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モーゼは激怒するだろう、もしアルファとベータが僕の子だと知ったならば。

たちまち我を忘れ、モーゼではない何かになる。あるいは、本来のモーゼに立ち返る。

激怒のおもむくところ、さぞやすさまじいものとなるだろう。なにせ頭にきた相手のこめかみを両手ではさんで摘み上げると、拝むように手を合わせて潰す男なのだ。

可愛がってきた子供達の足をつかんで岩に叩きつけて殺すかもしれない。

惚れきっているヘレンさえも蛇の頭蓋骨の上に僕と重ねて置いて磨製石器の大刀で四つにたたき斬りかねない。

だから、子供のこともヘレンとの不倫のことも告白したくてたまらないが、(ヘレンが金切り声を上げて叫んだっけ。何、ばかなこと、考えてんのよ!) 何としてでも我慢しなくてはならない。

ベータだけを観察していた時には、なんとか抑えられる自信があったが、アルファに会ってから、僕は強烈な家庭幻想にとらわれるようになった。

双子なのに、アルファは、ませにませて、既に少女だ。ベータは、成長が遅く、まだ乳を吸っている。

アルファの様子を見てから気づいたのだが、ベータは、障害児である可能性がある。

どちらの子にも僕はいかんとも抑えがたい親和感を抱く。

親子の絆を強めていける仕組みを密かに設定したいと思う。生き物としての当然の性向か、単なる僕のエゴイズムかは判断できないままに。

僕は役目上今モーゼから離れられないので、モーゼの目についても察知されないような大義名分を案出する必要がある。

市民たちが現に営む家庭と僕の思い描く家庭とには、大きなへだたりがある。

市民達の場合、子供がセンター試験を受けるまで親子関係が続く。それ以後は、記憶が切れたかのように、親でも子でもなくなる。

戦争が起きて男が戦死した場合、女は望めばプルターク祝祭日で集団交合に参加して新しい家庭を作れる。死んだ亭主のことは、記憶に残らない。父親の異なる子供を育てるのはごくありふれたことだ。

家庭の枠を超えた男女の交流もおおっぴらで(だから僕とヘレンとの接触もそんな風潮にまぎれてとり立てて目立たないはずなのだが)、その結果できたと思われる子供も、既存の一緒に育てる。父親が異なるという点では同様だ。

男も、自分のタネで出来た子でなくとも、家族として認めるのにやぶさかではない。特に戦場から戻ってきた男は、複数の家庭をかけもちしてもかまわないので、誰の子かわからない子でも育てざるを得ない。

これが社会のシステムだ。家庭とはこういうものなのだ。

帝国に歴史がないように、このシステムにも歴史がない。完成形が突如降ってきた。

新しい伝統という語義矛盾があっさり実現している。

戦争が何度もあったわけではない。集団交合で生まれた子はまだ小さい。現実にセンター試験を受けるのは施設ニッポンで生まれた子供達だ。だが、このシステムに則って、市民全員が暮らし始めたのだ。

なぜ僕は社会システムとは似ても似つかぬ家庭像を思い描いているのだろう。

僕には母はいないし、父は断じて家庭的ではなかったのに、いったいどこからこのイメージは生じたのだろう。発生源がなんであるのか見当がつかない。

偽りの先験性であるという疑惑が生まれてくる。家庭の欠如から鬼子のように生まれた、旧弊ふんぷんたる、保守反動的観念。僕が鬼子だからそういう観念に取り付かれたかも。ウエットな、見せかけの牧歌性。家族のメンバーを絆などという手かせ足かせで縛りつける、未来に向かって開かれていない固定理念。遺伝的に親であるから囲い込む権利があるなんて、勝手きわまるエゴイズムだ。お前は、自分の先入観を打破せずに、あくまで家庭幻想を実体化しようとするのか? 

おや? なんだか、だれかが、脳内のどこかでささやいているような気がしてきたなあ。そうそう、ごまかすな、その疑問を保ち続けろ、だって?

