私は、三歳の時、一歳年上の女の子と手をつないだまま、川に飛び込んだ。
父親が、廊下の籐椅子に坐って、私を観察していたので、すぐさま助けた。
父親がそこに坐っていたこと、私がたまたま幼い愛人の手を引いて心中を試みたこと、この二つが同時に起きたことは、確率が極めて低い。私は、死んでいたはずだ。
死んでいたはずなのに、今でも生きている。
この感じは、私の一生中、続いてきた。
よくない効果ばかりだったとはいえない。
脱炭水化物ダイエットを、十歳から三十五歳まで、二十五年間やってきた。それは、私にとっては、普通の食生活だった。それを破ってから、生体の混乱が続いた。今、それに戻るのに、違和感はないどころか、故郷に帰る者の、安堵感がある。
既に、炭水化物の多い食品に対しての嫌悪感が戻ってきた。それを摂る人への軽蔑感も。その人の自由だから、こういう記述はよくないが。軽蔑感そのものがよくない。そういう感情を持つことを軽蔑していたのだから。
おや、なんだか、別の、閉路に入ってしまったか。
当たり前の、誰でもやっている、誰でもそうであることを、人は意識しない。
それを、創作に悪用し、重要事象をわざとパスする。読者の抗議に対しては、皆さんの真似をしただけだ、と応じる。面白かったとおっしゃっているのに、その上、抗議するんですか?
やるべきではなかったという、忸怩たる思いはある。
バイオ手術は、CPゲームに似ているところがある(失礼!)。
キーやハンドルの操作で、回し蹴りが出来るはずはない。プログラムの圧倒的なバックアップがあればこそだ。同様に、培養した組織を挿入したり張り付けたりしただけで、再生組織が体内のホメオスタシスに矛盾せずに出現するのは、物理的な同様な操作と比べれば、神秘的ですらある。圧倒的な生命の自己保存力のバックアップがあればこそだ。医者はバックアップに感謝しているが、ゲーマーは自分の手柄だと思っている。
父子物語、母子物語に、物語を解消しようとする企みに反対する。
源氏物語を、オイディップス物語と重ねて、親子の確執と和解に解消する解釈に反対する。鳩山家や岸佐藤安倍家の、血族と政治の絡み合いが典型であるような物語に源氏を解消するような解釈を拒否する。
血縁地縁から脱した、あるいは、それ以前から存在した、単一の一般理性が語る物語だけが物語である。
祖形、原型、などと称されてきたものは、偽の、ありきたりな、安心できる受け皿だ。
恐るべき真実から遠ざけられてためらいがないための、安心して喜怒哀楽に耽ることが許されるための、起承転結に整理されて満足がいくための。
おー、まい、がっどぅー!