岸田秀著(1999)

「人間は本能が壊れた動物である」
というのが、この著書における彼の全ての論拠となる。本能が壊れた、とは一体どういった事なのだろうか。人間も一動物であるが故に本能は誰もが持つものであると昔から信じて疑わなかったし、人間の行動というのは理性を本能でコントロールしているのだと思ってきた。
しかし、彼のこの言葉は、私がこれまで当然としてきたそれらの常識を根底から覆した。突拍子もないようにも思えるが、この前提を受け入れた上で読み進めていくと、なるほどと納得できる部分も多々ある。

しかし、一つ言うとすれば、本における彼の意見全てが、「人間は本能が壊れた動物である」からして「人間は不能である」という前提に頼っている為、これらの前提が崩れれば、彼の説全ての根拠が揺らいでしまう。それにしては、これらの前提に対する説明が少々不足気味ではないかという気がする。これらに対して科学的根拠を挙げるのは不可能で、あくまで観念的な話にならざるを得ないのだろうか。。。?

岸田さんは、本の中で、男は皆基本的に不能であり、性欲は本来内向的なものであると述べている。しかし、種族繁栄の為には、その性欲を性交に向けないといけなくなる。それゆえ、女体が神秘化されたり、フェティッシュ化されたり、様々な対策が講じられてきた。そして女は性欲に関わらず性交する事は一応可能であるが為に、女の性欲は無視されたり、強姦等の事件が起きたり、男女差別的な構造が出来上がった、と岸田さんは述べている。
男性を攻撃、動的とし女性を受け身的とする一つの要因として、男は異性の親に育てられる為基本的に母親という支配的な女性に対する恐怖を抱いている。その圧倒的庇護のもとから独立し恐怖を克服する為には、女性を自ら支配しなければならず、またそういった自分より力の弱い女性に対してしか性欲を抱けない、というものがあるようだ。一方女が父親という異性に出会うのは自我が出来上がった後なので、男の子のような現象は起きないらしい。

また、その他にも、恋愛という概念は西洋のキリスト教社会で生まれ(神が権威を失うにつれ、神にとって代わったのが恋愛で、これが神格化された)、「いやらしい」性欲を正当化する「清らかな」恋愛、という概念が出来たそう。キリスト教は、快楽を罪とする宗教なので、性交も子供を作る為だけ(しかも体位までが指定されていた)なら許容された。そのため、子供を作ることのできない同性愛などは禁止された。西洋では、イヴとマリアの対比に見られるように、女性を聖女と売春婦に分ける考え方が浸透している。ピューリタニズムに事を発し(岸田さんによれば)急速に発展を遂げた資本主義社会、工業化された社会においてこの処女崇拝を浸透させる事により、性交が男にとって簡単には手に入らないように細工された。そして、性交の為に休む間なく働かせる事に成功したらしい。そして、性交は男女にとって平等なものではなくなった(なんらかの対価を要するものへ)。
日本は、江戸時代までは割と性に対して奔放であったようだが、明治に入り西洋の文化が入ってくると同時にこの性観も輸入され、性が厳しくタブー視されるようになったようだ。しかし、性革命により、この価値観は崩れ去った(まだ残っている部分もあるが)。
かくして、性欲といったものも文化的に生み出されたものなのであり、本能ではない。従って、性交というのも単なる趣味なのである、と岸田さんは言う。本能であるという強迫観念から解放されることにより、人々はより自由に生きられるのではないか、という彼の提唱には共感できる部分もある。
考え方はさて置いても、歴史的な部分は勉強になったし、読んでいて興味深かった。精神分析論もかなり面白そうなので、いずれフロイトやユングの著書も読んでみたい。