「夢惑(ゆめわく)Part1」~Drama in Dream~
先日、とある夢を見た。
人が捕えられる、拉致される夢。
刑事ものの見すぎとかではないのですが
大方忘れていたので、その断片だけを拾い
その話を脚色してみました。
勧善懲悪的な寓話のような感じで書きました。
第一篇は「Mokera」編です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「Mokera」(もけら)
とある王国で、とある城の女中がひとり姿を消した。
「もけら」に拉致されたのだ。
「もけら」とは隣国に棲む怪物で、
自らの奴隷として無作為に人を捕えるのだ。
とある王国の王子は唸った。
隣国だけではなく、本国にも被害が及ぶとはけしからん!(-""-;)
賢い王子は頭をひねる。
策略を練るのにそう時間はかからなかった。
有機物を石にする液体を持ち、
ひとりの女中を連れて
「もけら」の棲む隣国へ向かった。
「もけら」が留守にするのを見届けて
その住処である小屋の様子をうかがうことにした。
中には、捕えられた幾人かの女中たちが働かされていた。
足や腕にはおもりがつけられ、
そう簡単には動作ができないのに、
家事や労働を強いられている。
とある王国の女中も、手や足にあざを作りながら働いていた。
どの女中も無言のまま。辛いのだろう。
ドアの隙間からその様子を垣間見た王子は、
すぐさま押し入り、すべての女中に
手持ちの「液体」をかけて石にしてしまった。
そして、その中の、とある王国の女中の石を持ち帰った。
他の女中の石も小屋から遠く離れた場所に移しておいた。
かくして、無事に女中を助け出した王子。
帰宅したもけらはどんな顔をしただろうか。
さぞかし悔しかっただろうが、それは悪の戒めだ。
本当ならば悪者の息の根を止めなければ、
このような「いたちごっこ」の戦いはいつまで経っても終わらないのだ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
さて、今後はどうなるのでしょう?
「とある王子」のシリーズは
一遍ずつ読み切りで次回に続きます。
よろしかったら、お楽しみに☆
人が捕えられる、拉致される夢。
刑事ものの見すぎとかではないのですが

大方忘れていたので、その断片だけを拾い
その話を脚色してみました。
勧善懲悪的な寓話のような感じで書きました。
第一篇は「Mokera」編です。
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「Mokera」(もけら)
とある王国で、とある城の女中がひとり姿を消した。
「もけら」に拉致されたのだ。
「もけら」とは隣国に棲む怪物で、
自らの奴隷として無作為に人を捕えるのだ。
とある王国の王子は唸った。
隣国だけではなく、本国にも被害が及ぶとはけしからん!(-""-;)
賢い王子は頭をひねる。
策略を練るのにそう時間はかからなかった。
有機物を石にする液体を持ち、
ひとりの女中を連れて
「もけら」の棲む隣国へ向かった。
「もけら」が留守にするのを見届けて
その住処である小屋の様子をうかがうことにした。
中には、捕えられた幾人かの女中たちが働かされていた。
足や腕にはおもりがつけられ、
そう簡単には動作ができないのに、
家事や労働を強いられている。
とある王国の女中も、手や足にあざを作りながら働いていた。
どの女中も無言のまま。辛いのだろう。
ドアの隙間からその様子を垣間見た王子は、
すぐさま押し入り、すべての女中に
手持ちの「液体」をかけて石にしてしまった。
そして、その中の、とある王国の女中の石を持ち帰った。
他の女中の石も小屋から遠く離れた場所に移しておいた。
かくして、無事に女中を助け出した王子。
帰宅したもけらはどんな顔をしただろうか。
さぞかし悔しかっただろうが、それは悪の戒めだ。
本当ならば悪者の息の根を止めなければ、
このような「いたちごっこ」の戦いはいつまで経っても終わらないのだ

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
さて、今後はどうなるのでしょう?

