美しく作ろうとするより、美しさと醜さとが未だないところにあればよい。
そのときより深くは美しく作れぬ。
本来美醜もない性が備わっているのであるから、
美しくなろうと焦るより、本来の性に居れば、なにものも醜さに落ちはしないはずなのである。
醜さは貧しい自己に便るときに起こる。捨てよ、と仏者が教えるのはそれ故である。
信心深い時代には、人間はもっと素直であり、謙虚であった。容易に自己を忘れた。
これがどんなに彼らを幸せにしたかわからぬ。
今は疑り深い時代である。
それ故、才ある者もない者も、自らで判こうとする。
すべての人間は現世にいる限りは誤謬だらけなのである。
完全であることは出来ないし、また矛盾から逃れることも出来ない。元来は無謬なのである。
ここで無謬というのやは、完全であるという意味でなく、
不完全なままに謬りのない世界に受け取られるということを言う。だから、誤謬のままで無謬になる。
醜さとは、即ち本然の様から離れた姿を指すのである。
宗教ではこれを罪という。