私に、プラスにしろマイナスにしろ、具体的日常的に重大な影響を与えた人物が死んでしまった。

家族の一員ではない。血族ではない。が、家族以外では異常なつながりとみなされるつながりを、家族のつながりの時間を大幅に超えて、維持した経験は、その意味は、私自身に確認するに値するだろう。

家族を私はかつて持っていた。持たれていた。それに先行し、それを脅かす、しかも、私がたびたび容認する勢力が、一貫して個人としてあった。一人の人間が、これほどに、私の生に関わった理由と原因は何であったか。


見抜くんだ。余計なところをそぎ落とすんだ。こう発言するのは若いアメリカ人の作家であって、日本の俳人ではない。


ベタな描写とは、おさらばだ。形容詞、形容動詞、副詞、連体詞は、なしだ。ガートルード・シュタインが、へミングウエイに助言したように、ではあるが、技術の問題だけではなく、つくづくいやになったからそうする。


叙述には、共にしたくなるような、あるいは、筋肉が共鳴するような、行動としぐさの指摘があるだけのようにして、読者が容易に想像しうることは一切書かない。つねに姿勢を変えつつある構造的、動的、特殊、瞬間。しかも、大長時間を描く。

極めて具体的であることは、比喩形容を排除する。ましてや抽象的であことはなおさらだ、当たり前だ。

抽象的であることに傲慢であった近代を、抽象のうちで粉砕し、抽象の外から粉砕し、近代をなるべく早く無視したい。


フッサールも、ヴィトゲンシュタインも、畢竟、論理に載らない事柄を排除するという偏狭な形式論理に閉じこもり、哲学の万有性(私は、私達の種の内のだれもが、個別にであれ集団であれ、折に触れて不思議がり、不思議がるのをやめられない事態を哲学の万有性の証拠だと思っている)にブレーキをかけようとした。彼らの、偏向オタク傾向は、今から観ると分かりやすい。その貧困にはため息が出そうだ。形式論理は哲学とは何の関係もない(失礼。形式論理。言語。少しは関係ある。少しは。だが、それに拘泥していてはならない)

彼らに、そして、ソシュールとその影響を受けたゴマンのソフィストらに、その迷妄と蒙昧な発言をいちいちそれぞれこと挙げて、さあ、はっきりと、反撃を開始せよ。

批判を、それなりに、しかしちゃんとやった若者としか、私、話をしたくないからね。

あなたと話をする義理はない? そうですか。そうだね。バカの壁がある。どちらも、壁の両側でバカだ。ここが問題の発生源だ。

私が間違っているのが、この記述だけでも分かる。相手を勝手に自分にいいように想定する傲慢がある。そんなことがないように、自己を否定しつくすことを、私は目指していたのだがねえ。