米子市、倉吉市をはじめ鳥取県西部地方(伯耆国)のラーメンといえば牛骨ラーメン。
これは東京やマスコミでは鳥取牛骨ラーメンといわれている。
この言葉が知られ始めたのが今から10年位前からである。
牛骨ラーメンはその前からあった。
私自身も子供のころより近くの店でラーメンを食べていた。
しかし東京に来ていろいろな面で少し違うなとは思っていた。
鳥取県西部民は自分たちの食べているラーメンがこの地方だけのものだということに気が付かなかったというのが最大の味噌だ。
今まで何度かの地方ラーメンブームがあり、そのたびにご当地ラーメンがカミングアウトしてきたが、鳥取牛骨ラーメンまでは順番が回ってこなかった。
しかし次第に鳥取県西部地区住民(なお東部の鳥取市に牛骨ラーメンはほぼない)は自分たちの食べているラーメンはこの地域だけの特殊なものだと気づき始めていた。
最近全日空から出向し、米子市のアドバイザーとなった人が音頭を取り、この牛骨ラーメンを全国にアピールしようとして結成を呼び掛けたのがこの米子牛骨ラーメン同盟。
初めて業界団体を結成したのである。
この鳥取県西部地区の牛骨ラーメン発祥のもととなったのは、米子市内西福原にある満州味という店である。
米子市の郊外ともいえる皆生温泉から陸上自衛隊三柳駐屯地まで行く道のちょうど中間のあたり。
有名ディスカウントスーパーのLAMUと駐車場を共有している。
ここは満州からの帰還者が大山寺博労座(今はスキー場の駐車場)で行われた牛の取引で、解体された際に残った骨の部分を安く受け取り、それをラーメンスープの出汁として使ったことから始まる。
中国の満州や華北にもいるイスラム系の蘭州牛肉麺を参考にしたに違いない。
この満州味こそが元祖であると言われている。
これは醤油の味付けか。
子供のころのラーメンの思い出はスープの色がもっと黄色いし透明に近い。
多分それは塩味だったに違いない。
多少脂濃いところもあるが、米子の人はこの味に慣れており、現在94才の母もおいしいと言って全部食べた。
ラーメンが大衆食として広まったのは戦後になってからであり、この世代がラーメン第一世代であったのである。
父も職場への出前でラーメンをよく食べていた。
自分たちはチキンラーメンや札幌味噌ラーメンが出てきて爆発的に広まった昭和30年代の第二世代か。
米子市内や倉吉市内にはこうした牛骨ラーメン店がたくさんある。
しかし未だ知名度に自信がないせいか、店の前には牛骨ラーメンと書いたのぼりが建てられているところが多い。
国道9号線沿いの琴浦町赤崎(後醍醐天皇の旗揚げで知られる船上山のふもと)には同じく老舗の香味徳(銀座に支店あり)がある。
結論として自分にはなれた味だが、近年の脂濃く濃くや激辛、派手派手トッピング、インスタ映えラーメンに比べれば、インパクトには欠ける。
しかし普通の感じで、牛骨から出る異風なにおいやコクに抵抗感がなければ万人受けするものだと考える。