なぜ節食が出来て、節酒が出来ないのか。
炭水化物も中毒性を隠し持っている。それが緩慢で、気づかれにくいだけだ。中毒性に変わりはない。
節食をした論理で節酒をすればいいのに。具体的な言葉をそれように置き換えて、自らに語ればいいのに。
カルペンティエルの失われた足跡には、つくづく落胆した。
ありきたりの心理構造に懐疑を抱かずに、万事をそれに帰着させる手抜き。
神話に依拠する態度の悪さ。事大主義。
通俗に気づかない鈍感。
哲学的科学的貧困。すなわち、音楽に関して以外、理論がないところ。その音楽に関しても私は納得しない。
私は、両側が深い谷でえぐられている尾根道にいた。右側の、尾根に向かい合った斜面は、はるか彼方にまでゆるゆるとはいのぼって、巨大なカルデラに至る。楕円形の、縁がギザギザであるカルデラは、私に向かって斜めに口を開いている。その背後には、富士山型の、しかし富士山よりは急峻なコニーデ型火山が、標高一万メートルの頂上を冠して立ちはだかっている。山襞は、蛇の鱗のようで、全体に霞がかかり、暗い空の下で、明瞭には見ることが出来ない。傍らの男にこの光景の感想を求められ、壮大だとか感嘆するとか自然の驚異だとかではなく、醜悪だ不気味だ恐ろしいと力説した。左側の、谷向こうの斜面にも、緑の草原と森林に覆われ、やはりはるか彼方に、槍ヶ岳のような高山が聳えている。
両側の谷底に転落する恐怖に、私は耐えている。
私の夢には、たびたび、広大な視界に、巨大な存在が現れ、私をおびえさせ心悸亢進させ終には目覚めへと逃亡させる。
また、音楽夢を見た(聴いた)。ある男が、ピアノは弾けないがこれなら弾けると言って、長机の前に坐った。その机の上板は、大小のそれぞれ異なる色をした長方形で区切られたアラベスク模様になっている。その長方形が鍵盤だ。男はピアノを弾くように、両手を板の上に滑らせながら、妙なる音楽を奏で始めた。私は右隣に坐ってこっそり机の右隅の、黒あるいは紫の小さな鍵盤を、一つ二つと押していく。耳を澄ますと、男の音楽に混じって私の押した鍵盤の音が、小さいながら混じっているのがうかがえた。違和感は与えなかった。
友と映画を観に行った。私が切符を持っていたはずだが、忘れたのでとってかえってきた。二本観ての、その翌日。私は、映画の内容が思い出せない。そんなはずはないと悶える(夢の中で映画を実際に見るシーンはなかった)。
高い木のてっぺんから伸びた、長いゴムひもにつかまって、私はたくさんの人たちが憩う公園の上を旋回する。このときのスピード感と遠心力感がまことにリアルだった。その公園に大きな木があって、その枝々に幾人も人が乗っていた。私を呼び捨てにする者がいる。私は怒り、今言ったやつ、降りて来いと怒鳴る。彼らはひそひそ話し合い、一斉に降りれば大丈夫だと決めた。ああ、いい案だな、そうしろ、と私は言う。降りてきたやつらを私は手ひどくとっちめてしまう。
今に残る原始社会に闖入した近代人が何をするか。
故郷と比べての慨嘆の後に、社会と言語に対して、近代的な解釈を試みる。レヴィ・ストロースがそうだった。社会に関して、代数的な解釈を、ヴェイユの助けを借りておこなった。近代を批判するよすがを見出す者もいた。エヴェレットがそれだ。言語に関して、文の中に文がある構造が、一般的ではないことを明らかにした。
ハイパーな立場を拒否する人々がいるのだ。語り手と聞き手にコミュニケーションのパターンを限定し、それを俯瞰する作者と読者の関係をウソであると笑う立場をとる人々がいるのだ。日本語が、対象の共視を基にする語り手と話し手からなる三項関係から成り立っていると熊谷高幸が主張するように、俯瞰を拒否する言語は、例外的ではない。
付言。拒否するという言葉を使い、俯瞰を知らないと敢えて書かなかったのには理由がある。原始社会という前提がそもそも怪しいからだ。中国南部から東南アジア山岳地帯、インド東部に至る、二億から三億の人口を誇る、原始社会と見做される共同体の集合が、近代社会からの逃亡民からなっているという事実がある。知らなかったではなく、知っていたが、批判し、拒否し、やがて忘れたという経緯があった。あえて、拒否と書いた理由である。
精神活動の下部構造としての生活習慣は、精神活動からのひっきりなしの要請によってやっと変わる。生活習慣の下部構造である経済状況(直接的には家計)からのひっきりなしの突き上げによっても変わる。
両方からの圧が同時に生じた時、生活習慣は、やっと変わる。
実は、圧が生じた時ではなく、圧を君が意識した時だ。