「とある王子」のシリーズは
一遍ずつ読み切りで次回に続きます。
よろしかったら、お楽しみに☆
☆~映画鑑賞~「イラン式料理本」☆
かなり久々に映画鑑賞しました。
映画館なんて何年ぶりだろう…。
チケット高いから贅沢だけど
気分転換になりました。
見たのはコチラ↓
「イラン式料理本」
イランという国自体に興味あるし、
イラン映画は何度か見ているのでなおさらです。
モハマド・シルワーニ監督の作品は今回お初。
この映画は、完全なドキュメンタリー。
監督の親族や家族の女性がキッチンで料理する場面を
シーンを替えて撮ったもの。
手の込んだ特撮や作り込み、加工は一切無し。
だからこそ、人間臭さ、生活感、
そして、夫婦や家族の絡む人間模様があからさまに浮かび上がる。
それを人間味豊かなヒューマンドラマと捉えるか、
素人でも撮れそうなロードムービーと捉えるか。
ビミョーなところだが、イスラム教国家のイランでは、
昔から根強く続く女性蔑視という風潮は抗えない事実。
そんな社会の情勢下で「女性の料理する姿」を
映画化することは、この国では画期的である反面、
問題提議にもなるようなキケンなことだったよう。
本国では上映禁止になったので、かなりサバイバルな挑戦…。
映画上映や制作に厳しい規制が設けられているイランで、
それでも映画製作に果敢に取り組もうとする情熱と勇気と努力は大したもの。
そこまでして…という作り手のこだわりを感じる。
ジョークを交えて饒舌に喋りながら手を動かすベテラン主婦。
やんちゃな子供に手を焼きながら、長時間、料理と格闘する新米主婦。
大人数の料理を手分けして手際よく作る女性たち。
「賄い業」からを引退して、記憶があいまいながらも
料理の思い出を語る御年100歳のお婆ちゃん。
登場人物が親族や家族、友人と近しい人に限られているのも
コストを抑える為というのもあるのかも・・・だけど、
撮影許可を取るのが厳しいのかもしれない。
イスラム教下の「イラン」では、女性は結婚するのは当たり前。
独身という生き方の選択肢はほとんどない。
そして、嫁いだ女性が夫や家族だけでなく、親族の食事や
お客のおもてなしまで、大人数の料理やごちそうを作るのは当たり前。
昔の日本みたいに、若くして結婚する人が多いため、
夫の家庭で長年キッチンに立ち、姑から料理の手ほどきを教わると
いうのが常となっている。
大人数だから、当然時間がかかる。
しかも、昔の主婦は機械に頼らず、
「神様から与えられた手を存分に使って料理をするべき」と
思っているので、切る、混ぜる、こねる…がすべてが手作業。
昼食の準備に5時間などと、とんでもなく時間がかかる。
もちろん時代の流れで、若い主婦は機械に頼る人が増えているし、
家事に時間をかけることを嫌がったりするそう。
そうだろうな~。。
だって、映像を見ていて、うんざりするもの。
キロ単位での大量の材料が必要だし、
しかも缶詰を使うことを良しとしないので
新鮮な材料を求めなければならないし、
人数が増えればそれだけ料理への要求も多かったり、
味への評価もうるさくて、それに応えるのもタイヘンだし、
さらに姑の嫁いびりや夫の無理解などが重なれば
「ふざけんな!」的な気持ちになるでしょうね。
それでも耐えて、料理を作り続ける女性はエライ!
「キッチンから引退なんてありえない。
女は夫や家族のために死ぬまで料理を作るのよ」
と、義務を背負うことを痛感しながら
「たまには作る側から給仕してもらう側に回りたい」
と、本音を語る女性たち。
男たちは上げ膳、据え膳の料理を食べるだけ食べて
片付けや皿洗いなど「家事を手伝う」ことは一切しない。
ここでは、家事は完全に女性の仕事なのだ。
しかも、こんなに家事が手間暇かかって大変なのに、
男たちは「自分の仕事の方が大変だ」と平然と言い放つ。
しかも、「料理は才能だから、裁量次第で1時間でできるはず」だと。
煮込みだけでも数時間かかるのに、1時間でできるなんてありえないっっ。
未だに「男子、厨房に入らず」な社会だから、台所の事情もわかるはずないけどね。
勘違いも甚だしくて、戦う気にもなれない。
すべての女性を敵に回し、反感と憤慨を誘う発言だな。
でも女性もだまっちゃいない。
