根本的に云うと失礼な申条だがあなた方は私を離れて客観的に存在してはおられません。――私を離れてと申したが、その私さえいわゆる私としては存在しないのだから、いわんやあなた方においてをやであります。いくら怒られても駄目(だめ)であります。あなた方はそこにござる。ござると思ってござる。私もまあちょっとそう思っています。います事は、いますがただかりにそう思って差し上げるまでの事であります。と云うものは、いくらそれ以上に思って上げたくてもそれだけの証拠(しょうこ)がないのだから仕方がありません。
私は、漱石は、やや苦手なのだが、そんなことはどうでもいい。漱石が、いかにも佛教徒然としていたことを(揶揄しているのではない!)この文章は如実に示している。
仏陀は語っている。さすがに、漱石より、切れ味は鋭い。
曰く、
私はない、私のものもない。なぜなら、それらは無常であるからだ。無数のものやことの縁であるので変化をやめないからだ。ego-personalとは言えないからだ。つまり実体とは言えないからだ。同様に、空(くう)とは、何もないことではなく(西田幾多郎の講義中の口癖!)、因果の結果の現象を指しているのであって、それをなす無数の要素がないということではない。
ウム、論理は明解であるように見えるが……
なぜこうであってああではないのか。なぜ存在であって無ではないのかという根本的な問も含めて、この区別を縁に因ると答えられてもそれこそ実体のない答えだ!
縁を科学的法則と偶然だと言い換えるしか、今のところ手はない。>