男子市民は、自分のタネでない子でも家族として認める。しかし、モーゼは、アルファとベータが自分のタネでないと知ったら、激怒するだろう。なぜか。

モーゼは市民達に担がれた神輿に乗ったスターだ。その役割を延々と続けてきた。そうしているうちに、原理的に市民ではあるものの、市民性を失った。

その結果として市民とは異なる家庭像を持つようになったろう。僕の抱く、疑惑の固定観念と同じような家庭像ではあるまいな。勿論異なる。しかし、ある種の永続性を願うようになったのではないか。一般市民では持ち得ない発想だ。

どうも、モーゼ自身が、すでに記憶をよみがえらせている疑いがある。僕との学習の際にはしらばっくれているが。ブラザーは、市民よりも記憶を残しやすい。現にチャーリーは、(坊ちゃん、逃げてください!)、昔の僕を覚えていた。

少年時代から今までヘレンにぞっこん惚れっぱなしなのも、市民の男達とは異なる。彼らは特定の女に執着しないし出来ない。酔夢の中に生きている彼らは個々の女の識別すらあやしいだろう。

集散し循環するだけで無歴史的な市民社会から逸脱した時、モーゼの立場からして何が考えられるか。

モーゼの口癖は、ジョーダン、ジョーダンだ。どうせ冗談ならば、市民性を放棄し、徹底して冗談を演じて見せる気になっているのかもしれない。逸脱こそが真のエンターテイナーの生きる道だと悟って。

いやな感じがしてきた。モーゼが思い描いていることが分かりそうな気がしてきた。

それは、……世襲制ではないか? 本気の冗談としての世襲制! 

だから、アルファもベータも自分のタネでないと知ったら、計画は台無しになってしまう。そりゃあ激怒するだろう。

黙りこくった群集が岸辺に沿って歩く様子が目に浮かぶ。

大河が立てる豪雨のような水音や、ジャングルに潜む動物達の響きと怒りが聞こえる。先頭に、身重のヘレンを傍らに連れたモーゼがいる。モーゼはヘレンの膨れた腹を時々盗み見る。ヘレンは涼しい顔をして横目でモーゼを見返す。

この時点では、ヘレンに記憶は戻ってきていないから、モーゼの子だと思っていたはずだが、空想する僕は、ヘレンがたいした役者だと錯覚してしまう。モーゼもまだコキュではないが、さかのぼってモーゼがかわいそうになってきた。

自分がもしそういう目にあったなら、僕はどうすることか。

時が過ぎて今、結果的には、僕はヘレンを感化して協同でモーゼをたぶらかしている。僕もヘレンもこれ以外の選択肢がなかった。しかし、その後の生活は、モーゼの思い込みにつけ込んでこなかったか? そう懐疑するから、こみ上げてくる罪悪感を、懺悔の形にして、吐き出しそうになるのだ。続行中の不倫について、こっちがほんもとだと、懺悔と正当性をこみにして言い張りたい気持ちがある。

懺悔はモーゼに関してに限る。ヘレンに関しては、僕は迷惑をかけているとはつくづく思うものの懺悔する理由はない。……そういいきれるかどうか考える覚悟もある。……ええと、懺悔を強いるものは何か?

湖岸の風景が現れた。

水うち際で四つん這いになってうめき声を挙げているのはヘレンだ。女達が取り囲んでいる。産婆役はメノトだ。二枚貝のふちで会陰切開をしておいて、おひー様、もう、頭が見えてますよ(アルファの? ベータの?)、もうひといきり、さあ。

頭を振ってもだえるヘレン。その向こうで、ピンクの淡水イルカが、楕円の弧を描いて跳ねる。激励しているのか早々と祝福を送っているのか。繰り返し跳ねる。

跳ねて水面に落ちるたびにヘレンはうめく。あーん。あーん。僕も小声でうめくまねをした。うーっ。イタタ。もうすぐ子供達が生まれるぞ。

湖のほとりにまた行きたいの。ねえ、タダヨシ、連れてって子供たちをんだ湖のほとりに。ああ、いいよ。並んでバルサにつかまって泳ごう。イルカはどうしているでしょう。イルカも子供を産んだだろうね)

