誰でもよかった、とは、実は正しい。怒りの対象は、個人ではない。あらゆる個人に共有されている、あらゆる個人に同型に現れているアレだ。
リアルな抽象を対象化しよう。
オタクからグローバルなパースペクティブに、いっきに一気に移動する。一揆みたいにな。
アイデンティティークライシスという言葉を先日も聞いた。私が言ったことにたいして相手が答えた内容にこの言葉が混じっていた。他人のいうことを真面目に聞きすぎると、ナイーヴな人間が、これに陥る。ナイーヴではない私にそれを言ってもまたかと思うだけだが。
アイデンティティーを問うとは、言いがかりだ、尋問だ。ないものをあるもののようにみなして、ない者を恫喝する。マッチポンプの典型だ。あると思っている者が実は不安に駆られて相手に投げて避けて安心しようとするトラウマだ。アイデンティティーは、幻想の、あるいは、書類上だけの拘束だ。どこにも誰にもない。家族、学校、友達、故郷、国家、それぞれはそれぞれだ。アイデンティティーで一括してはならない。
I Dなしで生きていこう。アイデンティティークライシスなどとささやきかけて不安を煽るやつなどを相手にするな。
ニューギニアの茶色ニワシドリが、雌を勝ち取るために、巣を作り、人間を含めて様々な動物の鳴き声を真似る。雌を牽きつけるためにブツを巣の前に並べる。分類して展示し、ごたまぜにしない。色彩のバランスを考える。花より団子ではない。審美的に、、花のピンク、果実のオレンジ、きのこの紫を配置する。空き缶を積み上げる者もいる。分節の境界が明瞭に意識されており、混濁を許さない。分節化が、子孫保存の衝動に由来していた証拠になるか? 言語を理解するのかとも誤解させるほど見事なモノマネ能力は、分節化による言語の到来を、はるか遠くから保証していたのではないか?
例えば、りんごやバラなどを描いて、見る者を立ち止まらせるのが芸術だ。見る者は、日常では決してそれらの前で立ち止まらなかった。立ち止まらせる力が芸術だ。
さて、ハリウッドを典型として、非日常空想幻想錯覚を描いて立ち止まらせるのが現代の芸術、あるいはそれの代替物だ。日常にはありえないことなので立ち止まるのは当たり前だ。だから、古典的な意味で芸術ではないだろう。
では、古典的な意味での芸術は、どのような形で今現れているのか。
科学だ。当たり前と思われていたものとことをひっくり返すのが科学の本領だ。
科学的芸術あるいは芸術的科学は、私たちの目標だが、それは、同語反復に過ぎない。
江戸時代、長崎。向学心と性欲に掻きたてられて集ってきた日本男子達を、後者の点では実践的で開明的な行動を施して満たし、前者については、こっそり父親の蔵書や書類を盗んできて満たし、日本の近代前夜をセットした、金髪碧眼の美少女達に、フーレーィ。フーレーィ。
「お父様、極東を見てみたいのです。特に、ヤーポンを。年々歳々黄金と白銀を産む、ここにない土地を。世界で最もたくさん雨が降る土地を。そこに住む天人たちを。ブリテンの若者が、グランドツアーに赴くように、私にも、極東へのそれを、お許しください。お父様の助手として、そば使いとして、防波堤として。そのあとは、お言いつけの通り、嫁にも行きます、修道院にも入ります。修道院……。なんだかそんな予感がいたしますわ。とにかく、次の航海には、私を連れて行ってね、お願いね、約束してね」
何を知りたいのですか。
それがしは、天空の原理を知りたい。女がどんなものであるかを知りたい。
どちらもかなえてあげましょう。明日、また、ここに、いらっしゃい。