スカスカ
音楽を聴いていて、スカスカだなとおもい、呆然としてしまう。これに騙されていたのかと暗澹たる思いだ。文章を読んでいて、スカスカだとおもう。発言権がなくなるから、我慢して最後まで読むが、空しいな。現実も受け手もスカスカだから、これでいいのだ、という態度は間違いだ。そういうのを悪悟り(わるざとり)という。スカスカを顕わにするためには、スカスカでない方法が必要だ。現に、宇宙のスカスカ性を暴くために、科学者達は、繊細きわまる方法を開発中だ。

    夏目漱石
漱石は朝日の社員になった。当時の状況下で、多作のためにはうってつけの稀有な必要条件だった。よくよく考えた末であったと思う。正しい選択だった。拘束が命じるのは、当人が覚悟の上とはいえ、命と引き換えの、多忙な、遅れを許さない執筆生活だった。だが、結果を残せた。ジャーナリズムが強いる拘禁的な執筆環境。当時としては世界的にも珍しい例だ。
漱石は、イギリス流のテクニックと観点でもって、実は私小説を書いた。
読者は、ハイカラと身内感覚を同時に味わえて、さぞや満足したことだろう。

ベートーヴェンの、和音に全面的に依存する、ポピュリズム的な、外連味たっぷりの、いかにもあざとい作風にやられているようではいつまでたっても大人になれない。だが、近頃思う、あれは、根本原理を表現していたかもしれないと。

モーツァルトは、小児的であり、実際、実生活で、あからさまに小児だった。書簡を見よ。読むに耐えない。なぜ評判が高いのかよく分からん。その音楽は、たわいない子供の、無際限の繰り返しのおしゃべりだ。4ビートから8ビートに、リズムを倍テンポにしただけだ。ベタで退屈だ。利口な子供ではあるが。
ただねえ、レクイエムの前半だけは、聴いていて、私、涙するのだよ。


言語は、言語以前を表現すべく運命づけられている。言語遊戯はオナニーに過ぎない。ヴィトゲンシュタインがその典型例だ。

分節しか手はない。どれほど詳細繊細にできるか。しかしそのあまり、混沌に陥ってはならない。混沌に構想はない。こちらにだけある。そこで対抗する。

老人になった団塊世代、特に元全共闘を恐れるべし。あとはもうない、失うものはないと開き直っているからね。感化された息子むすめ達も、表向き一般市民だが、何するか分からん。

生の意志は、無機物に対する嫉妬心だ。対抗するためには快楽が必要だった。苦労の末の発明だ。もしかして、話は逆で、快楽という原理が生命という具体を創ったのかもしれない。

CODEのきめの粗さが気になり始めたら注意したほうがいい。言語はCODEだから、言語不信に陥りかねない。そうなったら君は一人ぼっちの引きこもりとなる。その後は……


運動する者を描いたり塑像彫刻したりした例は、エジプトでもギリシャでもローマでもゴマンとある。が、残念ながら、スタティクスの領域にある。ベタだ。
十六歳の時、階段上の女と子供をレリーフして、遠近法を実現したミケランジェロ。投石する直前のダヴィデ。ニュートンと同じく、次元とダイナミックスを志向していた。
ミケランジェロは、斜視だ。自分がそうだからか、あの若々しいダヴィデも斜視だ。すくなくとも瞬間的には斜視だ。巨人ゴリアテに投石する直前、興奮のあまり斜視になったか?
投石行為を、私は今語っている。
私の同世代が、国内だけでもかつてどれだけ投げたか。文字通り徒手空拳。カウンターパンチ。世界中でも投げた。当時斜視がはやったなあ(笑)
その時と今との差をどうするか、話をしたいね。言っておくけど、ジジェクのようなおっさん共産主義者ではないから、警戒しないでほしい。
ついでに言うが、アンナ・カレーニナも斜視だった。かつて私の愛した女性も斜視だった。


近代に近づくにつれ、焦点化して他を見なかった。近代個人の発生。
近代になってしまったら、拡散し、他ばっかりを見る。近代個人の破産。


混沌に網を掛けて、言語で切り分けても、混沌はかすり傷ひとつ負っていない。こちらが切り分けたつもりでいるだけだ。閉路をなす網目のひとつひとつの内部に、語(パロール)が同時発生する。そうでなければ網を掛けたかいがない。我々は愚かにも、そんなこちらの勝手な利便を実体と信じてしまう。人間精神の宿あ(しゅくあ)であるフェティシズムがここで出てきて、以後鍛えられていく。とどめようがないほどに。

介護国家としてのニッポン。国家そのものが介護を要するようになってしまった。自己が自己を介護するという事態は、自己矛盾である。介護できるほどの力がないものが、他者はどうであれ、自己を救えるはずがない。アメリカと老老介護だって? 冗談はよそう。いや、冗談ではないか?

