五輪の輪の右上だけが欠けているのを見て、プーチン、大胆にも、アメリカを除け者にしたのか、と思った。それにしても、先導する白衣のねえちゃんたちが、かっこいー。だが、上半身を締め付ける、プラスティックの拘禁服みたいな、赤ん坊のお歩き練習器のような代物は何だ?


最後の最後、浅田真央、天人の舞い。


ダビデの末裔であるキリストの最後の言葉、わが神、わが神、何故私を見捨てたもうたかは、旧約の詩篇の第二十二編、ダビデの詩による曙の雌鹿の歌の冒頭にある。これだけを二度言って力尽きたのか、冒頭部の続きを言ったのか、それは分からない。
キリストは死の直前、詩篇のとおりにふるまった。数百年前に書かれた旧約の叙述そのままだ。旧約という脚本に従った死に物狂いの演技、などと言っているのではない。ただただ契約が成就したのだ。
一方、キリストの実践に保証され、ダビデの、数百年先を透視した激烈リアリズムは、迫真の域に達する。
―――犬たちが私の周りに寄ってきた。悪党どもの群れが私をとり囲んだ。私の手と足は利かない。私は骨を一本ずつ数えられるほど痩せてしまった。やつらは私を見やり、ほくそ笑む。やつらは私の着物を切り刻んで山分けし、端切れをせりにかけた。
 

 あなたにきけばいい、と言われて来ました。

中年オヤジが、何冊かのファイルに入ったデータをテーブルの上に積み上げた。20センチほどになる。
なんとなく、分かるような感じがするんですよ。
なにがですか?
法則が。
何に関する法則ですか?
ロトシックスです。
データには、過去の自分の投票(というのか?)と実際の結果が書いてあるそうだ。
私は驚きと好奇心と礼儀に促されてその詳細な記録を十枚分ほど読んだ。
これらを見て、私に、法則を見つけてほしいとおっしゃるのですか?
はい。おやじの目が輝いた。ああ。
私はさっきから観察は怠っていない。精神異常等の症候は見られなかった。しかし、今のやりとりで、私は自信を失った。
なぜ、部屋に入れたのか。馬鹿め。
地域社会で、私は、こんなふうに見られているのだな。


  近代は近代的ではない?

数百万年間、クロマニヨン人(ホモサピエンスサピエンス)に限っても二十万年間の狩猟採集生活とここ数千年間で身につけた農耕生活とを比べれば、前者の遺伝子レベルに及ぶ影響力の方が圧倒的だ。前で長い、と、後ろで短いとを比べると、後者の影響力の方が大きいというのは錯覚だ(フロイトにも反する(笑))。トッドが言うには、古くて長い狩猟採集生活が、個人主義、核家族、自由という近代の特徴を産んだ。近代とはなんであったかわからなくなりそうだ! 大集団が限定されたところに住まざるを得なくなってはじめて農耕の必要が出てきて、炭水化物中毒が始まり、何重もの入れ子構造を持つ共同体が編まれ、その結果社会モラルが生じたとしたら、後者の脆弱性は明らかではないか? 人類史的観点からは、後者がほとんど実験段階であるのは明らかだからだ。


