米国民の間では ジミー・カーター元大統領への評価は高くないようで、2期目を目指した選挙で敗北して1期のみ(1977~1981年)でカーター氏の任期は終わってしまいましたが、彼が2期目の当選ができなかった理由は ユダヤ系ロビーから嫌われたことが原因のひとつとも言われています。

 

今回 トルーマン以降の歴代の米大統領でおそらく唯一と言ってよい、パレスチナ国家を樹立してイスラエルとパレスチナは二国家共存すべきだ と主張をしていた、というか、最近までそのような主張をされているジミー・カーター氏の主張を取り上げたいと思います。

なお、ジミー・カーター氏は現在御年99歳で、過去には癌等の病気もされて、現在はホスピスで終末期ケアを受けられているとのことですが、2010年に膵臓がんと診断された後も 平和外交の活動や貧困層への住宅建設等の慈善活動を熱心に行っておられました。

 

下はイスラエルのリベラル系新聞、ハアレツで2018年2月22日に報道されている記事です。

 

Jimmy Carter: Option of Two-state Solution Is Fading, With 'Dire Consequences' for Israel

 

(和訳開始)

 

ジミー・カーター:「2国家解決」の選択肢は消えかかっており、それはイスラエルにとって「悲劇的な結果」となる

元米大統領、パレスチナ国家樹立は「イスラエルにとって最大の利益」と語る

 

 

ジミー・カーター元米国大統領は、イスラエル・パレスチナ紛争における二国家解決策が「長期的にはイスラエルに悲惨な結果をもたらす一国家現実に追い越されつつある」とに対して警告している。
カーター氏は、パレスチナ独立国家の樹立が「イスラエルにとって最大の利益である」と結論づけた。
リチャード・マーフィー元米国大使が木曜日に読み上げた安全保障理事会への声明の中で、カーター氏は、二国家解決策は「調整が合意された1967年の国境と、イスラエル人とパレスチナ人双方の首都としてのエルサレムに定着しなければならない」と述べた。
同氏は、ガザが「人道的災害の瀬戸際に立たされている」と述べ、ハマス支配地域での新たな戦争は「現実的な可能性であり、その結果は壊滅的なものになるだろう」と警告した。
火曜日、パレスチナのマフムード・アッバス大統領は国連安全保障理事会に対し、1967年の国境内にパレスチナ国家を承認するための国際和平会議を2018年半ばまでに開催するよう求めた。アッバス氏は、ドナルド・トランプ米大統領がエルサレムをイスラエルの首都と認定したことを批判し、この「違法な決定」は凍結されるべきだと主張した。アッバス首相はまた、和平達成に失敗したイスラエルを非難し、「イスラエルは二国家解決への扉を閉ざした」と結論づけた。

 

(和訳終了)

 

下にイスラエルのメディア、THE TIMES OF ISRAEL からの2015.8.13付の記事をご紹介します。

 

Jimmy Carter: Two-state solution is dead, Israel to blame

 

(和訳開始)

 

ジミー・カーター:二国家解決は消滅、責任はイスラエルにある

元米大統領、ネタニヤフ首相を非難、イスラエルを「アパルトヘイト国家」と呼ぶまでには至らず、イラン核合意を「素晴らしい」と称賛

 

 

ジミー・カーター元米国大統領は、木曜日のプロスペクト誌との広範なインタビューで、二国家解決策が今日実現する「可能性はゼロ」であると述べ、これはベンヤミン・ネタニヤフ首相のせいだと非難した。

カーター首相はネタニヤフ首相が「一国家解決策」を採用していると非難し、「米国が更なる努力から撤退した」と嘆いた。彼はさらに、ユダヤ国家がパレスチナ人の平等の権利を否定していると非難したが、イスラエルをアパルトヘイト国家と呼ぶことには至らなかった。この用語は、彼が2006年の著書『パレスチナ:アパルトヘイトではない平和』で利用したものだ。

「これはイスラエルとパレスチナ人の和平にとってここ数年で最悪の見通しだ。現時点では、二国家解決の可能性はゼロだ」とカーター氏は語った。

1977年から1981年まで米国大統領を務めたカーター氏は、ネタニヤフ首相には和平を追求するつもりはないと信じていると述べ、「彼ら(パレスチナ人)は決して(一国家解決策ではイスラエル系ユダヤ人と)平等な権利を獲得することはないだろう」と嘆いた。 

カーター氏は、ネタニヤフ首相は「イスラエルとパレスチナの二国家解決策を今も心から信じておらず、これまでも信じていない」と付け加えた。同氏は、4月にイスラエルとヨルダン川西岸を訪問した際、「尋ねるのは時間の無駄だ」という理由で、わざわざネタニヤフ首相に会談のために連絡しなかった、と指摘した。それは このままでは前回のように要請が拒否されるだろうと予想していたからである。