昔、自分をいじめた姑を、強気で責めまくる。今となっては立場逆転。
トツゼン、深夜に連れてきた客のもてなしをさせる夫を非難するなど
言いたいことはきちんと言う。理不尽に耐えて我慢しない。
最後には、文句を言っていた女性が離婚したという「オチ」がつく。
女性が強くなったなと思う場面だが、
男尊女卑の考えが根強く残る社会では、このような女性の物言いは
爆弾発言とされるのかもしれない。
封建社会のイメージが残るイランで、
女性をクローズアップすること自体、よろしくないのかもしれない。
本国での(刺激が強すぎて?)上映禁止処分は残念だし、
監督としても無念でしょうけど、
イランの美味しい料理とイラン女性の生き方を垣間見られる数少ない映画が、
日本をはじめ外国において上映されることはとても貴重なことだと思う。
映画の中にも出てきた伝統料理のドルマやクフテ。
サイトで紹介されているヨーグルトのポテトサラダ、
チキンのヨーグルト焼きなどなど、
「イラン式料理」のレシピもいつか作ってみたいな~
と思わせてくれる、美味しくも考えさせられる作品でしたo(^-^)o
映画館なんて何年ぶりだろう…。
チケット高いから贅沢だけど
気分転換になりました。
見たのはコチラ↓
「イラン式料理本」イランという国自体に興味あるし、
イラン映画は何度か見ているのでなおさらです。
モハマド・シルワーニ監督の作品は今回お初。
この映画は、完全なドキュメンタリー。
監督の親族や家族の女性がキッチンで料理する場面を
シーンを替えて撮ったもの。
手の込んだ特撮や作り込み、加工は一切無し。
だからこそ、人間臭さ、生活感、
そして、夫婦や家族の絡む人間模様があからさまに浮かび上がる。
それを人間味豊かなヒューマンドラマと捉えるか、
素人でも撮れそうなロードムービーと捉えるか。
ビミョーなところだが、イスラム教国家のイランでは、
昔から根強く続く女性蔑視という風潮は抗えない事実。
そんな社会の情勢下で「女性の料理する姿」を
映画化することは、この国では画期的である反面、
問題提議にもなるようなキケンなことだったよう。
本国では上映禁止になったので、かなりサバイバルな挑戦…。
映画上映や制作に厳しい規制が設けられているイランで、
それでも映画製作に果敢に取り組もうとする情熱と勇気と努力は大したもの。
そこまでして…という作り手のこだわりを感じる。
ジョークを交えて饒舌に喋りながら手を動かすベテラン主婦。
やんちゃな子供に手を焼きながら、長時間、料理と格闘する新米主婦。
大人数の料理を手分けして手際よく作る女性たち。
「賄い業」からを引退して、記憶があいまいながらも
料理の思い出を語る御年100歳のお婆ちゃん。
登場人物が親族や家族、友人と近しい人に限られているのも
コストを抑える為というのもあるのかも・・・だけど、
撮影許可を取るのが厳しいのかもしれない。
イスラム教下の「イラン」では、女性は結婚するのは当たり前。
独身という生き方の選択肢はほとんどない。
そして、嫁いだ女性が夫や家族だけでなく、親族の食事や
お客のおもてなしまで、大人数の料理やごちそうを作るのは当たり前。
昔の日本みたいに、若くして結婚する人が多いため、
夫の家庭で長年キッチンに立ち、姑から料理の手ほどきを教わると
いうのが常となっている。
大人数だから、当然時間がかかる。
しかも、昔の主婦は機械に頼らず、
「神様から与えられた手を存分に使って料理をするべき」と
思っているので、切る、混ぜる、こねる…がすべてが手作業。
昼食の準備に5時間などと、とんでもなく時間がかかる。
もちろん時代の流れで、若い主婦は機械に頼る人が増えているし、
家事に時間をかけることを嫌がったりするそう。
そうだろうな~。。
だって、映像を見ていて、うんざりするもの。
キロ単位での大量の材料が必要だし、
しかも缶詰を使うことを良しとしないので
新鮮な材料を求めなければならないし、
人数が増えればそれだけ料理への要求も多かったり、
味への評価もうるさくて、それに応えるのもタイヘンだし、
さらに姑の嫁いびりや夫の無理解などが重なれば
「ふざけんな!」的な気持ちになるでしょうね。
それでも耐えて、料理を作り続ける女性はエライ!
