激しい交接で、静電気が生じそうだ。やがて胎児が生じるだろう。胎児は静電気を前提とする。


リーマン関数の実化。対称性の保存。一対一。1―x=x。x=1/2.


生命は、存続のための戦略として、個体化したが、個体たちは、元を懐かしがる傾向がある。無理もない。愛情も、同感も、同胞愛も、共感も、言語以前だけでなく以後も、互いにひたすら求めあう。個体化によって、こうむった損失に見合う成果はあったものの(現時点でのそれに過ぎないが)、それぞれは損失を嘆く。感情は、本能と結びつき、嘆くあまりに、生命の戦略を呪詛するに至る。生まれてこなければよかった!


自らの生き方の正当性を、生命原理(あるとして)に基づくと主張する胡散臭さの原因は何か。自らが生命であるのに生命の原理を主張するのは、自称に過ぎないからだ。


沖縄の米軍基地を尖閣に移せば?




宵闇迫るころ、現地人が、ボートで沖合いに出て、ダイナマイトを放り投げる。彼方の島には、大統領の白亜の別邸が残照の中に浮いている。水煙が上がり、数秒後に、失神した魚が白い腹をさらけ出して海面に点々と浮き上がる。私は、皿に山盛りの、かすかに硝煙の匂いがする、かと思ったがしない魚に、青い果実、日本では酢橘(すだち)に相当するか、を切って絞ってかけて、腹いっぱい食べる。ウオッカを飲み続けていると、男達の数が少しずつ増えてくるのがわかる。危険である。いくら酔っても言えるように、にわか作りの脅す文句を何度か脳内で唱える。



学力だけで、権力をとる寸前まで行くことが出来る。忍耐強く、度重なる試験をよい成績で突破していけば、現代の科挙制度の内に、権力奪取の意志を阻む因子はない。ただし、それを目指す者は多いので、最後の段階でものを言う要素がある。それは、辺りを払うカリスマ性である。圧倒的な存在感だ。暗記力や知能競争で決着が付けられない段階になると、これがものを言う。無教養な者達が一掃され、測りようのない一個の濃厚な人格があらわになる。よきにつけあしきにつけ。


歳をとるに従って、人は、奇跡を見る機会が多くなる。


今はもう機会がなくなったが、ユダヤ人と話すのが、楽だった。自分がユダヤかとさえ思う。論理が当然のことなので、一々気を使う必要がない。論理がぎすぎすすることはなく、会話が馥郁たる香りを帯びてくる。 

墓堀人、死体処理者、金銭操作者、ゲットー者、ヨーロッパのエタヒニン。よってたかっての虐殺に次ぐ虐殺。最後、ヒットラーに600万人が殺された、等々。それらを一時的に忘れて、あるいは話題にして、気があった。多くと付き合ったわけではないが、違和感を覚えたことはない。

なぜか。私が子供の頃から今まで読んできた本の総字数を著者の民族別に類別すると、日本人を除いては、ユダヤ人が圧倒的に首位を占めるからだ。


日本人は感情のきめが細かい。しかも、空気でそれを感じあう。通じ合わないヤツに、やむをえなく、そうであることを伝えようとする場合など、、酸欠の苦痛に悶えることもある。



後世に名を残そうと思う人間を、卑しいと思う。

エゴイズムを脱し、金銭欲や名誉欲を克服しても残るのは、この欲望だ。最も卑しい。

かつて私が捉えられていたことがあったので、卑しさは身にひしひしと感じられて、今でもはなはだ不快だ。勝手な感想だが。

圧倒的多数である、最大多数である、忘れられるだけの私達は、あと、を、もう思っても仕方ない。


虫めづる姫君の講読で、エデンの園とイヴを誘惑する蛇の話が、サマノ輔の文(ふみ)の下地にあるのではないかと口を滑らせてしまった。話題は、釈迦の出家以前の因縁から出ているのだが、旧約がインド北部に入って、それが、中国日本へと伝わった可能性はなくもない。


ドリアンの熟し具合は、女と同じで、ケツを嗅げば分かる、とは、開高健の著作にあった文句だ。華僑の大金持ちの発言だという。(女の場合、八百屋の店先で持ち上げるほど簡単には嗅げないが)

以来私は、ドリアンを買うときには、どこの国にであっても、ケツを嗅ぐ癖がある。

二つ三つ買って、寺院の塀に背中を持たせかけて、むさぼり食う。

今日これから、何をしようか、あれこれ思いめぐらしながら。女はあまり考慮しない。



脳科学分野での新知見は、夕べの一献のつまみでもあるし、深刻に私の考慮を迫るきっかけでもある。

ギリシャ初期から、ついせんだってのポストモダンまでの哲学の課題を、脳科学が引き受けている観がある。 ……、やっぱり、がんばれっ!

