死体は開く
私は身体の開口部が開いていないような死体を知らない。目ひとつとっても、わが身の死の瞬間を見たくないだろうから、目を堅く閉じた死体があってもいいはずだが、大々、薄い、の差はあるものの、直後は目を開いている。口もまた開いている。歯が見える。この二つは、顔に位置するので、残された者には、開いたそれらは印象深い。彼らは、こういう最期の表情の成り立ちのわけを掴もうと、妄想に駆り立てられる。口は、魂が抜けるための解放口だったのか。口から抜けていく魂を、目で追いすがったために、とうとう閉じる間がなかったのか。
教養とは何か
教養がなくても、科学者にはなれる。たとえ機械的にであろうと勉強を続ければなれる。
それが問題だ。科学そのものの弱点にもなる。
教養は不要だ、むしろ害になるという考え方があるので、とても厄介だ。
教養の定義は何か。
万巻を読み抜いた読書人の得た知恵か。
非常に賢い百姓(トロツキーが、レーニンを評してこう言ったが)の持つ知恵か。賢くない、自然に翻弄される百姓の知恵かもしれないが。
私は、昔、ある作品の中で、教養とは、何が問題になっても、ああそれは、と、レファレンスが出来る能力だと、書いた覚えがある。
さあでは、平明で即時なレファレンスは、ウィキペデイアとどこが違うのか。
知識と知恵を区別するといい。教養は、知恵のことだ。教養は、知識にとどまらず、そこから舞い上がった何か、だ。舞い上がっても、実体の重力度を持つ。個々人の問題ではない。全体を、このものすごい全体を、意識しているかしていないかが問題だ。その意識が教養だ。
学問の中で最も求心的なもの
数学は、末期的ながら、アナーキーがまだ許される。生物学では、生々しい奇跡を楽しめる。で、最も求心的なものは? もはや神学ではない。物理学だ。だから、私は物理学の神学化を危ぶむ。
私にとっての、良書であるための、判定条件
読んでいる最中、あっ、先を越されたな、と思わせる本。
私が暖めていた秘密のことが書かれている本。良書どころか、もうこうなると、憎らしくなるね。
被災地の強み
環太平洋地震帯の中で、今後最も大地震の生じる可能性が少なく、この意味では最も安全な地域であるということだ。あんなことの後では、もう大地震など当分来ないからだ。
外国資本が土地を買い占め始めるね。
命はなぜ価値があるのか
死自体は、当然、偶然、運命の結果だった。続いて、身内での弔いがこっそりあっただけだ。
だが、争いが、命の価値を高めた。なぜか。
個人のレベルから国家間の戦争まで、相手を殺すと問題が解決するからだ。首を切り落とせば、問題もまたバケツに落ちた。問題が、もはや問題ではなくなるからだ。だから、殺すことの、決定的な有効性が、生きていることの潜在的価値を高めた。それまでは、有効性がなかった命が、他者とのコミュニケイション不全によって、(交換)価値を持った。悲しみのことを言っているのではない。肉親や愛する者の死に伴う悲しみは価値とは無関係だ。だが、商品化社会では、この二つの死の区別はされない。
ぞっと、しないか?
国家
リバタリアンは国家を邪魔者としている。私も国家なんぞ早く消滅すればいいと思っている。国家は共同体が成長の過程で持たざるを得ない過渡的形態に過ぎない。小さな国家どころか、ゼロ国家こそ望ましく、国家は諸悪の元であると告発する立場に私はある。そこは、ヤンキー、失礼、リバタリアンと同じだ。国家が消滅した後に来るべき共同体が国家の二番煎じなどではしょうがない。旧来の国家群に替わって、新たな共同体が必要だ。それはいかにして出現するのか。その勢力とは何か。
世界中の幼稚園小中高大学生が、とにかく若者達が、NPOやNGOに参加するようになるだろう。若者達が主人公である無数のNPOやNGOが連合して、世界政府を作るだろう。それが、リバタリアン等を凌駕する未来の勢力である。その最終的な直接共同体=全世界勢力が、地球の良心と意志を実現するだろう。
若者よ! 世界政府に参画すべく、日々の勉学にいそしめ!
障害者スポーツ大会の開会式実況を観た。
生活のあらゆるレベルでの奮闘努力の比喩として、健常者の国体よりも、訴える力は大きかろう。観る者は比喩として、心を強からしめられるだろうが、実は、心拍数を上げ、過酸化物に抵抗する彼ら彼女らの身体の奮闘が実体であるのだから、観る者達の奮闘のほうが比喩ではないのか? 奮闘であるかのように思っているもの、こと、が、どこで発していると思っているのだろうか? さらには、比喩は、観る者のシムパシーにも及ぶのではないか? 比喩としてのシムパシー!
シンメトリーはどこにある?
