カレル橋を渡り、そのまま道なりに両脇にはレストランや土産物店が並ぶ坂道を登っていくとプラハ城に達する。
そして急な階段を上りきったところで視界が開け、プラハの街並みが展望できるところに達する。
プラハ城門前の展望広場である。
上から見下ろすとプラハの屋根の瓦の色は統一されているようだ。
屋根のこう配も急だ。
ここは王宮のすぐ下だから、こうした建物は相当古い時代からあったに違いない。
ガイドブックによれば200年前から全く変わっていないということだ。
一般にヨーロッパの家は外観はそのままにして、中だけを改装している。
雰囲気良さげである。
しばらくはここで町の景色を眺めていた。
写真中央左に見えるのは聖ミクラーシュ教会。
モーツァルトもここでオルガンを演奏したことがあるそうだ。
城門の前には衛兵がたっている。
王宮の前に衛兵がたつというのはどこでも同じだ。
しかしこの兵隊瞬きひとつせず、直立不動でたっているのはかなりの訓練を必要とするだろう。
ヨーロッパの街中では、パフォーマンスとして不動のコスプレーヤーをよく見かける。
蝋人形と見分けのつかいものも多い。
プラハ場内に入るのは無料だが、建物の中に入るのは有料となっている。
入るつもりだったが、待ちの行列が凄いので、残念ながらあきらめた。
観光シーズンだとどこでもそうだ。
逆に言えば、中を見学すには冬に限る。
30年ほど前、フィレンツェのウフィッツオ美術館でほとんど人のこない『ビーナスの誕生』をじっくりと鑑賞することができた。
聖ビート大聖堂。
これは14世紀の建築物らしい。
いかにもクラシックだ。
イタリアなどに多くありそう。
ブダペストの王宮もそうだったが、中には必ず大聖堂が建てられている。
東ローマ帝国のコンスタンチノープル大聖堂などが特に有名だ。
このプラハの王宮は17世紀にヨーロッパを揺るがした大きな出来事である三十年戦争の発端となった。
ボヘミアのヤンフスの流れをくむ新教徒たちは王宮に押し掛け、当時旧教徒であるオーストリアのハプスブルク家から派遣された支配者たちを、このプラハ城壁から投げ落とした。
これに激高したオーストリアから派遣された軍隊により、ボヘミア新教徒軍はビラー・ホラの戦い(1620年)で簡単に負けてしまった。
三十年戦争はこれから周辺諸国を巻き込んだ大戦争になるが、チェコにとってはこの一回の敗戦がその後の運命を決定する。
完全にドイツ人であるオーストリア領となり、チェコは終わってしまった。
チェコにしてもハンガリーもオーストリアでさえ今は小さいが、それは過去の戦争の敗戦がその後に大きく影響した結果である。
聖イジ―教会。
これもかなり古そうだ。
西暦920年完成のロマネスク様式というから、もはや気の遠くなるような昔の建物だ。
プラハが他の東欧各都市とは違い13世紀のモンゴルや16世紀ごろのオスマントルコのなどの非キリスト教徒の侵攻、あるいは両次世界大戦の戦禍から免れたからこうした古いものが残っている。
残念ながらこれらは外から見ただけで、中には入っていない。
それにここの場合は、中に特筆すべきものが展示されているというわけでもない。
チェコはイタリア教会のルネサンス芸術品やパリ宮殿の歴史的名画には勝てない。
再び市街地に降りる坂。
行きとは違うが、ここも雰囲気の良いところだった。
ヨーロッパの坂の町にはどこにでもある風景だ。