「キッチンから引退なんてありえない。
女は夫や家族のために死ぬまで料理を作るのよ」
と、義務を背負うことを痛感しながら
「たまには作る側から給仕してもらう側に回りたい」
と、本音を語る女性たち。
男たちは上げ膳、据え膳の料理を食べるだけ食べて
片付けや皿洗いなど「家事を手伝う」ことは一切しない。
ここでは、家事は完全に女性の仕事なのだ。
しかも、こんなに家事が手間暇かかって大変なのに、
男たちは「自分の仕事の方が大変だ」と平然と言い放つ。
しかも、「料理は才能だから、裁量次第で1時間でできるはず」だと。
煮込みだけでも数時間かかるのに、1時間でできるなんてありえないっっ。
未だに「男子、厨房に入らず」な社会だから、台所の事情もわかるはずないけどね。
勘違いも甚だしくて、戦う気にもなれない。
すべての女性を敵に回し、反感と憤慨を誘う発言だな。
でも女性もだまっちゃいない。
昔、自分をいじめた姑を、強気で責めまくる。今となっては立場逆転。
トツゼン、深夜に連れてきた客のもてなしをさせる夫を非難するなど
言いたいことはきちんと言う。理不尽に耐えて我慢しない。
最後には、文句を言っていた女性が離婚したという「オチ」がつく。
女性が強くなったなと思う場面だが、
男尊女卑の考えが根強く残る社会では、このような女性の物言いは
爆弾発言とされるのかもしれない。
封建社会のイメージが残るイランで、
女性をクローズアップすること自体、よろしくないのかもしれない。
本国での(刺激が強すぎて?)上映禁止処分は残念だし、
監督としても無念でしょうけど、
イランの美味しい料理とイラン女性の生き方を垣間見られる数少ない映画が、
日本をはじめ外国において上映されることはとても貴重なことだと思う。
映画の中にも出てきた伝統料理のドルマやクフテ。
サイトで紹介されているヨーグルトのポテトサラダ、
チキンのヨーグルト焼きなどなど、
「イラン式料理」のレシピもいつか作ってみたいな~
と思わせてくれる、美味しくも考えさせられる作品でしたo(^-^)o
☆~秋のアート日和~「ダンス鑑賞@横浜」☆
事後報告になりますが、
ちょっと前の出来事を振り返って書きます。
備忘録として書いておかないと、
記憶は風化してやがて消失してしまうから。
9月~10月上旬まで開催されていた
こちらのイベントに行ってきました↓
「大野一雄フェスティバル 2012/BankArt1929」
その中の、大野一雄氏の息子で舞踏家の大野慶人さんと
Lucie Gregoireとの公演を見てきました。
大野一雄氏は偉大な舞踏家だっだけれど、
慶人さんもその血を引くだけあって素晴らしい舞踏家
2年ほど前に公演は拝見していたけれど、
それ以来、見ていなかったので楽しみ。
何と言っても、この人を踊りを見て
私が舞踏を始めるキッカケになったのですから。
この2人の公演の前に、前座のパフォーマンスがあったのですが、
それもまた絵になるシーンが多く、圧倒された。
老若男女が一斉にステージに出て、
バラの花を片手に持ち、ゆっくりとした動きで
静止画の様に移動する。
個々の動きはバラバラなのに、一体感がある。
それぞれ顔の向きやポーズは違うのに、なぜだろう?
おそらくそれは意識。Consious(コンシャス)。
何かを表現しようとする思いが皆同じなのだ。
皆同じ方向に向かっているのだ。
言葉がなくてもそれを感じ取れる。
とりわけ感心したのは、呼吸が合っていること。
20人以上の人の呼吸を合わせるのって大変なのに、
相当練習したのかなと思わせる。
これだけの群像で迫られると熱い…。
心を揺り動かされた。正直、感動した。
さすが、大野一雄氏の研究生。
そして本公演。
前は外国人女性ダンサーとの共演でしたが、
今回もやはりそう。同じダンサーではないですが。
キレよく、セクシーに、大胆に踊る女性ダンサーと
難しい技巧を出すわけでもないが
集中力と気迫、存在感の大きさ、無駄のない慶人さんの動きに魅了された。
とはいっても、二人が絡む部分はプロローグとエピローグだけ。
あとは、それぞれのソロを順番に演じていく。
このオムニバスのような構成が何とも奇妙で面白かった。
ルーシーはソロのたびにイメージ作りに
ドレスを着替えるので、大変…とは思いつつ
目を楽しませてもらいました。
