今日は、ホメオパシーのお話をちょっとします。
とはいっても、レメディのお話じゃなくって。
ホメオパシーの創始者 ハーネマンのお話です。

カント(Immanuel Kant)は1724年生まれの哲学者です。
彼は、啓蒙とは何かという問いに対する答えの中にSapere Audeという答えを書き残しています。
この言葉は、のちにハーネマンが書いた医術のOrganonでも使われました。
1755年生まれのハーネマンにとって、カントは親世代くらいでしょう。
このカントとハーネマンには、共通点があります。
それは、愛読書です。2人ともジャン=ジャック・ルソーの著書「エミール」のファンでした。

カントはとても規則正しく暮らしていて、
早朝に起床、講義等大学で働き、
決まった道を決まった時間に決まった速さで散歩していました。
あまりに正確なので、散歩の通り道にある家では、カントの姿を見て時計の狂いを直したという逸話があるほどです。
ところが、ある日、いつもの時間にカント先生が散歩に出てこないという大事件が起こりました。
人々はなにかあったのかと騒ぎになった実はその日、
カントはジャン=ジャック・ルソーの「エミール」を読みふけってしまい、
いつもの散歩を忘れてしまったという話が残っています。

ジャン=ジャック・ルソーの「エミール」のうち、
お気に入りの文言をいくつかご紹介させていただきます。
とても素晴らしい人類の宝ですので、一度是非読み通してみて下さい。

ジャン=ジャック・ルソー
「エミール」
自然を観察するが良い。そして自然が示してくれる道を行くが良い。
自然は絶えず子どもに試練を与える。
あらゆる試練によって子どもの体質を鍛える。
苦痛とはどういうものかを早くから子どもに教える。
歯が生えるときは熱を出す。激しい腹痛がけいれんを起こさせる。
試練が終わると、子どもには力がついてくる。そして、自分の生命をもちいることができると、生命の根はさらにしっかりしてくる。
これが自然の規則だ。
なぜそれに逆らおうとするのか。
あなたがたは自然を矯正するつもりで、自然の仕事をぶちこわしているのがわからないのか。
自然の配慮の結果を妨げていることがわからないのか。
こまごまと世話をしてやって育てた子どもの方が、そうでない子どもより死ぬ率がずっと大きい。
子どもの力の限度を超えさえしなければ、力を使わせた方が使わせないより危険が少ない。
強い力をくわえなければ、すでに与えられている壁を越えることは出来ない。
いくらか危険が伴うとしても、ためらってはなるまい。
それに、人生について回る危険なのだから、一番危険の少ない間に、それを経験させる方がいいのではないか。

人間の弱さはどこからくるのか。
その力と欲望との間に見られる不平等から生じるのだ。
それを満足させるには自然が私たちに与えている以上の力が必要となるからだ。
だから欲望を減らせばいい。望むよりも多くのことが出来るものは余分な力を持つ。
これが子供時代の状態であり、この時期は青年期に近づいているのだが思春期には近づいていない。
この時期は、彼の生涯においてもっとも貴重な時間、ただ一度しか訪れない時期だ。
子どもには、たとえ青年期に近づいても、純粋に理論的な知識はふさわしいものではない。
子どものあらゆる経験が演繹によって互いに結びつけられ、その連鎖の助けを借りて頭の中に整理され、必要に応じて思い出せるようにしておくといい。
私は石を一つとりあげる。私は手を開く、石は落ちる。なぜその石は落ちたのですか?石は重いから落ちる、というだろう。
では、重いとは何か?これが理論物理学の最初の授業だ。

私たちの知恵と称するものは、全て偏屈な偏見にすぎない。
私たちの習慣というものは全て屈従と拘束にすぎない。
社会人は奴隷状態のうちに生まれ、生き、死んでいく。

人は子どもの身を守ることばかり考えているが、それでは十分ではない。
大人になったとき、自分の身を守ることを、運命の打撃に耐え、富も貧困も意に介せず、
必要とあらばアイスランドの氷の中でも、マルタ島の焼け付く岩の上でも生活する事を学ばせなければならない。
あなたがたは、子どもが死ぬことにならないようにと用心するが、それは無駄だ。
そんなことをしても、子どもはいずれ死ぬことになる。
そして、例えそれがあなた方の用心の結果ではないとしても、そういう用心をするのはまずいやり方だ。
死を防ぐよりも、生きさせることが必要なのだ。
生きること、それは呼吸をすることではない。活動することだ。
もっとも長生きした人とは、もっとも多くの歳月を生きた人ではなく、もっともよく人生を体験した人だ。
