職業。

何十年やってきても、向いていなかったのが、今、分かる。


株取引の、私の加速度理論というのは、オッシレイターを観れば、一目瞭然。


憂鬱な中三の時の、どうでもいいような高校入試が終わって、私はすぐさま旅に出た。

勿論母親のバックアップはあったが、なるべくヒッチハイクで進んでいこうと思った。

あのときの春、高校生になる前のしばらく、九州を一周する間に、日々刻々、点々あちらでもこちらでもで、どんなほどの、驚くべき体験を、したことか。

成人式だった。世界とはこういうことだったのかと、目が開かれた次第。

今、あれを許してくれた母親には、ありがたかったと、つくづく感謝する。


世間など知らない私たちは、だからこそ、あっという間に、本質に至った。

パリの五月、すぐドイツへ、イギリスへ。ヨーロッパ全体を震撼させた。アメリカでも、ウィーウィル、ウィーウィル、ロック ユー、いちご白書。日本では、日大東大闘争。全国、例外なしの大学闘争。

あのとき、気がついた。世間を知らない私達が、世界の大間違いに気がついた。

私は、同世代の友たちが、今、いかように暮らしていようとも、彼ら彼女らを信頼している。覚醒し、奮い立った友よ。絶対忘れないぜ。


ブラームスとマイルスデイヴィスを聴きながら、科学を学んだ。それ以外の生活はなかった。僕が窓を乗り越えて、暗闇に向かって跳躍した時から、僕は僕でなくなった。



知の技法シリーズは、全共闘以降、大学に残った者達が、居直って、大学を、自虐的に、自動車学校化しようとして出したと勘ぐることも可能だった。教養や世界観ですら、テクニックと訓練で接近できる。丸山真男も主張していたことだ。できることはこんなことにすぎない。しかし、新たに、大学の特権を根拠付けるためには、悪必要な行為だったとも見做しえた。

小林、大澤両氏の著作翻訳はいくつかづつ読んでいる。一方には会ったことがあった。

知の技法入門という本は、新入生のための読書案内だと思ってなんとなく手に取った。

とんでもなかった。私が日々問題としていることの多くが、列挙され議論されている。私を含めた三人のうち誰が先に気づいているか、そこまでか、そうではない、これがあるだろう、これを忘れているだろう、ああ錯覚に転落している、矛盾、おっと、いい観かただ、それかな? それを追えよ……

興奮冷めやらずいや増し、続けざまに二回読んだ。

私は小林氏に対してある先入観を持っていた。大変失礼した。私の先入観など、どうでもいいことだが。


或る都市の空港に着いて、都心に向かうバスに乗ったときから、一人の男につけられた。ホモだろう。やたらしつこく、時速7キロぐらいで歩いても、ついてくる。ホテルにいったん入って、横から出ても、すばやく駆けずり回って私を見つけ出し、追ってくる。

最後、駆け足しながら角を曲がると、階段があったので、駆け上った。二階の部屋のドアは開いていた。誰もいない。私は、カーテンの隙間から、走り過ぎていく男の、やや薄くなった頭頂を見下ろしていた。


湯川の写真。穴を掘って首だけ出しているような感じもあった。


白鳳(朝青竜の方が強かった)は、体を回転させるのがうまいな。初代若乃花(若ノ花、花田勝治、土俵の鬼)もそうだった。土俵表面に足の親指でコンパスのように円を描いたと言われていた。


決闘、十七分十五秒、千代の山戦。

ああ、若ノ花、膝をついた、いや、ついてない、ついてない。のこった、のこった。

小児の私は、興奮状態でラジオに耳をくっつけていた。その後しばらくアナウンサーの声が聞こえなかった。

小学生の時に、学校の特別行事、遠足の一種として、大相撲を観覧した。私たちは、天上桟敷にうち並んで、鉄柵から足を投げ出して、歓声を上げた。

若ノ花は、まだ大関だったと思う。初日、対戦相手は、大起(おおだち)。大巨漢だが、実に実に嫌がっていた。何せ自分が負けるとはっきり分かっていたから。組んで数秒、若ノ花は得意の上手投げで土俵中央に大起を投げ飛ばした。右脚をコンパスのように使い、土俵の上に円弧を描いた。

ある時、小学生の私は両親と桟敷席にいた。興奮は亢進し、居ても立ってもいられなくなり、席を出て、土俵に向かった。土俵の角、隅が近づいてくる。土俵下に、若ノ花が、腕を組んで胡坐をかいていた。私はふらふらと近寄っていく。昔の大人が偉いのは、こんな子供を、駄目駄目、などと排除しないところだ。私は、若ノ花の、左肩の後ろ、砂かぶりに坐った。ライトに当たってうっすら汗をかいた白ピンクの皮膚。

大濠公園の傍らの散歩道を小六の私が憂鬱に歩いていると、タクシーが止まり、大濠高校はどこかと聞いてきた。指でさし示し、運転手さんに説明していると、お相撲さんでぎゅうぎゅうに詰まっている席の真ん中に、若ノ花が居るのが見て取れた。しかめっつらだった。

運転手さんが、土俵入りやるんだ、と言った。

足腰の強靭な、しかも、自在にジャンプし回転する、運動神経に優れた力士だった。イチローを力士にするとああなる。

ふんどしを、幅広くして締め、けつにめり込まないようにしていた。痔だったのかもしれない。


秋田市の、川っぺりの飲み屋を、何日か掛けて渡り歩いたことがある。ママたちは、ほとんどが離婚者だった。娘や息子が、慶応や早稲田に通っていて、ママたちは若い頃離婚してから切磋琢磨、同じ境遇の女達と競争しながら、子育てに邁進した成果である。

西荻窪に下宿しています。私はこんなだから、あなた、掃除しに行けます?