赤、黒、白、グリーンと色も多彩。
選曲が映画のナレーションみたいなトーク系だったり、
いきなりロック系の歌ものだったり
ええ~っと思わせるものもあったけど、
それなりに解釈をして踊られていた。
特筆すべきは、無音で踊った時。
杖のような木の棒を持って出てきて、
餅つきのように地面をつつき、跳躍をしたかと思うと、
コロコロと転がしてみたり、
引きずって歩いてみたり、
棒を倒して、床に寝転がってみたり、
カンカンと床を叩き鳴らす音だけが
静けさの中に反響して、
緊迫した空気を醸し出していた。
それがすごく面白かった。
無音だけに、かすかな音でもパフォーマンスに成りうる。
次はどんな音と動きが出るのか。
その意外性はまさに即興の醍醐味だと思いました。
そして慶人さん。
2年前に拝見した時とは
また違う演技と役者ぶりを見せてくれました。
いつものごとく、ゆったりとした白の衣装。
曲によって少しずつ、
アクセントを入れたり、小物を替えたりして
変化をつけていました。
今の季節をイメージしてか、
嵐のような効果音ではじまる。
その後、壮大なスケールの曲で踊られた。
それが素晴らしかった。
高揚感のあるアンビエント系のインストで、選曲の良さが光る。
その音に呼応するかのように
慶人さんの力強い動作があまりにピタリと決まっていて
胸に熱いものがこみ上げてきました。
もうこれは感動以外の何物ではない。
こんな舞踏、私には絶対にできない。
プロの格を見せつけられたようでした。
そして盛り上がったのもつかの間、
次は、かわいらしいフリルの付いた帽子を被り女役で登場。
大野一雄氏が生前にされていた女性の恰好だと思うけど、
この人も女性のしなやかなしぐさが上手い。
やっぱり親子だ。
舞踏というよりパントマイムの役者のようだ。
これだけ役になりきれるって大したもの。
どこか中だるみや迷いが出てしまったりしないのだろうか。
終始一貫、集中してできるものだろうか。
女性らしい揺れる感情やはかなげな表情など、
その繊細な表現は、もしかしたら女性以上かもしれない。
そしてさらに驚きだったのは、
何と!うさ耳(ウサギの耳のカチューシャ)をつけて舞い出たこと!
私でさえつけるの恥ずかしいのに!
バニーガールみたいだし・・・。
でもそれで、かわいらしいウサギになりきって
見事に踊られました。
首をかしげる動作など、もう動物の域。
悲しげにむせび泣く姿は健気なウサギそのもの。
いろいろな人格?を演じ分けられる。
何が来ても躊躇なく対応できる。
その懐の深さにはスゴイとしか言いようがない。
それは個性、強み。独自の世界観だなと思う。
最後は、貴婦人が持つようなレースのついた傘で、ふたり相合傘
そして大野一雄氏そっくりの指人形で踊るパフォーマンス。
こういう平和で愛のあるピリオドって、慶人さんらしい。
シリアスでハードでつかみどころのないという
固定観念的な舞踏のイメージがないところがイイ
またひとつ、舞踏の素晴らしさを発見したような気がします。
ホントに多種多様で、一つとして同じ表現はない。
舞踏家が言わんとする充実した時間がそこにある。
久しぶりの感動!「ゲージツの秋」を味わいました
長文のご精読、ありがとうございました(‐^▽^‐)
ちょっと前の出来事を振り返って書きます。
備忘録として書いておかないと、
記憶は風化してやがて消失してしまうから。
9月~10月上旬まで開催されていた
こちらのイベントに行ってきました↓
「大野一雄フェスティバル 2012/BankArt1929」
その中の、大野一雄氏の息子で舞踏家の大野慶人さんと
Lucie Gregoireとの公演を見てきました。
大野一雄氏は偉大な舞踏家だっだけれど、
慶人さんもその血を引くだけあって素晴らしい舞踏家

2年ほど前に公演は拝見していたけれど、
それ以来、見ていなかったので楽しみ。
何と言っても、この人を踊りを見て
私が舞踏を始めるキッカケになったのですから。
この2人の公演の前に、前座のパフォーマンスがあったのですが、
それもまた絵になるシーンが多く、圧倒された。
老若男女が一斉にステージに出て、
バラの花を片手に持ち、ゆっくりとした動きで
静止画の様に移動する。
個々の動きはバラバラなのに、一体感がある。
それぞれ顔の向きやポーズは違うのに、なぜだろう?