シンメトリーは、空間におけるモノや図形の形を変えない変換のことなので、自己接着の繰り返しとみなされて、空間の充填に利用される。次元の制約を受けている。だから、どのようなシンメトリーがありうるか、は、そのシンメトリーがどんな次元にあるのか、をも示す。
何故シンメトリーが随所に見出されるか。人間にとってのひとつの理由は、繰り返し作業を統御する手段の一つになるからだ。職人の単純労働に適い、大量生産可能な、技術の伝達が容易な作図は何か。それは古来から焦慮の要請だったろう。空間の無限一様性を想定するか、空間そのものを有界で閉じたシンメトリーなものにするかして、それが可能となった。だが、我々が日常的に接する自然のなかに、シンメトリーが閉じた実体として存在しているのを見つけ出すのは意外とむずかしい。結晶には断面がある。蜂の巣には取り囲む縁がある。充填ではないが、植物の葉序には上下に端がある。我々の延長化能力で補ってはじめてシンメトリーは完成する。
スタンダードミステイク
デカルトの、存在と唯一性の混同が、未だに影響をもたらしている。数学を学ぶ学生たちが、極限を求める際に、よくやる間違いだ。
他に、どんな、スタンダードミステイクが、あるかというと……
天皇暗殺
中野泰雄は、大塚久雄から、幕末時の天皇(明治天皇の父親、孝明)暗殺事件の詳細を聞いたそうだ。大塚の親戚が宮中の者だったらしい。あの大塚が、とは思う。当人もそんな係累があったなんぞあまり言いたくなかっただろう(だが、大塚は生まれ育ちが京都)。詳細にではないものの、誰が孝明天皇を殺したかは、私は泰雄から直に聞いた。聞いて、びっくりした。陰惨な話ではある。
中絶宣言
ボーヴォアールも、サガンも、中絶したと公言し、日本の新聞にも、三面にだが、顔写真入りで大々的に載った。私は、ボーヴォアールはともかくも、着床しかねないと知っているのにかまわず強行したサガンの気持ちがどうであったか、しばし考えた覚えがある。分別盛りに痺れたから?
いい気なサルトル。悪い男。こいつ、好きではないねえ。〝アンリ・ブリュエールの生涯〟と、〝言葉〟と、どっちが優れているか?
地下鉄で暮らす賢者
数学教科書、ニコラ・ブルバッキー叢書(サルトルは生理的に受け付けなかったが、ボーヴォアールは少し読んだらしい)の、集合とその上の演算体系という構えで、どこまで現実を切り裂きえたか。観念操作の精緻化には、特に教育のレベルで貢献があっただろうが、生産性はなかったとは、多くの、他国語に翻訳したひとびとだけではなく、実際に諸問題にかかわっていた人たちとのあいだで、実感であった。例。日本では、森毅。
かつてこのサークルで、活躍していた狂人の一人。だれか? アンドレ・ヴェイユに匹敵したのは、グロタンディーク。その先生であるデュドネよりもキチガイ度は高い。
私が大好きな、閉鎖的な、行き場のなさそうな、合理的数学的宗教者。膨大な閉鎖。その内部で勃発する彼。パリの地下鉄、乗りっぱなしの彼。裸足で。乗ったまま、そのまま、轟音に包まれ、別の世に行ってしまいそうな彼。本当にどこかに行ってしまった彼。
Quo Vadis?
悪人かどうかテストしてみると……
奈良の大仏殿を支えている柱の一つに、四角い穴が開いている。善人は通れて、悪人は通れないという。かつて、鼠小僧次郎吉が、詰まってしまて出られなくなった、という言い伝えがある。大映の映画で、長谷川一夫が、その場面を演じていたように記憶する。映画では、史実(!)と異なり、長谷川鼠小僧は、嫌がって、その穴に入らなかった。私が試みたところ、案の定、突っかかってしまった。たちまち血流が滞リ始めた。閉館時間にもう間近、周りには誰もいない。声を限りに、助けて―ー、助けて―ー。坊さんが、聞きつけて、引きずり出してくれた。前々からの閉所恐怖症が、さらにこの体験で、強まった。
本当はやってはいけない
諸々の可能性を持つ事情を推測することによってがんじがらめに緊迫抑制されているから、へんなことにはならない。原理的には危険であっても。あの程度のエネルギーでは、ありえない。話にならない。
が、偶然、揺らぎ、は、いつでもある。
――素粒子衝突実験の話。
今、私たちは、どこにいるのか?
個の生涯は、物質の見る夢の中で展開される。
そもそも意識は、物質の見る夢だ。いかにもありえないような、無理な、果てしもない、畸形的な、絶対実現不可能なはずだった夢である。
拡散過程は、この段階に現在ある。
よくぞまあと、ほめる前に、あきれるなあ。
この現象を仰天しないで見ていられるか?
