トンボをくわえた百舌鳥が、大家さんの家の石塀に止まった。私が口笛を吹くと盛んに周りを見回していたが、くわえたトンボを食べようとする欲求が好奇心に勝り、剪定された庭木にもぐりこんで、慌しく食事を済ませた。そこから飛び出てまた石塀の上の元の場所に止まった。私の口笛のせいで、インド人の吹く笛で舞うコブラのように、身をよじらせている。私は気づいた。自分と同じ位の体型の鳥を探しているので、わずか一メートル半の所にいる私を、見えていても、認識できないのだ。
大家さんの息子さんの奥さんであるフーニャさんに、あの鳥、きょろきょろしているだけで、気づいてくれないんですよ、と不満げに言うと、彼女は、鳥は見ずに、私を心配そうに見た。
ナンプラーではなくニョクマムを買いに行ったが、なかった。来月には入るそうだ。パクチーを買った。
わずか百円のブリのあらを、ごま油で焦がして、残っているナンプラーと適当なスパイスで味付けし、パクチーをはさみで切りながら散らしていく。
噛むスピードは恐る恐るといったところ。以前、骨が歯茎に刺さって腫れ上がり、切開手術をした経験があるからだ。警戒しながら味わう。今日もおいしく出来ました。
青年たちに、不動点、合成写像、写像の原像などを、白板にグラフを書きながら説明したが、彼らはきょとんとしていた。あの手この手を使ったんだが。またやってみよう。
シルトの岸辺は、昔いくらか読んだが、本をなくしてしまった。新訳が出たので、今読んでいる。
ひとつだけ記す。
AがBするという文に対して、CがDするという比例関係を立て、CとDそれぞれに修飾語あるいは修飾節をつけるという技巧が、彼の基本的な修辞法だ。これのヴァリエイションに、スタートのABから逸脱しない限りはきりはない。停滞や退廃と隣りあわせなので、ハラハラしつつ読む。
寅年の年の年賀状に、鉛筆で書いたトラのスケッチとともに、ブレイクのタイガータイガーを書いた。その時以来のブレイクだ。
思うに、こりゃあニーチェの先駆だな。そっくりの所がある。巷間言われるところの神秘主義は微塵も感じられなかった。
訳者の思い込みが激しくて、原文の意味が取りにくくなっている箇所がある。神曲の訳もそうだったな。神曲の訳については、向井敏氏と同意見だ
向井、開高の仲間である矢沢永一を、つい読んでしまう。この人には、ほっとさせるところがあるな。こころは本当に名作か、もついでにまた読んでしまう。この著者の酔歩する語り口に呆れもし魅了もされる。印象批判ではあるが。深夜に、DVDで、ペペル・モコを観た。無思慮で、いいように騙され、激情的な主人公に、すこしも共感を持てない。あのシーンだけだね。