灯台の見える宿にて【十一】 | “濱の日本橋”喬美家三代目のブログ

“濱の日本橋”喬美家三代目のブログ

 私、かつて横浜旧市街南部にあった“濱の日本橋”芸妓置屋、喬美家の三代目と申します。

 そんな頃のいつか、一方のお爺さんがある若い方を連れていらっしゃって曰く、今度大学を出て俺んとこで働き出したんだよ、そう紹介してくれたのが今のハズ(=夫)でした。

 お爺さんは助平で遊び好きでしたが、その持っている会社の経営は逆にしっかり、以降のハズはそこで些かなり偉くなって、今はもうとっくに定年を迎えましたが、その頃の彼といえばそれはもう変わっていました。最初の内はすごく無口で、お座敷の間はずっと、仕事の件が出ればぽつりと加わる程度で後はだんまり、その話しといってもぼそぼそ、えっ、あの交渉ですか、はあ、今は資料がありませんから明日ですね、なんて調子。

 それだもので暫く、私がハズに就いて覚えている印象たるや、お座敷の隅どころか真ん中に座っていようが小さく縮こまって茶碗蒸しを啜っていたり、あるいは気がつかない内に意外なペースでお銚子を空にして、それでもちょっと顔が赤くなるくらいで後はいつもどおり、その程度でした(ちなみに入社当時の商談などでお座敷へ頻繁に通っていた頃のハズは、ごらんのとおり将来うわばみになるのでは? とすら予感されたものの、何故か結婚後には嗜み程度にしか呑まなくなり、子供が出来たんだからね、酒はもう要らないんじゃないかな、ですって。そこの摩訶不思議な性格は、今もまだよくわからないまま。何も主張していないようで、何かを確実に伝えているとでも言いましょうか)。

 詰りどこを世間様と比べればいいのか、あんまり把[つか]みどころのない人でして、それがこれだけの歳月を経ても変わらない。ゆえに最初は、変な人だわ、何を考えているのだろう、が限界だった。けれどたとえ変てこでも、芸者に悪さをする気配は微塵もありませんし、それ以上に気を懸けることもないまま、お爺さん以下に請われては小唄をうたい、三味線を弾いたりの合間、すっかりハズの存在など忘れてしまったものです。そもさんお座敷は私どもの職場に相違ありませんから、たとえ結果が未来の主人相手であれ、怠けている訳には行きません。

 ただ、これもますます奇態な話しに属するのでしょうが、そんな私はいつか知れず、この“変な人”に興味をいだいていたらしい。その元がどんな切っ掛けだか、あるいはいつからかも自身はっきり覚えてはいませんけれど、故にその明らかな発端を語るのは無理ではあります。恐らく私は、他の旦那衆がここへ遊びに来ていながら、何をひねもす思っているかさえわからず、もしかして澄ましているだけなのかしら? もしお爺さんによく戯れているとおり、一度、膝をきゅっと抓[つね]ったらどんな顔をするのかしら? 出された手の込んだ料理にも美味しい、まずいとも言わず、ただ人に合わせ漫然と食べているだけなのでは? と。

 詰り私の方こそ考えている次元が下世話すぎ、ところが後日に判明したその蘊蓄たるや。

 

 「ここの焼き筍は大抵、根曲竹か四方竹だね。それぞれ旬が異なるんだから、出て来る筍も違うし、そしてそれをそれぞれの形質や灰汁の処理でちゃんとまとめている。いい舗だな。」

 ええ、それは最初こそ面食らいました。私といえば、あれだけ毎日料亭へ伺いつつ、たかが筍ひとつにこうした違いがあり、その調理に幾つもの創意工夫があって……。知らないだけならまだしも、それ以前にどれだけ漫然とその睫前へ運ばれる料理を見逃していたろう我が眼識は、やっぱり菲才すぎまいか。その余はここへ詳述の暇[いとま]もありませんが、割烹料理と陰陽五行説であるとか、御座附き・御先附の違いであるとか、あの小さく縮こまった姿の脳裏でこんなことを考えていたと漸く知れました。尤もこれに就いても又あけすけに曰く、