おそらくそれは意識。Consious(コンシャス)。
何かを表現しようとする思いが皆同じなのだ。
皆同じ方向に向かっているのだ。
言葉がなくてもそれを感じ取れる。
とりわけ感心したのは、呼吸が合っていること。
20人以上の人の呼吸を合わせるのって大変なのに、
相当練習したのかなと思わせる。
これだけの群像で迫られると熱い…。
心を揺り動かされた。正直、感動した。
さすが、大野一雄氏の研究生。
そして本公演。
前は外国人女性ダンサーとの共演でしたが、
今回もやはりそう。同じダンサーではないですが。
キレよく、セクシーに、大胆に踊る女性ダンサーと
難しい技巧を出すわけでもないが
集中力と気迫、存在感の大きさ、無駄のない慶人さんの動きに魅了された。
とはいっても、二人が絡む部分はプロローグとエピローグだけ。
あとは、それぞれのソロを順番に演じていく。
このオムニバスのような構成が何とも奇妙で面白かった。
ルーシーはソロのたびにイメージ作りに
ドレスを着替えるので、大変…とは思いつつ
目を楽しませてもらいました。
赤、黒、白、グリーンと色も多彩。
選曲が映画のナレーションみたいなトーク系だったり、
いきなりロック系の歌ものだったり
ええ~っと思わせるものもあったけど、
それなりに解釈をして踊られていた。
特筆すべきは、無音で踊った時。
杖のような木の棒を持って出てきて、
餅つきのように地面をつつき、跳躍をしたかと思うと、
コロコロと転がしてみたり、
引きずって歩いてみたり、
棒を倒して、床に寝転がってみたり、
カンカンと床を叩き鳴らす音だけが
静けさの中に反響して、
緊迫した空気を醸し出していた。
それがすごく面白かった。
無音だけに、かすかな音でもパフォーマンスに成りうる。
次はどんな音と動きが出るのか。
その意外性はまさに即興の醍醐味だと思いました。
そして慶人さん。
2年前に拝見した時とは
また違う演技と役者ぶりを見せてくれました。
いつものごとく、ゆったりとした白の衣装。
曲によって少しずつ、
アクセントを入れたり、小物を替えたりして
変化をつけていました。
今の季節をイメージしてか、
嵐のような効果音ではじまる。
その後、壮大なスケールの曲で踊られた。
それが素晴らしかった。
高揚感のあるアンビエント系のインストで、選曲の良さが光る。
その音に呼応するかのように
慶人さんの力強い動作があまりにピタリと決まっていて
胸に熱いものがこみ上げてきました。
もうこれは感動以外の何物ではない。
こんな舞踏、私には絶対にできない。
プロの格を見せつけられたようでした。
そして盛り上がったのもつかの間、
次は、かわいらしいフリルの付いた帽子を被り女役で登場。
大野一雄氏が生前にされていた女性の恰好だと思うけど、
この人も女性のしなやかなしぐさが上手い。
やっぱり親子だ。
舞踏というよりパントマイムの役者のようだ。
これだけ役になりきれるって大したもの。
どこか中だるみや迷いが出てしまったりしないのだろうか。
終始一貫、集中してできるものだろうか。
女性らしい揺れる感情やはかなげな表情など、
その繊細な表現は、もしかしたら女性以上かもしれない。
そしてさらに驚きだったのは、
何と!うさ耳(ウサギの耳のカチューシャ)をつけて舞い出たこと!
私でさえつけるの恥ずかしいのに!
バニーガールみたいだし・・・。
でもそれで、かわいらしいウサギになりきって
見事に踊られました。
首をかしげる動作など、もう動物の域。
悲しげにむせび泣く姿は健気なウサギそのもの。
いろいろな人格?を演じ分けられる。
何が来ても躊躇なく対応できる。
その懐の深さにはスゴイとしか言いようがない。
それは個性、強み。独自の世界観だなと思う。
最後は、貴婦人が持つようなレースのついた傘で、ふたり相合傘

そして大野一雄氏そっくりの指人形で踊るパフォーマンス。
こういう平和で愛のあるピリオドって、慶人さんらしい。
シリアスでハードでつかみどころのないという
固定観念的な舞踏のイメージがないところがイイ

またひとつ、舞踏の素晴らしさを発見したような気がします。
ホントに多種多様で、一つとして同じ表現はない。
舞踏家が言わんとする充実した時間がそこにある。
久しぶりの感動!「ゲージツの秋」を味わいました

長文のご精読、ありがとうございました(‐^▽^‐)