イルカだけでなく、たくさんの魚や魚竜も僕の頭の中で暴れ始めた。

想像から想起へ。

無数のアリがさわさわさわさわ音を立てながら猛スピードで木の根から幹を経て枝葉へと這い上がっていく。見えない指揮棒が一閃し、大粒の雨がジャングルを一斉に連打し始めた。みるみる増水し、恐竜さえ引きずり込んでいく大河。水棲動物が、背びれをばたつかせ、木々にぶち当たりながらも、その間をぐねぐね縫って避難してきた。跳んで前のものを追い越す。横倒しになって鱗をきらめかせる。首をきしませて音を立てる。生臭い匂いが漂ってくる

アヤカ、何をぼんやりしているんだ、早く逃げるんだ!

ああ、エメラルドグリーン色した湯の川には水棲動物はいないなあ。

十三夜の谷に腹を押しつけている空白の鯨は、水棲ではあるけれど、ぐねぐね動かれては困る……



「おい! タダヨシ! 何をぼんやりしているんだ!」

モーゼの呼びかけに反応して聴覚がまず覚醒した。蛇の呼吸音のような排出ガスの音が四方から聞こえてきた。川音が奏でる循環コード、眠れない蝉の声、はるか遠くから聞こえる動物どもの叫び声。

「そのせりふはたった今僕がアヤカに……」

触覚もよみがえった。両脚の右側に、大河よりも速い流れが当たり、這いずり上がる気配を見せるが、力は脆弱で、左側に回り込んで渦を巻き、かすかにふくらはぎをくすぐるに過ぎない。

「アヤカってだれだ? お前の隠し子か? はっはっは。この谷のガスにあたるやつがたまにいるが、お前もそうだったのか。やれやれ」

僕はまだ混乱の余韻の中を揺蕩っている。そうか。また地獄のガスにからまられているのか。これはアレルギーの一種なのかもしれない。

最後に視覚があたりを描写し始めた。

モーゼは、立ち上る湯気の向こうで、相変わらず鎌首のように顔を斜めに持ち上げて寝そべっている。両生類の舌に肩を押し付けたまま、だだっ広い顔面に、微笑ではなく嘲笑を浮かべている。

……なんだって?、お前の隠し子か、だって?

「隠し子みたいなものだ。哺乳綱には属さないよ。なにせ空を飛べるからね。ところで君の、隠し子でない子供達のことだが」

あーっ、何言ってるんだ!

「そんなことはどうでもいい(助かった!)。お前の顔を見ない短い間に状況に大きな変化が生じた」

モーゼは体を起こし、足をこちらに投げ出して坐った。

「短い時間?」

「恒星が沈み、昇り、また沈んで、もうしばらくしたらまた昇るほどの時間、お前はここで過ごし、俺はよそにいた。修学旅行に出かけていたんだ、はっはっは」

前かがみになり、両膝に両肘をつけた。

「そうだったのか。君が一回授業をサボっただけのことだったのか。あまりにたくさんのことがあったので、百年経った気がする」

「一日であれ、百年であれ、その間の出来事が意味するものしか意味はない」

尻を持ち上げた。厚い絨毯のような舌がかすかに音を立てながら左へ巻き取られていく。

「出来事の意味を時間に換算すると、百年経った気がすると僕は言っているんだ。百年が与える経験をたったの一昼夜で持ったので、頭が爆発しそうだよ」

尻を砂地に下ろした。両生類がつばと一緒に砂を吐いた。垂れた喉が音を立ててうごめいた。

「ふん、何を大袈裟な。爆発させて見せろよ。お前が何をしたのかは、大方分かっている。それについては追って沙汰する」

モーゼの、斜視の両眼は、それぞれ勝手にうごめき、僕を見つつ見てないので、内心を探るのが不可能だ。

「まずは、俺が見てきたことを聞け。修学旅行の報告だ。興味深いことが起きている」