米子から川口に帰る途中、今回は時間があったので、前々から気になっていた愛知県の桶狭間古戦場と長篠古戦場の見学をしようと思った。
まずは名古屋市の南東に位置する豊明市内にある桶狭間古戦場。
国道1号線には桶狭間の戦いの場所と書いた掲示は出ている。
それに従って、その付近に行っては見たが、何か具体的な場所が見つからない。
ただ桶狭間古戦場の名前を冠する公園はあった。
しかしここは郊外の住宅地のど真ん中。
戦場としてはかなりしょぼい。
記念館らしきものも見当たらない。
つまり名前は教科書に載るほどすごいが、戦場の規模としてはたいしたことがない。
この付近を車で通ってみるとここはかなり低い丘陵地で道路には上り下りがある全くの住宅地帯だ。
戦国当時は丘と低地のある森と草っぱらだったのだろう。
織田軍1000名が休息中の今川義元軍を急襲し、大将の首をとることに成功したのが、この戦いの実態である。
数多くの戦いの歴史から見れば、桶狭間の戦いは本格的なものではなく、現代の戦争論から見れば、1個大隊(約1000人以下)の軍団による急襲作戦、威力偵察、あるいは遭遇戦に成功したという程度であろう。
今川軍はこの時尾張東部地域においてかなり広範囲に展開しており、ただ大将の防御が薄くなっていたのが失敗の原因だろう。
本能寺の変とかなり似ている。
ただ織田信長の今後の伸展のデビュー戦であったといので今後に名を残した。
ということでここはさほどでもないので、次の長篠へと急いだ。
大河ドラマ『どうする家康は』このところは武田氏との確執がドラマのメインとなっている。
その中であった長篠の戦、そして妻である築山殿、長男の信康の粛清が直近のテーマで、築山殿の処刑でもって、ドラマ前半のクライマックスを終えた。
家康の受難の時代である。
というかこの人の前半生はいつも受難である。
だからどうする家康だと思う。
ところで長篠の地は愛知県の東部、静岡県と接する新城市にある。
ここは第二東名高速に長篠設楽原サービスエリアがあり、ここにはよく立ち寄る。
しかし下に降りたことはない。
サービスエリア内には戦場公園のようなものもある。
新城市内を横切りまずは長篠城址へと向かった。
本流の豊川(左)と宇連川(うれがわ)が合流する丘の上にあるのが長篠城である。
なお大河ドラマではここは崖になっており樹木はそんなになかった。
この感じは山奥の渓流のようだが、実際には新城市内から少し行ったところである。
ここは徳川方についた地域の土豪、国人である奥平氏の居城である。
家康、築山殿の娘が政略のため嫁、ないしは人質に行ったところである。
周囲には堀の跡が残っている。
南側の二方向は水を満々とたたえた川があるため、防御には非常に適した場所である。
天然の要害といってもよい。
城跡はもちろんこの上部にある。
当時は当然城内の建物が立っていただろうが、今は平地の草原となっている。
駐車場もここにある。
この敷地内に資料館があった。
だがここは何故か中には入らなかった。
それはここよりもっと興味を引くものが見つかったからだ。
それは鳥居強右衛門(とりいすねえもん)についての記念碑。
これは大河ドラマでは岡崎体育が演じた奥平家の家臣である。
この城址ではこの人物がことさら強調してあったので、この鳥居強右衛門の即席についてみて回ることにした。