結局、今この瞬間は、物質の、驚異的な自己参照。
世界は、残念ながら、これにすぎない。
宇宙がいっぱい
素粒子の数だけ未だ生成されていない宇宙がある。ひとつの素粒子がビッグバンを起こして宇宙となるからだ。ひとつの素粒子がビッグバンを起こして、他のすべての素粒子を内包したまま宇宙となり、またその宇宙の中の或る素粒子が(複数かもしれない!)ビッグバンを起こして、他の素粒子を内包したまま膨張し……。
刺激しあう二人。
レーニンとトロツキー。トロツキーはレーニンへのラブレターともみまがう伝記らしきものを書いているし、レーニンは会議中トロツキーに頻繁にメモを送り自分の意見かトロツキーの意見かまみれてしまうほどに親密だった。しょっちゅう笑いあった。二人の哄笑。幸せそうだった。毛沢東と周恩来。周が癌に侵されていると語りながら、毛は泣いてしまった。マルクスとエンゲルス。破滅型のマルクスをエンゲルスがどれだけ励まし助けたことか。マルクスは甘えまくった。
ああ、世界を変えんとする、激烈な共同の意志よ!
男女の間でここまでいくかね。私は体験していない。そもそも、私はホモでもないし!。あっ、かれらがホモだったとも、疑わしいとさえも、言ってないし―!
いとしのラテン
中南米のラテン文化が、人生に対する解決策ではないかと脅してくる。私は若い頃この軽薄とありきたりと単調繰り返しと痴呆的楽天性を嫌悪していたが(音楽に典型的だった)、歳を経て、革命運動をいっぱい見て、その圧倒的なニヒリズムに引きずり込まれ、そこからの脱出をそそのかされ……、
ああ、キューバ。おお、ハバナ。
平気で人を殺す国
平気で人を殺す国(国がそうする時は即座に平気でする)は、言語による紛争解決能力に欠けているので言語能力が低いと思うが、歴史上で、当てはまらない国はない。ということは、人類は、まだ言語能力については発展途上にあるのだ。言語の最悪の意味での、言語的野蛮から脱していない。それとも、市民が国の姿をとると、急に言語障害に陥るとでも?
平気で人を殺す者
殺したくなるような人を、殺すなんぞ、滅相もない、ああ、言っている意味が分かっていただけないか?、私も努力するぞ。
殺したくなったから殺したら、あなたの負けだ、いや、殺したあなたこそが、死んじゃうんだ。正確には、すぐ殺されるか、生きながら死ぬかだ。他に道はない。あなただけが原因なので、情状酌量の余地はない。
どうせ、死んだっていいんだ、だって?
おいおい、怒るぜ。死ぬ目にあったことのないくせに、大口を叩くな。見当違いも甚だしい。なめているな。
もう一度言う、殺したくなるような人を、殺すなんぞ、滅相もない!
ええっと、矛盾みたいなことを言おうか。
お互い、理不尽に死なないように、一緒に生きよう。
死は理不尽なんだが、その理不尽を、共有しよう。
理不尽には死ぬな。殺すな。それを許すな。だが、死の理不尽は共有しょう。
実は、矛盾ではないだろう? 無理ではないだろう? 出来るだろう? いや―、あたりまえだろう? こんなこと。
人工衛星と原始の島
かつて、人工衛星を、東京から内之浦までトラックで運んだことがある。私の友人が運転し、私は助手席に坐っていた。九州に入った頃に、トラックの右側の前輪後輪が側溝にはまり、大きな音が聞こえ車体が傾き、てっきり衛星を壊したと思ってしまった。二人ともやけになって、二日市温泉に泊まり、痛飲した。だが、約束の時間までにはなんとか納入を済ませた。のちに、無事地球を回ってデータを送ってきているのを知って二人ともおどろいた。鹿児島港で、友人と再び会う日時を確認して、私は屋久島に向かった。屋久島で夢のような体験を持った。バリ・ハイを凌ぐね。
今行ったら変わっているだろうから決して行かない。
二つの方法
近代を特徴付ける、物事、事態に対する接しかた、には二通りある。科学の方法でもある。
ひとつは、対象を分割する方法(困難を分割していけば、一つ一つはもはや困難ではない!)、もうひとつは数量化だ。実は両者は独立ではない。
日本の近代は猿まねだったのか?
西欧において近代科学を準備した条件の一つは、キリスト教的なモラルであったと言われることがある。日本において、単なる移植にしては(表面的な移植に過ぎないとただ卑下するのには当たらない)、科学、特に科学技術の定着発展が急速過ぎるほど速かったのは、そうなる前提としての条件が江戸時代までに存在したからだ。西欧のキリスト教的なルター的なモラルに相当するものは何であったか。
それはほとんど新教徒的な、江戸職人スピリットであった(産業革命直前までに迫っていた社会の成熟は今は考えない。今問題にしているのは、エートスだ)。ある人物の言説を引用すると、〝たとえ爪楊枝であれ、天下一の爪楊枝を作らん”とするモティヴェイション、軒昂たる意気、志向性である。それは、天下一の思想ともいうべき一般性を国内では持っていた。戦国時代の武士のスピリットが平和な時代に職人を通じて生き延びたのかもしれない。刀鍛冶や鉄砲鍛冶の精密技術や、関孝和(微積分のアイディアはニュートンやライプニッツよりも早い)を代表とする精密数学がモデルとしてあったので、スピリットが空疎な掛け声になるおそれはなかった。西欧と異なり、スピリットは言語化されず文献に残らなかったが(親父の背中、親方の背中を見る)、現場での技術面で明治の文明開化をもたらし、現代の中小企業、(中小か、ああ、蔑称だな)に、受け継がれた。
マニアック中小企業、大好きだぜ。
素粒子は群をなす演算を持つか?
