引き裂かれた自己? もともと唯一の自己があったことを前提にした表現だ。デカルト以来、唯一性と存在の混同が続いているので、この表現もその犠牲者が発したものだ。引き裂かれてなどいない。もともとが雑居状態だ。雑居している一々は自己ではない。
自己は、みつくろうものだ。ウエッブに出すためのものだけではなく、本音を語る際にも。
自己がないことは、今やみんなが保つこの生活習慣を見ても明らかである。
(足を踏まれて)痛い。
あ、そう。
(いじめで暴行を受けて)痛い、やめて、痛い、痛い。
だって、おれ、お前じゃないし。
爆撃やめて。
なぜ?
痛い、苦しい、死ぬ。
あ、そう。けど、おれ、お前じゃないし。痛くない、苦しくない、死ぬはずない。
自由を感じたことはない。解放を感じたことは何度もあるが。
両者の差は、意志のあるかないかにあり(自由にはあって、解放にはない)、ひとが意志を持っているとは思えないので、自由はいかがわしい。
意志は時間を遡っての確認を誤って解釈した結果である。だから、ミスを必要条件にしている自由はいかがわしい。
キャラクターの類型と特異性を決めてしまうのは、通俗小説の特徴だ。そこから、ありきたりの喜怒哀楽への落とし、納得の感情放恣まで、見せかけ振り回し思わせぶりがいくらあろうと、実質は一直線だ。バカバカしいったらありゃあしないが延々とうけているのは、そこにこそがっかりするほど明白な真理があるからなのだろう。
細胞分裂には、維持-再生のためと分化-誘発のためと、二通りの意味がある。維持-再生を停滞に対応させ、分化-誘発を進化に対応させると、個体発生は系統発生を繰り返すという既に批判されてしまっている(ただし全面的な否定には至っていない)説を再生させることになる。分化が維持に比べて発現が多ければ多いほど、その種は進化の先端に近くいることになる。分化の圧があるので、個体の寿命が、維持の割合の多い種に比べて長いだろう。この意味に関する限り人間は当然長寿だ。
徳政令が、近々発布されるだろう。
政府、あるいは、国民国家が、その定義からしての能力が温存していた最後の切り札がこれだ。一千五十兆円をチャラにする。
これと引き換えに、国家がなくなる。責任を感じて、あるいは、周りの革命勢力の圧迫による、せっぱ詰まった切腹だ。
貨幣もなくなる。それを支える国家が切腹したからには。
貨幣がもうないから、近代がもうない。
ベタな生きもの世界が到来する。
定常流が循環する、
よい意味での停滞社会を、発展も退歩もない社会を、
過去のさんざんの失敗を反省しつくした知恵が、
ベタな生きものの世界を創り出せますように!
その実現のためには、たとえ死んでもいい、というのは間違い。
じゃあ、たくさん死んでしまうではないか。僕も君もふくめて。
数学が、(数学は、ではなく、“が”、が、)そもそも、観念である。
それそのものとしても、道具として使うにしても、観念は観念だ。無効と言っているわけではない。それなりの、近似的真実を表現できる。力としての観念。実験結果と合う。根本でだまされるのと引き換えに。
観念性を排し、忍耐深いカウンターたらんと、有限や離散を勉強したこともあったね。えーと、いくつかのことに気がついたなあ。けど、なんだったっけ。
自己には、内容的な自己と形式的な自己がある。前者は刻々膨張し記憶として蓄積し与件となり、どこからどこまでがいわば後天的な指紋であり、個々別々でユニークだ。後者はパースペクティヴという対世界対処形式であって、全人類に共有されている。この意味では、自己は世界にただ一個しかない。この意味では、やはりユニークだ。
パースペクティヴは、その手前において、孤独と隣り合わせのデティルを提供する。その彼方において、デティルと引き換えに展望を提供する。手前のまた手前には、焦点を合わせきれない漠然たる微小が迫り、彼方のまた彼方には、到達不可能な茫漠が広がる。パースペクティヴは、こうして本来両端を欠いているので、自己は、本来宙に浮いており、不安であるべく運命づけられている。
地平線あるいは水平線は、地球が丸いので、その実態を見ることは出来ない。
つまり、もし地表が平面だとしたら、はるか彼方をみはるかしたとき、どんなであるかは、コンピューター上のシミュレイションでしかうかがい知れない。
十キロごとに黒い水平線を地表に描いたとして、地平線あるいは水平線はどう見えるか。
視力無限大として、線の幅を10のマイナス30乗メートルとして。
遥かな地平線あるいは水平線は、薄墨色から真っ黒に至る、墨を含んだ太筆の横殴りに見えるのだ。
たとえ宇宙の最果てを探求する学問に携わっているとしても、その営為は、結果として自己理解に至る。中には、自己理解を目的として宇宙の最果てを探求している者もいるだろう。
自己理解にとらわれて、それ以外のことを何もしない者はまちがっている。
自己は前もっては、存在してはいない。営為を通じてのみ規定されうる。
登場人物たちそれぞれのキャラクターを決めておいて(不可抗力的宿命、災難、事故、トラウマ、幼児体験、病気、戦争等々に保証を持っているかのようだ)、それらを操作する作品にリアリティーはない。作者は書き易く(キャラクターを割り当てて、パターン操作をするのに、数分しかかからない)、読者は読み易い(新幹線本)。どちらにとってもあくまで安易だ。両方が安易な思考停止状態なので、問題は起こらない。だが、エンターテインメントはここで生じるのかと思うと、暗澹たる気持ちになる。
宗教の宗旨内容は、たわいない。その周辺の、整合性を得るべく構築された理論体系は仏教であれキリスト教であれ膨大であるが。生活に追われる平凡な人間でも宗教とかかわれる理由は、たわいない内容を、確信的に死ぬまで信じる素朴原始の宗教心が先行して存在するからだ。つまり、どの宗教を選択するかは畢竟趣味の問題でしかなかったのだ。宗教心という有無を言わせぬ強い心理傾向があれば宗教生活は成り立つ。
観察=表現 前者が後者。後者が前者。が、を、は、に変えても成り立つ。即座に同時に武装して出現する。 シニフィエとシニフィアンの解消 。観たまま顕わす。観た対象は、自分だから、やあ、また会ったね、表現がすぐさまできる。当たり前だ、当然だ。
まだ生まれて間もない私に、二十代の父は、こいつ、ガード下の靴磨きになっても生き延びるだろうと言った。
私はその時は意味は当然分からない。音とそれらの連鎖を記憶していて今解読できるだけだ。
二十歳ごろ、記憶のある靴磨きのおじさんに、靴を磨いてもらった。
長年、お父様の靴を磨かせていただきました。
とても上等な靴を履いていらっしゃいました。
坊ちゃん、大きくなって。