 「いや、僕は大学を出るまで料亭なんてとこへ行った試しがなかったんだよ。ただ、ここへ入社したら社長に連れられたんで、色々と食べながら調べただけ。……へえ、意外と奥深いよな、と思い立ったら暇の折りに図書館へ行って、その請け売り程度で何かを威張るようではまだまだ駄目だね。」

 今も一事が万事この流儀をやめる気配ひとつなく、ある意味、淡々と同じ思考を重ね、案の定、君が弾いてる三味線のルーツを仮にシルクロードから求めて、中近東にまでその範囲を拡げて云々、もし私がこれに額の脂汗を滲ませようとも、なんだ、古[いにしえ]の芸者といえば時の教養に於いてとても一般の女性の比ではなかったのに、ですから。要は嫌味で言っているのじゃなく、ただ学究として手当たりに調べて行くだけ。

 これに私が何の反発もしなかった訳ではありませんが、けれどこうして仲良くなったのも又、偽らぬ素朴な推移でした。

 実際、硬いばかりではなく、何を引き金にその記憶装置発動やら、いきなり大相撲の番付けを新聞のとおりにざーっと上から下まで並べたり、野球選手の背番号を六十番くらいまで名前と一緒に数えたり。おかしなことも構わず、玉石混淆で覚えられるなんて、私に限らず対抗しうる人は先ずいますまい(そう言えばそのとおり、当初、社長たるお爺さんがいきなりハズを我々に指し示し、こいつはね、色々と出来るんだよ、ただ、最初の面接ではちょっととっつきが悪すぎて、なんだいこの男は、と思っていたんだけどな、わははははー、……斯くしてなるほど私より先にその性格を見抜いていた相変わらずをも、ここで久々に想い出しました)。

 

 「なんで一々そんなことまで覚えているの?」

 「それはね、興味があるからなんだよ。興味があれば無理しなくても覚えてしまう。……尤も何年かすると、その時に興味があった対象自体が変わってしまうから、そうなったらもう駄目、僕だって忘れちゃうよ。詰り僕も普通の人、ただの人、それで何かしら誰かに抜きん出ている訳はなし。」

 私はこの名調子? を聴いていればいいらしく、たとえ右から左であっても構わず、別に何かを期待して話してはいないんだから、でお仕舞い。そう、個々の話し自体は一見めんどうに見えながら、実際の関係はさばさばしてそれきり。それが結局、後日の結実に至ったのでしょうし、但し考えるまでもなくこのお座敷に数多[あまた]現れる、海千山千の底知れぬ人とハズのどちらを信頼しえたかしら。少なくとも私の裡[うち]に、その結論は案外な早くから出来上がっていたのかも知れませんね。

 

 こんな経緯で出鱈目に出来上がって行った関係は、やがて人並みのおつきあいに変わったらしく、私は爾来お爺さんのお座敷に出る度、彼に向かって唄い、舞ったものでした。尤もこれにすら些かの後日譚がありまして、その頃の我が端芸もどうハズの眼に映っていたやら、いざ一緒に暮らし始めたある日、

 「君の踊りには一体なんのルーツがあったのかな、調べると江戸宿場の五街道に辿りついたんだが、それ以上はよくわからなかったんだよ。とてもじゃないがその資料を発掘している暇なんてないし。」

 などと御飯をよそっている最中ふいに呟いたりするものですから、恥ずかしいやら可笑しいやら、調子は以後も外れっぱなしのまま、それでもこの歳月が息災ゆえ総ては諒[りょう]とす。

 そう、ハズと私の顛末なんて、精々がこんな惚気[のろけ]の緩い連続だったのですから、この亭主が傍目からは変だと思われて困る今更もなく、いっそ平凡な夫婦に過ぎますまい。

 

