この長篠城址で目立ったのが、鳥居強右衛門(すねえもん)についての足跡であった。
1575年武田氏の攻撃により徳川方についた奥平氏の居城である長篠城は包囲され、もはや風船の灯であった。
その時、緊急の援軍の要請のため鳥居強右衛門という身体能力の高いものが、岡崎の徳川家康のもとに走るように命令された。
鳥居強右衛門はまずは城の崖から夜間に豊川に飛び込みしばらくは流れに任せて下流にたどり着いた。
この風景を見ればこの川での水中遊泳はそう難しいものではない。
おまけに当時は警戒のためのサーチライトなどない。
真っ暗であるから、地形を熟知している地元のものなら、簡単に抜けることができるだろう。
次の日に岡崎にたどり着き、徳川家康や織田信長に面会してその窮状を伝えた。
信長も鳥居強右衛門の勇気に感銘したそうだ。
この人が感銘するなどあまりない。
感情では動かされない人物だ。ただし激怒はすぐに動く。
援軍は来るという返事をもって、長篠に帰ったが、寸前で武田方につかまってしまった。
鳥居強右衛門は援軍は来ないといえば助けてやるという武田勝頼の言葉をいったんは受け入れたかのように見せながら、実際には織田様が大軍を率いてくるから、あと2,3日がんばれと述べた。
勝頼は激怒して、直ちにその場で磔の刑に処した。
これが川の段丘の上にある実際に処刑が行われた場所。
川の対岸には長篠城が見える。
ここで鳥居強右衛門は大声で叫んだ。
今は木が生えてうっそうとした森となっているが、当時は対岸がよく見えたようだ。
しかしこの出来事は当然のこととしてどこまでが本当かどうかはわからない。
だが長篠合戦を語る上での鳥居強右衛門のストーリーには無理はない。
要するに伝令兵が最後の最後でつかまったということだ。
戦国武士なら磔台で述べた最後の言葉もありうる。
勝頼もここはうかつだった。
人質が目の前で処刑されるのは戦国時代にはよくあるが、中でも明智光秀の母のようなケースはストーリーに無理があり作り話だとも言われている。
長篠城址にはむしろ鳥居強右衛門についての遺跡が多く、自分もむしろこちらの方に興味がわいた。
丁度大河ドラマでもこの件について一回分を費やしてやっていた。
近くの寺には後世に作られた墓があった。
地元民が作った墓のようだが、鳥居強右衛門は地元が出した英雄として人々の自慢の種となっただろう。