群論は、物理学では、変換を表す際になくてはならない手段だ。物質の分類基準だ。対称性とは、ほとんど群をなすのいいかえだ。だが、同種の素粒子を要素とした集合に群構造が乗ることは絶対にない。その集合で閉じているような演算はありえない。定義できない。演算を繰り返すにしたがって要素数が減っていってしまうからだ。別種の素粒子同士が相互作用してまた別の素粒子たちを生み出すのであって、演算を何にしようとも、素粒子をどう同一視しようとも、群は無理だ。
無党派が、数としては最多なので、選挙の投票結果の第一党が政権をとるのではなく、無党派が第一党となるようにしたらいかが? 既存の政権政党もそうなればあわててしまい、真剣さが増すだろう。
夜空に飛び立った無数の蝉が星の光をさえぎるので、星のまたたきがせわしなくなった、と書けて、私は幸せだ。予期しなかったこんな訪れがあればこそ、私は書く。
意識―想像力―記憶
意識はそれ自体としては存在しないので、意識といえばなんらかについての意識でしかない。様々な対象を意識した結果、パースペクティヴの元へと遡行して意識を意識するに至る。これを自己と言う。赤方遷移によって宇宙の膨張を観測した結果、膨張を逆にたどってビッグバンを想定したように。だから、意識は自己意識であるとして、自己を実体化する手段として意識が利用された。なんらかエックスのところに収束すると想定したに過ぎない自己を代入したのである。自己はそれ自体としては存在しないものの、自己意識としては存在を許されることになった。意識と自己の二者が相互依存することになった。空疎なものらが、協同して実体化する一つの例である。
意識の志向性とは、あいまいな概念だ。認識において、意識は対象に対して志向性を持つか? フッサ―ルやサルトルの説くように、自己が自己を脱して対象に向かって炸裂することか? 対象こそが意識に対して志向性を持つ。なぜか。対象の放つ存在の、いわばオーラが意識を責めるからだ。人間の装着させた意味を振り落とし、知覚の無視を突破し、目を覆ったその指の間から侵入するマロニエの木の根っこによって、意識は責められる。意識は被害者である。
想像力について。想像力は、アナロゴンによる補いも含めて現に存在するもの、ではなく、周りとは分離された存在しないものをアナロゴンを用いずに対象化する能力のことだ、とサルトルは主張しているようだ。だから存在する他者への共感や同情などとは異なる。それらは推定であり延長でありパターンへの逃亡であって、対象をパターンで貶める。想像力は意識の持つ能力である。現実は無限の決定因と関係から構成されているが、想像された対象は、意識されただけの決定因しか持たない。気がつかない関係はないに等しい。意識の限界内において明晰判明であってまったく影がない。そのぶん貧困である。つまり想像力とは現実に拘束されない観念化能力のことである。想像されたものは現実に適用可能だが現実ではない。幾何学に似ている(フッサールは数学をモデルに現象学を作った疑いがある)。
では、意識にこの能力をもたらしたものはなにか。
記憶だ。背後の記憶を、現状を軸にして、時間的空間的無へ投げ出すことにより、見えない階梯が見えてくる。さらに、無の持つ、ほとんどその定義ともいうべき無限自由度によって、記憶は変容し、自体の正反対にまでも変容して多種多様なシミュレイションと化し、進化論における中立説の示すように、可能性を膨らませて待機する。サルトルは想起を想像と厳しく分別しているが、それは後者の特権性と超越性を強めすぎることになるだろう。
ここで、むしろ、ある疑いが生じる。逆順こそが正しいのではないか? 記憶が意識の正体ではないのか? 記憶が想像力を生み、想像力が存在しないものを対象化した結果、意識という産物が出来たのではないか? 意識はそれ自体としては存在しない!
で、冒頭にもどった。
結集したら最後
一時的とみなされるフュージョン集団が、散逸したり孤立化したりして、なんら具体的な成果をもたらさなかったとしても、その集団の成員とシンパのスピリットは決定的に変化して元にもどらない。数量化言語化できる取引とは異なるスピリットは、蔓延し遺伝する。
私達の倒錯
生の唯一の目的は生である。生き延びることである。従って、生は純粋な保守主義者だ。ところが、保守に徹しようとすればするほど、進化してしまった。大小の無数の革命をもたらすほどの進歩主義者とならざるを得なかった。
生き延びることは、欲望によって駆動される。
欲望とは何か。
快への期待である。食欲と性欲はともに快によって餌付けされている。動物は快―不快を行動目的にしている。快―不快原則は、自己目的化され、活生滅死という本来の目的を忘れることさえある。恍惚たる死、感涙に咽びながらの死などがその例だ。
快は、個体にのみ属する。例えば、御贔屓のサッカーチームが勝った時にファンが感じるのは喜びであって快ではない。生が、サヴァイヴァルのために個体に分裂する戦術を採った理由のひとつは、個体であるがゆえに快という能力を備えうることだった。
同型多数の個体からなる種単位全体は快を感じることは出来ない。
快を快と感じない新たな倒錯がいまや新たに生じようとしている。生き延びるという本来の目的はさらに闇夜に見失われていくことになるだろう。
力とは
力には、重力しかない。状況に応じて重力が姿をやつして四つの力に見えさせているに過ぎない。その状況もまた重力が作ったのだが。
脳科学に期待する?
