辻原登の、源氏物語の解釈を読んだ。では、たとえば、鳩山一族のはなしであったのか? 矮小化ではなく、実際そうであったかもしれないが。

脱神話の後、近代神話に移る中間期に、家系=ホーデン結線(皇室を形式的に中心に置いた擬似血縁関係が共有する権力)の内実実態を暴露した物語。近代的にカテゴリー化していないところもほっとする。

某女の、ハーレ・クィンだという指摘にある程度賛成(ハーレ・クィンには政治が関わらないという差があるから.。色好みとはプレイボーイのことではないから、ある程度なのだ)。

だが、所詮、父息子、母息子等々と、政治とのからみは、脱すべき過去の構成である。


地縁血縁と無関係な、そしてここが大切なところだが、その後、地縁血縁に転化しない縁なき縁だけが、理性、私でない私だ。私とは思っていない私だ。私はないと思っている私だ。そういう循環から脱しつつある、私ではない、全体だ。全体の兆候だ、全体シンドローム。兆候に過ぎない私。それに誇りを感じる個体もいただろうが。

それにかかわり、それに参加し、それを生きた幸福に感謝しよう。

誰に何に感謝せよと問うのか?

生命の果てが行き着いた錯覚に!

私は錯覚しか言わない。錯覚をしか言いようがない。なにせ、うちらが錯覚だから。

錯覚は、が、いや、錯覚を、発言しつつはあるよ。

質問! 

錯覚を発言するとは、なんであるか? 

そもそも発言を、錯覚の表れと、たとえば、見えない敵におびえる警戒音と区別する手段は何か?

質問!

錯覚であったかなかったか、誰が判定するのか? 第三審問官はどこにいる?