「外部注入」に、再び、がないように。  
「滝山コミューン」に一言。

1968,69年、若者たちは世界と自分が可塑的であり、両者が相互に作り作られつつ社会連鎖を通じて大循環していることに気づいた。こういうことを言ってもいいんだ、してもいいんだ、世界と自分がその結果、刻々と変わっていくんだ、という発見の衝撃は、五月のパリを震源に、世界中を駆け巡った。
しかし、常に更新を旨とする資本主義によってそのスピリットはたちまち変質させられ、批判は細分化され皮相化されて正体を失った。企業は、批判精神をカッコに入れて、エネルギーだけを取り込んだ。居直った若者達のエネルギーは企業で喜ばれた。資本主義は68,69を見よう見まねし、換骨奪胎した盗作作品を次々に繰り出してきた。シニックなライフスタイル、差異発見の喜び楽しみ、モラルやエコ理念ややさしさを伴う商品、チャリティ-企業……。世界は変えられる、というフレーズは、漫画やアニメやテレビコマーシャルの決まり文句のひとつとなった。
資本主義によってだけでなく、左翼によっても書き換えや便乗はなされた。資本主義側の盗作よりも、ずうずうしさと破廉恥さとでは勝っていた。
私は、69年、学科での集りで、司会をしていた民青の男が、この際、取れるものは取っときましょうよ、というのを聞いて、まことに不快だったことを覚えている。私が発言する前に、友人が懇々とその男に向かって説き始めたが、勿論、無駄だった。
政治の季節が終わって日常が再開した。上野千鶴子が語るように、「男達は、バリケードからベッドに戻ってきた」
だが同じ中身の日常ではなかった。
若者たちの中には、負けたと落胆し、同棲時代を経て、わずかに家庭に希望を託し(錯覚であるが)、早々と私生活に撤退した者がいただろう。吉本隆明らがいう私向化だ。
しかし、すでに結婚して子育て中だったひとまわり上の世代の者たちは、社会の変動に感応し、自らの可塑性に目覚め、新たな家庭と革新的な子弟教育を目指すことになる。古い係累から脱した団地に住み(抽選に当たることが、奇しくも、同質の価値観と同型の生活パターンを持つ階層を作るふるいとなった)、教師らと議論を積み重ねながら、若い親たち(特に母親)は、新しい生活形態を築かんとしていた。
ところが、旧左翼党派は、このナイーヴな勢いに便乗し、党の戦術を焼き直して地域と学校に持ち込んだ。
「滝山コミューン1974」というノンフィクション作品の中で、具体的にその顛末が語られている。
東京都東久留米市(旧北多摩郡久留米町)に、市立第七小学校が1968年に、道を隔てて滝山団地が翌年に完成した。1971年に七小に赴任した教師が、全生研教育に心酔し、やがて同校を仕切ってしまう。
民主集中制の実現のためには手段は選ばない。アメとムチ。歌と踊り。表彰と「追求」。集団催眠。いかにも、である。注意すべきは、この男は全共闘世代に属しているが、全共闘とは何から何まで敵対していた日共民青派の者である点だ。世代でもってひとくくりにすることによって、決定的な相違を見過ごしてしまう愚を犯してはならない。そんなことをしたら、本当は何が起きていたのか、その肝心かなめのところがぼやけてしまう。著者に若干責任があると思う。
繰り返すが、世情の高揚を利用して、便乗がたくらまれたのだ。
私は、引用されるレーニンそっくりの論理と文体に辟易とした。個人的にはレーニンは嫌いではないが、外部注入説には昔から異論があった。少数者が前衛党を組んで大衆に外部注入するやり方は悪しきエリート主義で、それこそ批判されるべきだった。少数でもいいから、言ってみせやってみせ、市民がどう反応するかは市民に任せろ、と思っていた。そもそも党の存在が問題だった。現実がどうであろうが、かかわる個々の人間がどんなであろうが、かまわず党勢拡大路線をとる。そのためには手段を選ばない。勢力を拡大して何をするのか、その内容は、その時点では、不気味にも一切触れられない。いや、スローガンは並べてあるが、権力を奪うまでの手段としての甘言とたわごとだ。
著者さえ一瞬危うく陶酔しかけた程の達成度を誇る滝山コミューンが、結局は一人の若い教師(リトルレーニン)によって形成されたとは驚異である。その教師の被洗脳度の深さもさることながら、児童だけでなく周りの教師や親たち(こんなにいい子たち、こんなにいい人たち!)の脆さに、呆然とした。自由を保障する可塑性は脆さの言い換えかもしれないという疑惑に悩まされた。こんなにも私たちは脆い。弱い。陶酔するなら時と場所を自分で選んでからにしたいものだ。
外的状況がこの教師の独走を許した。いくらローカルで短期間であったとしても、ナチスを思い出さざるを得ない。定理:革命が失敗すると、そのすぐ後でファシズムが成功する。おおげさに思われようとあえて私は書く。滝山コミューンが典型例を提供していると思うからだ。
著者と他に少数の者が、異常に気づいていた。それ以外の大多数は、11年後に催された同窓会で明らかになったそうだが、当時の細かな記憶を喪失していた。思うに、かなりの数の方たちが、とぼけた。この点は、ナチス後に似ている。現在でも著者は多くの同窓生から煙たがられているだろう。
醒めた少数の者たちは、戦時下のリベラルなインテリに相当する。
これら少数の者が、レーニン-マカレンコ方式を逆手にとって、洗脳された集団に風穴を開け、「批判精神」を外部注入することができたらよかったのに。
というのは勿論冗談である。
(以上の文章は現在の日本共産党及び日本民主青年同盟とは関係ありません)