 そんな渦中に家庭を持つ為ハズがしてくれたこともさのみ多からず、元来のお坊ちゃん育ちながら芸妓を生涯の伴侶に迎えても鷹揚そのもの、他に適当な人は社内や外にいなかっただけだよ、以外どうやら本当に理由がないらしい(私から見ればそれで助かったのです)。ただ、私どもの場合はまだ古色蒼然とした《身請け》の形跡[なごり]が残っており、置屋のお義母さんに当時それなりのお金を返したのもまた事実でありました(それは私ども芸妓に不相応な程の薫陶を与えてくれたゆえ、もし計算していいなら置屋が儲かったなんて、飛んでもない。けれど念入りながら、それとても随分と昔の話しなのです)。

 必ずしもその工面と断言しようなどありませんし、彼の義実家もそれなりの余裕があり、私が憶えているこのあたりの最も鮮明な一景は、右のみならず結婚費用はおろか、新居も構えねばならぬばたばたながら、どうやらもっと必要が生じた徐[おもむ]ろに、あの頃の彼が自慢の種としていた、MGだかMCだか、私は車にとんと詳しくないもので、あるいはその名前さえ間違えているかも知れない、当時まだ稀な台数もあまり入っていない外車を、お酒の伝に続きすっぱり売り払いまして、勿論それが何の足しになったろう、けれどそれだけで報われた身の程こそ幸せでした。

 結局、そのMG? に私は近場の数度しか乗せて貰ったことはなく、自明ながらこれもそれだけ迅くことが進んだひとつの証拠に他ならず、やはり後日譚ながら、

 「あの車に初めて乗った頃は、インターチェンジの区間によっては東名高速さえまだ誰も走っていなくてね。擦れ違う車が何台か続くと、おー、珍しい、と本気で感心したほどなんだよ。それにしても以降、瞬く間にこの国のモータリゼーションは沸騰したものだなあ。そんなに長くあの車に乗らなかった筈が、最後は同じ道路で何度となく渋滞に遭遇したんだから。」

 詰りハズはハズで、私と出逢った頃にもうその車を納得ゆくまで乗り回していたゆえ、ここでも二人に何かの不満がありもせず。おまけに以降はカローラかコロナ位の車しか乗らず、これはもう都会のまんなかに暮らしていたゆえ、娘たちが十代を迎えるまで使っていたにせよ、後は通勤とて渋滞を厭って手放しました(それでも退職金を得て久し振りにお望みの外車を買ったハズですが、やっぱりたまたま乗せて貰っても私には車種がなんだかよくわからないまま、又、還暦を過ぎてますます車以外にも誰知れずの学習こそ彼も忙しく、そんなに乗り回さないで十年も経ず人に譲ったばかり)。

 

 ……以前に漏らしたとおり、もしかしたら私はこの街で人知れずお妾さんになり、ひっそりその一生を過ごすものだと思い込んでいたゆえ、この平凡な結婚生活が寧ろ鮮明に我が吐胸を打ったのでした。果たしてこんな感慨が誰の心に響くとは到底、思えません。多分、人様には何を有り難がっているかもわからないでしょう。けれどそれが私という、元は芸妓だった人間の偽らぬ感慨なのです。

 そう、斯くして私は現在に至るまでの直通切符を、まさかこの経緯で手にしてしまいました。別に誇張などない。たまたま、こうなっただけ。

 だけどこの同じ時空に、四人の無邪気な競争相手はどうなったのでしょうか。意外とも偶然とも言えず、ここまでに告げたまま、私はあたかも彼女たちの傍観者が如き遠近法[パーステクティブ]の立ち位置に誰よりも早く、収まってしまったのかも知れません。

 ただ何故、そこになにかしら、理不尽なこの世界の罪悪を私が感じなければならないものか。この小さな幸せを得た私は、何かしらの罪人[つみびと]なのだろうか。理性の診断であれば、それは誤れる病的な思いなのだから、断ち切れば済むでしょう。けれど省みるほど、却って目眩に誘[いざな]わなれるばかり。