私は実験装置に直接関与するような身分には私はないので、データを調べる際の精密度に責任をもてない。だから、可能性、仮説、のまた、可能性、仮説、としての発言しか出来ない。少壮気鋭の研究者たちのあとをたどるしかない。

しかし、あとをたどっていると、疑問が百出する。だから、友人知人伝手をたどって、これ、やってみてよ、というぐらいのことはする。相手にされないことはある、よく、ある。すまん、忙しいから、などと。

だから、私は、少数の課題については、自らを実験材料にせざるを得なくなり、やるが、結果に、意味は、やはりない。

せいぜいお笑いお涙の、俗情に屈した私小説が出来やすいが、それはさすがにやらない。じゃあなにをするの? ただの一例報告? いやいや。本来に。自分が思っている限りでの本来に戻るしかない。?。


フィクションが延々一例報告の羅列だったのであり、その圧倒的な数量で人々を納得させてきたとしたら? 

誘う実例の、神話からたわごとまでの、無数の陳列を前にして、人々は自分の居場所を見つけられないはずはない。

ああ、この事態、ため息がでるぞ。すべてたわごとであったかもしれないのに。みんなが寄付した慰撫だったんでしょ?

ここから逃れることが出来ない。もうため息が出なくなる。息が止まりそうだ。だれか助けてくれ。だれかがいるとすれば。

パニックに陥る!

全員が錯覚に生きていることを知ってはならないのだが。

生まれてから死ぬまで、異常事態なんだが。

極めて確率の低い、宇宙全体のスケールからして、あちらこちらの星で水が発見されているとしても、霊長類まで生き延びる可能性は猛烈に低い。

ところが、条件確率に従い、その低い条件の下に限っては、あっという間に超霊長類まで進化して自滅する可能性は高い。


今我々が持つ存在現実性は、ほとんど幻想に近い。生命科学がいくら幻想から醒めろと呼びかけても、生命科学も幻想かもしれないと言い返される。そうかもしれない。是々非々。

現実が現実的であるほどには、幻想が充分幻想的ではまだないと思うのは少数だろう。



小坂君。

彼は、西高出身ではなかったのに、なぜか、西高の小坂さんと言われていた。

西高については、理ニの、元ミス西高が印象深い(ワンダーフォーゲル部)。ミステイク西高と悪口を言うやつもいたが、インドネシア人かインド人かとの混血みたいな、エキゾチックできれいな子だった。

小坂と赤門の向かいの喫茶店で会った時、反応が鈍くてさえない男と一緒に来た、文二-経済の女の子がいた。何年も経って、小坂がNHKの教育番組に出た時、対談の相手として出てきたのが彼女だった。黒のツーピースを着て、美しい人妻となっていた。

喫茶店でのあの時、彼女は、我々の話には耳をそばだてて聞いていたものの、発言は、ほとんど小坂のそれの繰り返しか展開で、君達できてんのか、と私は思ったものだ。そうでなかったのは後で聞いた。

彼女の、ここには何かあるという直感が、彼女を引き回した。で、小坂らと交わった。喫茶店にも来た。よいことだったと思う。

刻々の変動に身を任せて、しかし、感性は全開して、心地よく過去から脱皮していきつつある若い女がいた。

小坂は死んでしまった(心房細動)。彼のつれあいは、私の中学の時の一学年下の才女だった(あるシェイクスピア劇を、落語家がそれぞれの役柄を演じるように、すべての役を、音声や姿態を変えて、一人で演じて見せた)。彼女はその後、埼玉に隠遁した。

黒いスーツのあの彼女は今どうしているか知らない。

私が批判的である或る男の女房になっている可能性が大きい。

まさか、喫茶店で会った、あの男ではあるまいな。



喰う喰われるで生命は維持されてきた。

意識を獲得した霊長類が、自省するなら、人工的な食糧源を自ら作り出さねばならない。