珍島は、干潮の時は本土とつながり、歩いて渡れる。モーゼのエクソダスと同じ海割れ現象が起きる。(珍島物語という、つながりを歌う演歌は、南北朝鮮の統一を願った歌だったろう)。海難事故を起こした船長は、海割れを知らなかったのか?
2014年の珍島海割れ情報(韓国観光公社)によると、四月十六日(事故発生日)の午後六時の予想ではマイナス二センチメートルだ。平均海水面より二センチメートル上に海底が出る。その日の朝、すぐそばを船は通った。(この記事は、事故原因の確定を主張するものではありません)
美智子妃が春(!)の園遊会で、葛西選手に、ひまわりが咲いたでしょうね、とお声をかけられ、私はびっくりした。お読みになっているのは知っていたが。
感情に訴えかける文学を笑え。
お忙しいのは分かっているつもり でも これじゃあ 生き別れだわ
どこにいらっしゃるかわからない 携帯もメールも通じない
北極か赤道にでもいらっしゃるのかしらねえ
寒いところに来たら暖かいところを懐かしみ、暑いところに来たら涼しいところを懐かしむはずでしょ。私たちが暮らしていたあそこのことよ。
だけど 日が経つにつれて 隔たりが増していく。浮雲が太陽をさえぎるように、なにかが、だれかが、あなたと私の間に入り込み、あなたの、戻り心を弱らせる。
時間がどんどん経っていく あなたのことを思いながら私は痩せていく 歳を取っていく
あーあ 棄てられたのよね 自分に言い聞かせます
お体を大切に 飲みすぎないでね
ホテルを出たらしとしと雨だ 並木の柳が色あざやかだ
その店 開いてる ちょっと寄ろう 朝っぱらから? いいじゃないか
迎え酒だよ さあ一杯 これでお別れ 達者で暮らせ
教室に忍び込み 一晩飲み明かした
まぶしい午前は 満開の桜
空港で お前だけが友達だったと言って 霞の空へ 消えていった友よ
町は壊れた 山河は残った 三回目の春が来て 残骸の狭間にも草木が伸びる
宴を張った桜並木 あの人たちはもういない 代わりに歌うのは雲雀だけ
遠いところに移転した娘から便りが届く じーじ 元気? りりあが会いたいって
老人だもの 放射能なんて怖くない 髪はますます白く少なくなってきたが それがどうした
桜が散り 花粉が舞う
飲み明かして君は 都へ旅立つ
さらば 友よ
船は 空とも水とも見分けのつかない青へと収束し 白い点になり
やがて消えて見えなくなった
悩みが深くて 眠れやしない おまけに風雨 騒々しい
鳥啼き始めて うつらうつら
春の午前はなま暖かく 散った桜を見るのもめんどう
青春の終わり 春の宵 その一刻は 値千金
表も裏も 陽も陰も 動も静も 何でも来いだ
宴が終わると あとは せきせき寂寂 ちんちん沈沈 繰り返しの 減衰の 日常だけ
千里の果てまで平野は広がり
千尋の高さまで雲雀は上がり
柳の新緑は桃の花のピンクと競い
川辺の飲み屋も 山沿いの飲み屋も 幟(のぼり)はためかせ 満員御礼
はるか都には 五万の高層仏閣
春霞の中 立ち並ぶ
この白髪にはため息出るわ あたしも苦労してきたんだわ
鏡なんか なけりゃいいのに 昔なんか なけりゃいいのに
何度川を渡っただろう 何度花を見ただろう
川のほとりはいつも花盛り
そんなこんなでここまで来たのさ
蛍光灯がついたり消えたり 買い換えなくちゃ
窓の外の紫陽花の葉が音を立てる 雨が降ってきたんだな
膝を抱えて口笛を吹く ギターを奏いてでたらめに歌う
誰も聴かない見向きもしない 月光だけが僕を照らす
夕日はなぜ山に隠れるのを急ぎ 大河はなぜ海にまみれるのを急ぐのか
僕がもう一階上に登るのを促しているのか
古代遺跡に春が過ぎる 散る桜花 盛(さ)かる橘
ベンチに坐る白髪老女 独白するは天皇の世紀
山間 姿見えず ただささやく声 人か獣か
夕日 樹冠を輝かせ 深林を侵し 苔を青くす
大河の青に水鳥の白と思ったら 山々の青と雲の白が映ってただけさ
どこまで春をたどっても もう故郷には行き着けない
こんなボウルですまないが
いっぱい入るぞ 両手で持ちな
風に遠慮があるじゃなし
桜が散ったら さようなら
巡ってきた季節、再訪した城
どちらも元のまま 人だけが傷つく
そこで気づいた 幸福のありかを
みんな よおく聞いてくれ
余計なものを捨てろ 言葉を捨てろ 余計なことをするな いつもただ元へと立ち返れ
おんどりと一緒に夜明けを歌え
身をとろかすのはこの幸福、この魔法だけ
この幸福 この魔法 忘れてしまえば 一巻の終わりだ
タイトロウプ
綱渡りの綱のことだ。綱渡り、特に目隠しして綱渡りすることは、昔から使われてきた比喩だ。タイトロウプ。タイトロウプマン。
何の比喩か?