秋の駒場祭に連れてきた女とは別れるが、五月祭に連れてきた女とは、諸君、結婚してる。例外をあまり知らない。私が、例外だとでも、言うのか。
女たち、戦い終えて、せいせいとしていた。
披露宴の司会も、やったな。

もはやIT世界であるからには、基本的な知識は放り出されている。アリストテレスがいかに総合的であると言われても、知識量はせいぜい今の高二レベルだ。ヘーゲルがいかに歴史に精通していると言われても、せいぜい山川出版の詳説世界史だ。公開されている接触可能な知識量は膨大だ。現代から観ての話なので、相対性を測ろうにも果てないが。
だが、彼らの批判能力、現状を転覆せんとする明瞭な、決然たる意識を見習え。いかに彼らが保守的と評価されようとも。高二も山川もその姿勢にはとてもとても及ばない。いまや膨大な知識が即時無料だ。だが、知の姿勢は自分で学べ。範例を生きた先人がいる。いつか、君も、範例になれたらいいと思う。

ヘーゲルのカテゴリー分別癖には辟易としている。現実はそこにはないのだ。しかし、キャラクターをカテゴリーから作り上げて、弁証法的に葛藤させるのは、今の日本アニメが驀進している路線ではないか? へーゲルカテゴリーがキャラクターを類別し、フィギュァを創出し、世界精神の実体化を、今実践中だ。へーゲルも、それそれと、さぞやうれしがることだろう。
私は、マッチポンプだと思うが。
ヘーゲルもアニメも。

スカイツリーからの展望は、飛行機から見下ろす、着陸する前の光景に似ている。

昔、紙でパイプを作って、それを組み合わせて、家を作るという会社の社長、副社長と話した。工場見学もした。幼稚園でこんなお遊びも、などと、紙製滑り台を見ながら彼らは笑って言った。
熱帯亜熱帯の湿気はどうしますか、地震に対しては、などと質問した。私が感動したのは、難民キャンプに使えます、という社長の発言だった。後に知ったが、実際アフリカで実現した。テレビで観た。
あなたたちを忘れませんよ。

私がまだニ十代の頃、東映と手塚プロ(虫プロ)との合作で、家畜人ヤプーをアニメで映画化しようという企画に呼ばれた。宇宙基地や宇宙船などのモデルを考えてくれと言われ、トポロジーでは許される様々な形態をどっさりコピーして臨んだ。
監督は東映の中島貞夫。彼の隣に坐った。目つきの険しい男だった。互いに警戒しあいながらぼそぼそ話をした。
私の説明が長たらしく、司会者から止められた。ノットセオリーなんかしゃべったから。
「いいよ、いいんだけどね、みんな帰らないといけないから、はい、もうストップ」
映画は実現しなかった。予算額が一桁違ったからだ。妄想には金がかかる。

毎週、週末は、テニスをしたり、釣りをしたり。平日は飲み屋に入り浸り。休暇の時は海外に行ったきり。
今思う。テニスも、釣りも、飲み屋通いも、旅行も、すべきではなかった。
肉親と時を共有すべきだった。残念でならない。

世界の、或る都市で、或る女と、暮らしていたことがある。
小さな誤解が原因で、別れてしまった。
いくら言ってもきいてくれなかった。
もともと けりをつけたかったんだろう。
私が落ち目だなんて、言われなくてもわかっていた。

自己を意識するのは、暇な時と危機の時だ。そのふたつの時にだけ、自己が現れる。忙しく生きる日常では、自己は出てこない。ついでに、記憶も出てこない。

特攻隊の生き残りじいさんが曰く。
冷静な女で、御茶ノ水の女高師にいました。出撃の前の晩、はさみで刈った陰毛をくれました。ずっと腹巻に入れていました。
孫は五人、曾孫は十一人です。

ニーチェのアフォリズムは、読書感想文だな。というよりは、読書連想文だ。私たちも、本を読んでいると、連想による次から次への妄想に連れ去られて、原文に戻るのに苦労する。その過程を彼は書いた。だから内容を問題にしなくてもいい。哲学以外の当時の自然科学と歴史学、特に前者についての感想連想に過ぎないからだ。
〝出産する、させる〟ことだけを学んでおこう。或る人が、ニーチェに学ぶべきところは、ただ質問能力だけだ、と語っていたが、同感。
ペーター・ガスト(清書と校正を請け負っていた。ニーチェは彼をうまく操っていた)を確保しておいたことも、真似するべきではないが、ついでに学んでおこう。ガストには同情する。