現在は方法や論理が科学として確立していなかったり(対照群がなかったり、結論を証明の途中で使ったり、トートロジーに陥ったり)データも怪しげであったりする場合があるけれど、脳科学が、かつての形而上学や存在論のもんだいを、いずれは解決するだろう。科学が苦手とする自己批判、パースペクティヴ問題の解明をやって見せる新(脱?、脱構築なぞではなく再度コペルニクス的に転回する?)科学が出てこないと、最終段階には至らないだろうが。
仏教のレトリック
仏教は、メタ認知、俯瞰認知でもって、実体化された死から生を眺めやる、視点のもたらす宗教である。だから、見られている私から見る何者かへたどる道が仮想される。長々果てがなさそうな修業の、菩薩がたどる道。実は、一瞬の、死の瞬間の引き延ばしなのだが。
死の瞬間を巨細に延々引き延ばして語り、その差異を、あるときは決定的な断絶として、あるときは因果応報の一里塚として、連続として、恣意に語る。自由自在だ。仏教は仏教を語る人による。
天敵の効用
天敵がいないので欲望の奴隷となったサルが自滅するのはもうすぐだ。天敵がいないことは、他種に脅かされる代わりに、自らが自らに脅かされることだ。行動は快―不快原則に従うので、快一直線に進む己が、己にとっての脅威となる。欲望に衝かれて発狂せんばかりのチンパンジーをガラス越しにほんの一メートルほど先に見たことがある。他人事とは思えなかった。
親子関係が決裂する契機
教育の問題がきっかけだ。外部の判定基準、順番など、ひいては、監視と選抜と排除の態勢を家庭に持ち込んで、親子関係を断絶させ、愛し合う関係を憎しみあいに転化する。高学歴の親のいる家庭で起こりがちだ。
親は外部の回し者ではない。外部圧力に対して、親が子の味方となり、同じ方向を見て、親子ともども対処する姿勢を、何としてでも保つことだ。
防衛的であるのはやめよう
種は、その生物的な同一性によって、既に構造的に防衛的であるからには、さらに意識的に防衛的であったならば、それは過剰防衛だ。だが、防衛の反対語が攻撃であるからといって、語の慣習に従う必要はない。では、どうするのか。どう言うのか。
防衛ではなく開放を。愛、とは言わないが。
神は死んでいない
情報社会の行き着くところは、情報の創出が未だに過渡的でしかないという確認だ。観測機械の発達に比例して、未知が科学の最前線で増え続けている。個人であれ集団であれ、その外部に関する情報は、数量と速度の点でその時その場で対応できず、未知の混入で原理的に対応できない。大昔からの、稲が嵐でやられ、消したはずのかまどから出火して家が焼かれ、知らない流行病で子供が死ぬような、対応できない事態は、姿を変えて我々を襲う。ただ、理不尽だけをとっても、我々の意思も力も及ばないものが、我々を翻弄している。そうしている者を神と呼ぶと、納得がいくではないか。
未知と無知がある以上、神は死なない。そして、未知と無知は、絶対になくならない。
未知と無知を個人が引き受けようとして、三百年経った。失敗だった。引き受けたらそれらは増えるばかりで、個人はいじけるばかりだった。
集団が引き受ければいいって? それを、三百年前まで、やってきたのだ。唯一の神の主導であれ、分散した無数の神の共導であれ。
賢い犬
私はかつて、崖っぷちの細道を、夜、歩いていた。
谷の突き当たりにある、平家の落ち武者達の子孫が暮らす部落へ行くところだった。
先導するための犬が、その部落から派遣されてきた。賢そうな顔つきの柴犬の雄だった。
頻繁に振り返って僕を見、僕が滞ると、さっさと進めなどと息を吐いて伝える。危なそうな道に差し掛かると、後ずさりしながら、そこに足を置いて、などと、多様に吠えながら、指示する。心遣いが、ことこまかだった。道中、ずいぶん世話になってしまった。
あれは、本当に、犬、だったのか?
