体的な不幸である少女恐竜が通り過ぎた。長幅の絵巻物がやっと巻き取られた。あとに残った者は、命じられればなんでもする両生類が突き出した舌を敷布団にして、左肩を下に寝そべっているモーゼだけだった。崖の方に伸ばしていた下半身の向きを九十度変え、左脚は曲げているが右脚は伸ばして両生類の鼻面に乗せている。右手が、左前腕の半ばを、庇うようにつかんでいる。見る者の目が自然に左手首へと誘われるように企んだ、モーゼ得意の格好だ。その手首には腕時計のように、近代科学技術の象徴であるニンテンドーが巻きつけてある。両側から押し寄せる皮下脂肪に埋もれかけている。バンドの長さは僕の場合の1・5倍以上で、これ以上延ばせない。今にも千切れそうで見るたびにどうにかしてやりたくなる。
モーゼは、女に噛みつかれて悲鳴を上げたばかりとはとても思えない、悠揚迫らざる、一片の滑稽も交えない、いかにもこ―て―然としたポ―ズをとっている。
顔は肩の上に垂らさず、鎌首のように斜めに持ち上げている。ヘビが、とっくに獲物を見つけておきながらいざ面と向かうと、おや、そこにいたのかい、と語りかける振りをするように。モーゼは、こころなしか、こちらに向かって微笑みかけているように見える。

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