個人から様々の集団(国家を含めて世界を含めて)までの宿命、たどらざるを得ない宿命の比喩だ。それなりに感動的である。
だが、宿命を比喩にするとは正確ではない。宿命そのものが比喩である疑いが濃い。
では例えば(!)宿命とは何の比喩か?
個ではままならない圧全体だ。(地球全体も、うんと我慢すれば、個と見做しうる)。
個は個体として物理的にローカルであらざるを得ないから、周辺からの圧を受けざるを得ない。では、その圧の方向と強度は何か? 圧の原因、正体は、よって来るところはどこか、なにか?
それは、生存に反する圧ではないか? 指圧、おっとまちがった、死圧ではないか?
生が不自然であるという立場もある。自然が何であるかは語義問題だが。
こんな比喩でしか今のところ言い得ない何者かとはいったい何か?
幻想や観念や理念からなるべく早く脱却するほかない私たちが、こんなものにまだ囚われているとは情けない。その、周辺にあるもの、それこそが幻想で、それを悟って私たちが覚醒すれば、幸せだ。
PS。問いが幻想である可能性を忘れないでくれ。
ヴィトゲンシュタインの本性
ヴィトゲンシュタインを、私、余り評価しないなあ。素朴だ。貧困だ。アランが、せっぱ詰まった有限の存在が恣意的に決めていくしかないのが生だという主張と正反対だ。アランを持ち上げるわけではないが。
ヴィトゲンシュタインは、命題論理、述語論理に載らないことは判断停止するとしか言っていない。ところが、載ると許しているものに、誤りや観念がある。それもありうると当人があらかじめ言っているのでこちらはなんとも批判出来なそうだが、やはり、彼の犬儒性こそが自らを現実と離反させたのは見えてしまう。例えば、彼は実無限を批判できない。一般に、無矛盾の叙述で、現実に例を持たないものを、批判できない。近代以降の哲学は、畢竟、科学批判と科学の基礎付け作業なんだが、彼は、科学的でありそうに見えて、そうではない。観念を許してしまう。
観念を許してはいかんのだ。
付記。彼は、カントの定言命令集に対応するものを、フレーゲとラッセルからとってきた。尊敬できる所業ではない。オリジナリティーがある人物とは思えない。
姿勢を決めてから書くということ
一人称で長編小説を書く場合、主人公が傍観者でないならば、ビュルドゥンクスロマンにならざるを得ない。むしろビュルドゥンクスロマンを意図して、一人称という形式を選ぶ。(伝統的な意味での一人称と、重なる限りにおいて)
たとえビュルドゥンクスロマンであっても、作家は結末を決めて書く場合が多いだろう。作家自身が成長を終えていると自負しているからだ。しかし、それは、ロマン自体が嘘ごととなる。我々が時間の制限下にあることを拒んでいる。不毛である。この種ののぼせ上がりは有害無実だ。
書くことによって、書きながら、作者も作品も成長する事態こそが、書くべき価値あることだ。発見的、前進的に進むことが、作品と作者との関係を途切れさせない唯一の原則だ。
私は、涼子を書くとき、エクセルを使って、大箱、中箱、小箱を揃えてから、逆から書いた。終幕から遡って序幕に至る。
QEDと書いてから、遡行した。
当然だと思ってやった。ヒロインが涼子だからできた。
人称問題に限らず、方法を考えるのは大好きで、それだけで一生が終わるかもしれないおそれがある。(人称については別の場所で書く。)
では、WHATは?
それこそが大問題だ。作家は、言うべきこと、言われるべきことは、既に言い尽くされたので、残っているのは、いかにその同様の内容を、時代に即して、あるいは時代に反して言うかの、方法論、あるいは技法、HOW、あるいは口調かっこう、にあると思っている。そういうのを作家とは言わない。芸人である。
私は、問題を正確化せんがために、問題を問題である資格を持たないのではないかと質問するために、HOWそのものをWHATとして再び考えてみる。私は、解決されたと思われている多くの問題が解決にはなっておらず、問題にもされない多くのあたりまえのことが錯覚であると思って生きてきた。
楽しい。
繰り返す。問題はすでに解決されて目の前にあるので、それをどう言うか、表現の問題でしかないのが文学だったとしたら。オー、マイ、ガッシュ。
みんな、ボイコットしようぜ、そんなの。
いつまでも金太郎飴を舐めていられるか。
悦楽の、恐怖の、未来
形式を問わない言語表現とは、語義矛盾だ。形式あってこそ言語は成り立ち、表現と伝達が可能だからだ。発声の秩序化がパロールだ。
だが、矛盾を犯してもかまわないというほどの、余裕ある社会があった。
走り逃げながら言葉を吐き飛ばす人々がいた。
社会も人々も両方ともそれは過去のことで、未来ではそんなことはない。
未来では、社会(個の単純集積とは別の次元の)と人々(個としての)との間に対立はなくなる。対立する理由がなくなるからだ。平和な、恐るべき平和な蓬莱の世界が到来する。知識、科学は、人間個人、あるいは集団間の対立を解消する。
どの個をとっても同一である世界が実現する。世界という表現がもうそこでは意味を持たない。全体が内部なので、あるのはUTIだけだ。
科学は仮説としての自らを実体化しようと、自ら自体を実験に供するだろう。
地球とその周辺が全面的に実験場となる。実験としてのサヴァイヴァル。
危ない!
その時、ヒト、がいるかどうか。