言語以前を考える時、あの犬を思い出す。
ぼろふぉって、崩れていく、なにものかに、ほっ、ホサナ。……昨晩寝惚けて書いたらしいが、意味を解しかねる。しばらく考えたが。私の、母親の、死に、関係があるらしい。
いざとなったら平成徳政令
出回っている国債、さらには債権全部を日銀がすべて買い取った上で(強引に線引きして、不良債権は除外し、買取を拒否する)、デフォルトを断行すると、何か問題が起きるか? 債権を日銀に売っているのだから市中銀行のどの一つも損をしない。むしろ、猛烈な好景気が到来しないか? 注意。隠密裏に、そして、買取とデフォルト宣言を続けざま瞬時に行うべし。金融資本に感づかれたらまずい。
……ふふ、冗談だよ。
死者と生者の差
死者を見て、生者とは歴然と、判然明確に異なるのは、死者がパースペクティヴを内蔵していない点だ。奥行きがなくなって、同一面にすべてが投げ出されている。生者と死者とが隔てられて見える原因は、次元の、一次元分の、劣化だ。
葬式で正体が明らかになる。
人が死んだ時、儲けるやつがいる。
葬儀屋さんのことをいっているのではない。葬儀屋さんはご商売だから儲けてかまわない。
親戚縁者らが儲ける。故人の動産不動産証券等の財産や保険金やら果ては箪笥貯金までを奪い合う。当然の権利だと居直る者、ゲリラのように突然出現し、権利を主張してカッパラって行くやつ。香典を持ち逃げするヤツ。短期決戦、悪行堂々。死者の前での、しめしめ。こんなことなんて、一っ時のこと。権利もあるし。あーだこーだいわれても、相手はたかが少数、そんなの、こっちが絶対勝つからね。人品の卑しさがあらわだ。悪鬼とは、欲に盲いた、この世のズーズーしさにすぎないのだ。人の死に場で、立ち回るハイエナ。法的に甘い分野だからね。鼻をつまんで、遠ざかろう。やつらはうまくいったわいと思うだろう。人に軽蔑され、その判断から、もう永久に逃れられず、その因縁に必ず将来遭遇するとは知らないで。没交渉が成立すると勝手に思って。そのうち身にしみて分かるだろう。
宣言
どの言表も、楽しみを求めるためにしか、書かない。
抑圧を、逡巡を、わざわざ自ら招き寄せるわけがあろうか。
短期間だけ専制は許される
幼児の時にしつけや教育の名の下に洗脳するのは卑怯でずるい。親が一方的に振るえる専制、暴力。だが、その短期間以外に、そういうことを子供も含めて他者にしてはならないのなら、しないでいられる者がどれだけいるか。自分の(?)子供だし。
テレビドラマはめったに観ないので、発言に自信はないが
倉本聡の、北の国から、から、諸々の陰の部分を引き、そのぶん陽を足すと、宮藤官九郎のあまちゃんになる。絶対的な陰があるので、陽を足すのは、もう、自由自在。
朝ドラのヒロインの魅力はどこにあったか
テレビドラマはめったに観ない。が、たまたま、NHKの朝ドラのヒロインを演じた女の子のインタヴュー番組を見た。すぐに、若干病的な、言語障害者ではないかと疑った。ここ十年ほど、若者たちの間で目につく、特に引きこもりがちの女子に見られる言語不全シンドロームの実例を見たように思った。
ところが、私の間違いだった。話を聴いているうちに、この子は、言語以前状態で、かなり激しく日常を生きているのではないか、と考えを改めた。鬱勃たる意志と、生命のざわめきが感じられたからだ。
言語に依存する人間にとっての言語以前を言語で表現することは、私の五つのライフワークスのうちのひとつである。人間を獣に還元しようなどといっているのではない。心理学の応用問題であるような創作が、人々をこれまでどれだけ長々と騙してきたことか。ナンセンスな大仰な曖昧な言葉を使い、そのぶん読者の思い込みに頼って、文学の名の下に、どれだけ偽の納得を強いてきたことか。
この子は、言語を、こまったものだ、と思っている。つらがっている。表情で、身体で、女優なのにろれつの回らない、滑舌ままならない話し言葉で、あのお、そうでしょうか? と自信なげにだが問うている。手探りではありながら、探求的姿勢を崩さない。驚くべきは、おざなりの定言、常套句を一切使わないところだ。アナウンサーがそういう言葉を誘導しようとしても乗ってこない。
あのお、そうでしょうか?