僕は、カンジとその仲間達に野球を教える。剛速球投手となるまでに成長したカンジ曰く、おれが今までで一番速い球を投げたのは、十三夜の谷で、だった。


カンジが、戦線で、敵に向かって投石するのを、僕はやめさせる。

カンジ、なぜ、そんなことをしているのか、私に説明せよ。


少年少女時代、ゲームであなたは何人殺したか? 何千何万人、平気で殺して幼少期や思春期を過ごしたのだな。その状態から脱したか? 今でもやってるだろが! たとえゲームの上であっても、面白がって人を殺してきたあなたを、どうしても信用できない。 でも、だって? ナイーヴな時だったから、許せだって? その言い訳から察するに、ますます信用できないぞ。


無矛盾である構造が、即座に存在する数学の世界に、昔から違和感を覚えていた。悪しきプラトン主義、中世神学、カントの物自体を思い出させるから。


かつての帝国主義が、土着民族を消耗させ、使い捨て、滅ぼしても顧みなかったのと同様に、人間帝国主義が、人間以外の種を消耗させ滅ぼさんとしている(捕って、あるいは、組織的に、食っている、セメントで覆っている)。そのヒトたちあっての人間であったのに。

我々は、ニホンザルやヒヒに退化する危機過程にある。

たとえば、貨幣を辞退する発想がありうる。

おや? その発想に乗ると、我々はやっぱりサルに戻るぞ?

私は、ニホンザルやヒヒと私達の差は曖昧であって連続的であって、ましてや、中間的なたくさんの祖形とは、祖父祖母ぐらいの親密性を感じる。

UFOに乗ってやってくる遥かかなたからの友よりも、類人猿とのコミュニケイションの方が、簡単だ。どんどんやってほしい。彼らが私達を、少なくとも数十万年間、どう評価していたのか、聞ける。なんと感動的な瞬間であることか、なんと自己否定を強いる瞬間であることか。いや、先入観を持つことは、恥じよう。



回転する扇風機の軸のところを中心から少しはずして鉛筆で押していると、円が次から次へと湧き出す。夏、子供の頃に、耽っていたあそび。水泳。スイカ。花火。


政党とは、政治結社であり、内部の綱領は公のものとは別にある。それは結社が目標を達した時にやっと露わになる。それ以前の段階では、人々に察せられないようにと、やつらは注意怠りない。

代議制民主主義とは結社に外注するシステムだ。だからこそ、結社の活動性を削がないようにその内部の、そして内部だけの綱領は、不問に付すことになっている。

良心的国民は、それを意識するあまり、ううむううむと唸りながら投票するのだ。

私はしない。唸ることも、投票も、どちらも、しない。

直接民主制が徹底すれば、それが暴くのは、文字通りの現実ベタだ。露わで恥ずかしくどぎつい。だが、ベタをやるべし。それが私達の現実であって仮想現実ではない。すばらしい。もう、近未来の技術を駆使すれば、できると思う。技術が、ハリウッド仮想現実ではなく、現実現実を顕わすとは、感動的だなあ。

代議制であれ、直接性であれ、国家を前提にしているのがもはやおかしい。

国家を支持する民衆が多数いるという与件のもとに選挙行動があるし、選挙行動の結果、成立した議会は、さらに、民衆の存在を前提にして活動する。

民衆が、多数性ではなく、固定性を存在の条件にしていると誰が今思い至るのか。

民衆自体がちっともそうは思っていないのに。

多数ではない固定が、民衆の存在条件である。数の多い少ないとは無関係だ。


国家が、金融策であれ財政策であれ、やっても投資家に結果が吸収されるのであれば、強権をプーチンのように発動する(収入を留保する企業を、公表し、罰則を科す。従わなければ国有化する)か、リバタリアンに身をまかすか、二つに一つか?

両方ともいやだ、という選択をした人間の生活のモデルを、皆さん持ち合ってなるべく早く提示しよう。


権力は、権力者の集合から成り立ち、権力者とは、昔、小中学生の頃、机を並べていたあの子この子が変質した結果だ。試験制度で濾過された、あるいは、ホーデン結線(皇室を頂点にいただく、学財政産の血縁)で優位だった者達が、その内容だ。


養老孟司の薦める参勤交代を、疎開と解釈したらどうか。すぐ戻る必要もない。都会が変わるまで、あるいは滅びるまで、様子をうかがいながら田舎暮らしを続けてもいい。大人の疎開。交代する必要がなくなるとなおよい。

養老孟司が山中伸弥のやり方に疑問を呈している。私は、ノーベル賞で評価を受けた後であれ、養老の不審を無視するべきではないと感じている。

私は、スタップ細胞は、体のどこにでもある未分化細胞を濾過して選択したに過ぎないと思っていた。実際はもっと悪質な行為があったが。では、山中伸弥らが、選択していないかどうか、問題がある。

判定の仕方は簡単だ。

Aという形態に分化した細胞を初期化して、また同一のAになるか、テストすればいい。

A以外をAにする操作を混入させてはならない。