ビートルズが黒人のブルーズ曲をかたっぱしから転調して成功したように、イスラム音楽を転調できないかな。もうとっくにやっているか。

消費ボイコットという新しいストライキの強力さに注目せよ。供給側に見透かされ、おだてられ、結局支配されてきた消費者。適切な拒否をしていかなければたちまち破裂する。
個体をモンスター化しようとする供給の戦略に乗るとはじける。個体の容量など高が知れているのだから。消費者が民主主義社会での主体なのに。

特異だが固定したキャラクター達を、混ぜ、戦わせる、安易だが、基本的な(神話もシェイクスピアもハリウッドもアニメも)物語り作法から、あるいはせいぜいビュルドンクスロマンから、それらに対する何重かのアイロニーから、作家は逃れられない。逃れられていそうに見えるのは無知の輩だ。問題には歴史が拘わっているので、逃げることは不可能だ。単純化されまとめられた形式を、もう一度ばらしてみよう。先人が何度も試みただろうが、結局ハリウッド方式に収束するようなそれは失敗だった。市民がそんなに簡単だろうか。市民とはそんなにヤワな存在だろうか。ハリウッドや神話は、市民なんてこんなものだとなめている。市民がいつも正しいなんて、市民らしいなんて、私は言わない。


人間以外の自然は、1と2と3から始めて10の3乗位までは区別しているだろう。しかし、2の127乗と2の127乗引く1を区別しているとは思えない。10の39乗のオーダーだ。全宇宙の素粒子の総数の1/3位だ。ところが数学的にはこの二つの数は大きく違っている。前者は2で連続127回も割り切れるが、後者は1と自分自身でしか割り切れない。つまり素数だ。ここから、大きな疑惑が生じる。果たして、自然は掛け算割り算を使っているのだろうか?


公的な理性は、遺伝子の同一性に保証されているというなら、私的なアイデンティティーは、やはり、遺伝子の微細な個体差に保証されていると反論されるだろう。前者には顔がなく、後者にはある。さらに後者の存在度の強さを補うものとして、環境がある。前者は、即自体に近く、環境の助けを借りることが出来ない。現実的であることを棄却していながら公的であることが出来るかという根本的なジレンマが見えてくる。

資本主義とかけて、原発と解く、こころは、どちらにも依存してきたがコントロールが効かない。その証拠は、リーマンショックとフクシマだ。
もう一回。
資本主義とかけて、原発と解く、こころは、どちらもツケを未来へと先送りにする。

文学はとても保守的な分野なので、冒険をしようにもなかなか難しい。だからこそ、本来依頼体質(盗作体質)の人間が、馬鹿であってもやっていける分野だ。知的と思われている分野では最も多く馬鹿がのさばっている分野ではないか? 

はるか未来を見つめ、日夜興奮状態で勉強し研究する若者達よ、ホサナ! ホサナ! 
賢明な市民諸君! 彼ら彼女らを支えるために、自分のできることを、こっそりとしてあげようではないか!

   国境はどんどんあいまいにしよう

日本に限ってだけ言うと、北方領土、尖閣、竹島、問題になっているのがいいチャンスだ。未来を開く切り口が見える。いずれもパスポートなしでどちらの国民も訪問したり居住できたりするフリーランドにすればよい。経済特区、言語特区、資源特区、政治特区、教育特区、観光特区にすればよい。
私は、両国家の間に位置する国境領域から、未来の生活様式が生まれると思う。
いまのところは遥かに見える右と左の中心が、やがては周縁の力と愛によって、ともに消えるだろう。たくさんの中心が、近代にまで至った幻想が、やっと消える。中心という幻想は、この惑星が唯一の中心だという幻想の余韻に過ぎない。それがかつて消滅したのに倣って、この事態をかき消そう。