この子の魅力は、ここにある。うっとりしてしまったぞ。その後、多くの評者の発言を見たが、誰も、この子の魅力の源がなんであるのか、明瞭に分析していない。例えば、渡辺えりが直感から彼女をえらく買っているが(さすがだ! 私は彼女の年来のファンである)、何故そうしているのかという理由を、視聴者を憚ってもあろうが、明確にはしていない。
志ん生に日本語を習った
古今亭志ん生の自伝、語り聞きの数々を愛読した時期があった。叔父たちは下手糞だと言っていたが、私は、小学生の頃から彼の落語を聴きまくっていた。富士の裾野での狩猟の話なんぞ、笑い転げた覚えがある。実際を見たことはない。馬生も。志ん朝は生で見ている。狂気の気配を感じた。池波志乃は、爬虫類みたいでエロチックだったねえ。
不思議の国のアリスの末路
老齢と貧困を同居させてはならない。高齢者からモラルとプライドが崩壊していく社会が最も早く崩壊する。まず、切羽詰った行動が、ちらちら見えはじめる。
たとえば、年老いたアリス・りドルが、夏の日の思い出に、と表紙に書かれたチャールズ・ドジソンの草稿を、サザビーに持ち込んだような。(アメリカ人が落札した。落札額は七七〇〇〇USドル)
今、この、女の幸福
或る女性曰く: もうすぐ四歳の子供が、幼稚園の運動会で、走ったり、踊ったり、次から次へパフォーマンスを繰り出してくれて、感動のあまり泣いてしまった、絶対忘れないわ。別の或る女性曰く:上が四歳、真ん中三歳、下は二歳。時間感覚や記憶がなくなっちゃったけど、こんな面白くて興奮することって、なくない? そうだろう、そうだろう。女として生まれた幸福の絶頂を、存分に味わいなさいな。某女性曰く:八月に生まれましたの。まだ、五カ月目です。こんな歳になって(多分四十)まだ子育てなんて。とか言ってうれしそう。また別の女性:上のこの子がもう私にそっくりで。たしかに瓜ふたつ。うれしかろう。下のはそうでもないけど。いやいや、男の子の方も特徴的だよ。そうですかあ? あっ、また、うれしそう。
母親と子供との関係がすべての関係のための参照元でしょう。母親がうれしがっている経験が積み重なって固定化してあわよくば絶対化していくことを切に願う。成長した子供がそこから脱する力を充分振るえるほどに絶対的に強くにまで。
通り過ぎて行くあの女性は
私は、友達のイアンと、ビールを飲みながら、ばかっぱなしを続けていた。すると、いきなり、松○○子が白人ヤンキーといっしょに入ってきた。どうぞどうぞ。こちらです。待機していたウェイターが、カーテンのかかった奥の部屋へ導いた。彼女にへばりついている、その、ひもガキヤンキーを、私たちは大声で野次ったが、二人は、私たちを黙殺、平然と堂々と、カーテンの奥に消えていったね。
恒産恒心
グローバルなエネルギー供給が、世界の道徳を保障する。なさけないがこれが現実だ。糊塗は、いくらでも、できるだろうが。
優れた女性はどこにいるか
優れた女性たちは、優れた男性たちよりも、はるかに世に知られていないし、価値を認められていない。繰り返し繰り返し生まれては死んでいく女達よ。子供を産み育て、ネズミのように働きまわり、無私のうちに生き、ひっそり死んでいく女たちよ、大好きだよ! いつの日か、いや今でもかまわない、男達がでっち上げた近代を、あなたたちが、ぶちこわしてください。
生命誕生
原核ですらない、細胞ともいえないただの培養基の役割を持つある場に、情報だけを持ったウィルスが侵入して核になって吸引性を持った。征服王朝が細胞を作った。元に王がいなかったから単なるノーマンズランドの占拠か? あるいは、アメリカインディアン風のファントマ?。
なか、なか、なか
やばい、も多義語で無意味語でもあるが、メディアでの、……のなか、……するなか、の連発が耳障りでならない。原稿を書いている者の、こりゃあ便利なつなぎだわい、といった、鈍感や手抜きや視聴者をなめた態度が元であるから、アナウンサーを責めるのは酷だが、首相から記者からなにから、発信源たちが、……なか、を連発するなか、私は暗澹たる気持ちになるなか、さらにいいたいことがあるなか……。
本はもうすぐ死ぬ
書き言葉と本が分離し始めた。活字を媒体とする書き言葉が、本をパスし始めたのだ。
同時代人同士は同じようなことを思いつく
某氏の著作を初めて読んで驚いている。私が密かに立てていた仮説や推定(一部はブログに書いた)がぞろぞろ出てきたからだ(もちろん相違する見解もあるし、飛躍と思われる部分もある)。挙句の果てに、あのことまで書いてある。私は、自分のブログでの発表年時と氏の著作や論文のそれを比較してみたほどである(失礼しました、著者様)。知り合いをたどると彼に行き着くが面識はない、まさかね。人は似たようなことを思いつくものだ。いや、興奮した。
全く汚らしいのう、と頭の上から大声で怒鳴られたので、なんだとお? こんなに美しい男に向かって! と抗議の声を上げようとしたら、電車の車内スピーカーが、まもなく北習志野、と伝えていた。
宇宙の始まり
お父さん、宇宙の元は、ピンポン玉くらいの大きさしかなかったの? /いや、もっと小さかった。 /ヒマワリの種ぐらい? /いーや。 /細胞ぐらい? /まだまだ。 /へーっ、原子ぐらいだったの? /いや、もっとだ。 /原子核ぐらい? /ちがう。/じゃ、もう、素粒子しかないじゃない。 /そうだ。光子以外の素粒子はすべて未宇宙だよ。ビッグバン以前を素粒子と言っているに過ぎない。/僕の身体も、日常のモノも、無数の(未)宇宙で出来ているとは仰天するなあ。/しかし、それが世界の秘密だよ。ビッグバンのその前は、無数に存在するもっともありきたりの素粒子のひとつだった。そのひとつがビッグバンを起こして残りを内包する。これを繰り返す。ただ、重心が重なっていたのが、分離するだけなのに。だから、素粒子の衝突実験は原理としては危険だね。ビッグバンを誘発しかねないからだ。現在のエネルギーレベルではまずありえないが。正確に言うと、重心が完全に重なっているわけではない。もしそうなら、なにものも存在していないだろう。だから、かすかに、かすかに、ずれている。そして、振動によってずれが元に戻らず、自爆テロを引き起こすことがある。これがビッグバンだ。/一モルでさえ、10の23乗個のオーダーなのに。僕の体ひとつとっても、それを作っている細胞は結局素粒子で出来ているんだから、潜在的な宇宙で出来ていることになるのかあ。数え切れないほどのね。/数える必要はない。いっぱいと言うだけで、沢山だ。/おとうさん、どうしてそんなこと、思いついたの?/ そう考えると、すべてを簡単に説明できるからだ。/いつ思いついたの? /今のお前と同じ年頃のころだ。
宇宙は輪廻転生するのか?