元大統領でノーベル平和賞受賞者である彼は、新刊『 A Full Life: Reflections at 90』の出版に先立ち、水曜日に癌と診断されたことを発表した直後にインタビューに応じた。彼は10月に91歳になる。

イスラエルに関連したアパルトヘイトという用語の使用に関する質問に答えて、カーター氏は「ニュース記事でその言葉を使うのは気が進まない」としながらも、イスラエルとヨルダン川西岸の人口動態の変化を理由にこの議論には正当性があると主張した。

同氏は、「パレスチナ人が政府の過半数を占めることになる。さもなければ、あなた方がパレスチナ人から平等の権利を剥奪することになる」と述べ、ユダヤ人国家がパレスチナ人の政治的多数派を受け入れないことを示唆した。

また、イラン核合意を「素晴らしい」と称賛し、議会民主党がこの法案を支持すると確信していると述べ、米国の「イランとの関係が改善できる」ことを期待していると付け加えた。

カーター氏は、1979年のイランイスラム革命に先立って、テヘラン米国大使館で444日間続いた人質事件の際に最高司令官を務めた。イランに拘束されていた52人の米国大使館職員は、投票所でロナルド・レーガンに対してカーター氏が大敗北し退任した数時間後に釈放された。

カーター氏は、中東における核拡散の見通しに動じることはないと付け加え、報告されているイスラエルの核兵器計画を指摘した。同氏はイスラエルが「少なくとも150~200発」の核兵器を保有していると述べ、「少なくとも」と繰り返した。

イスラエルは曖昧な政策を維持しており、核兵器の保有を決して肯定も否定もしない。当局者らは、イスラエルがこの地域に核兵器を導入する最初の国ではないとのみ述べている。

 

(和訳終了)

 

この2本の記事を読めば分かる通り、ジミー・カーター元大統領は イスラエルとパレスチナの問題で、他の大統領のように極端なイスラエル寄りではなく、中立寄りであって、パレスチナとの二国家共存のみが イスラエルの安全保障にも寄与すると言っていて、それをしようとしないイスラエルを非難している、米国の中では 珍しい大統領経験者だということが言えます。 

 

ジミー・カーター大統領がレーガン大統領に敗れて失脚する原因になった事件が

イランアメリカ大使館人質事件での対応の悪さで「弱腰」だと非難されて国民の支持を失ったことが原因とされています。

 

この人質事件は1979年にイランの首都テヘランで起きた事件で、イラン革命によって権力の座を追われた米の傀儡だったパーレビ(モハンマド・レザー・シャー・パフラヴィー )氏がエジプトに亡命、その後モロッコ、バハマ、メキシコと転々とした後にアメリカに亡命したことにイランの革命政権や国民が激怒して反米デモから大使館占拠、大使館員52人が人質なった事件ですが、この時にカーター大統領は 新しいイラン政権との軋轢を避けるために パーレビ氏を受け入れることに反対していたのが ヘンリー・キッシンジャー氏等の働きかけで認めた というものでした。

 

そして、カーター氏が選挙でレーガン氏に大敗してレーガン大統領が次期大統領に就任したのと同じ日に人質が444日ぶりに解放される ということになりましたが、これについてもレーガン陣営とイラン政府との間の裏取引があったのではないか との説もあります。(これは「オクトーバー・サプライズ」と呼ばれているもので、レーガン政権の副大統領職を狙っていたジョージ・H・W・ブッシュ(ブッシュ父)とレーガンの選挙チーム責任者ウィリアム・J・ケイシー(後のCIA長官)が、1980年10月18 - 19日にパリで密かにイラン政府関係者と会談し、ホメイニ他イラン政府関係者に賄賂と武器供給を約束し、人質解放時期をレーガン大統領就任時まで延長するように交渉したという疑惑があるとされる。)

 

カーター元大統領は1959年のキューバ革命とその後の関係悪化以来初めてキューバを訪問したアメリカ合衆国大統領経験者となったり、戦争を行っていたエジプトとイスラエルを1978年に和解させたり(キャンプ・デービッド合意)、1994年には米大統領経験者として初めて北朝鮮を訪問して当時の金日成主席と核開発の凍結と査察の受け入れ等で合意も行いました。 これらの功績で2002年にノーベル平和賞を受賞しています。

 

第二次世界大戦後のアメリカ大統領のノーベル平和賞受賞者といえば、カーター氏の他にバラク・オバマ氏が在職中に受賞したというのがあります。

しかし、オバマ氏の場合はカーター氏と比べて、どうでしょうか?

 

テロリストのISを育てて、リビアでカダフィ政権打倒、カダフィ氏殺害を行ったりシリアでテロリストを使って戦争を始めたりウクライナでマイダン・クーデターを行ったり・・・平和に貢献するようなことは一度もやったことがなくて、全く意味不明なノーベル平和賞だったと思います。