宇宙は一方向的な拡散過程にあり、一回きりの現象である。がしかし、ブラックホウルを、出来かけの素粒子とみなすとそうはいかなくなる。ブラックホウル同士が飲み込みあって急速に巨大化(微小化のための)していけば、宇宙全体が飲み込まれて、原初に戻る可能性がある。このようにして、世界は循環する。輪廻転生は、個体で、ではなく、宇宙と素粒子の間での循環で成立することになる。じゃあ、本当に個体では存在しないか? 君が時間をネグれるなら、存在する。君は再び君を発見するだろう。
自然は未来が見える?
自然はやり直す際も揺らぎを考慮してさえ必ず最短路を通る。だから、いくら分岐があっても一本道を通るのと同じだ。だからやり直しは、厳密に同一なやり直しとなる。全く同じでなければ、最短路優先の原理に矛盾するから。
では、質問。何故自然は、最短路だと、前もって分かるのか。結果としては、すべての路が最短であったが、なぜ最短路を通る前にそれが最短であると認識できたのか。
答。実は時間がないから。だから、前もって、ということがない。時間という概念を無理に使うならば、過去から未来への向きと対称的に未来から過去へも時間が進行しているから。
自然と人とでは、合理性の意味が違う。
一瞬の、あるいは、一点の、不合理があっても、自然は存在できない。自然が存在する〝ようなふう〟が、合理性である。それは人間の唱える観念的な合理性とは異なる。たとえば、後者は無限を許すが前者は無限を許さない。無限を自然に当てはめると矛盾が出るので許されないのは明らかだ。 〝自然にやっていく〟には脱観念化を徹底せねばならない。
先生、助けて
昔、教えていた高校三年生の女の子が、夜中に電話をかけてきて、うちに帰れないから、教室で眠ったことにしてくれと言ってきた。私は、男を出せと言ったが、それはできないと言う。私は、彼女の親と祖母とに、教室で仲間たちと徹夜で勉強していて、今仮眠していると伝えた。しつこくあれこれ聞かれた。当たり前だ。その後、私の評判はひどく悪くなり、女生徒を連れ込んだ悪徳教師となった。こういうことは、数回あった。世間を相手に生きていくということはこういうことだ。ここで言ってしまったが、それは、味をしめたあの子達が、今でもいい調子でいる可能性があるのを心配しているからだ。この記事を読めよ。ええっと、長い間我慢していた憂さ晴らしも、ちょっとある。
基本は、心配しているからであって、憎んでいるわけではない。憎んだ生徒など、一人を除いて、いない。
種を超えよ
種を横断し、サル類だけの、狭いサークルだけではなく、哺乳類鳥類ほどのコミュニケイションエリアが近未来に成立するだろう。実存主義どころか、全世界を席巻していた人間主義の最終的な最終だ。みんな、なかよくしようではないか。域はますます広まる。言いだしっぺが人類であったこともやがて忘れられるだろう。人類固有の言語を前提にしたから、このようなコミュニケイションは問題外とされてきたが、そんな先入観を取り払えるほどに私たちは進化するので、こんな一見あきれたことも可能になる。間類的なコミュニケイションが成立するのだ。
実は、あきれたことではなく、当たり前のことだったのにね。進化の必然からすると。
未来は、こんなふうだ。
僕は虹鱒に恋するだろうよ。頭と尾びれのほかは婚姻色でまっかっかの虹鱒に我慢ができるはずがない。生理的に虹鱒は応える。当人の、「言葉」を使っての希望でもある。
TUNAMI 1
直接に被害を受けなかったとしても、自然という荒ぶる神に強いられて、私たちは、道徳観を試された。被害を免れ、あの瞬間観ていただけであった幸運の享受者である者であるからこそ、それは免れられない課題としてあり続ける。
TUNAMI 2
同情以外に、同情以上に、発現した感性があったか? 観念があったのか? 私たちはあの大惨劇をふまえた、次代へ送るべき、新しい感性と観念を持ちえなかったのではないか? あれほどのことがあっても自己を変えられなかったのではないか? 恥を知れ!
過去の総括。現在の統括。未来への跳躍。絶えずこれをしつづけるのが知性だ。
テレビドラマ「WOMAN」の最終場面は巧いなあ。
東京五輪開催決定の瞬間、興奮した或る女性が言った、「これからの七年、どうやって過ごそうかしら」
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