shellvalleyのブログ -6ページ目

shellvalleyのブログ

ブログの説明を入力します。

CIA長官
「この12年間、ビンラディンの目撃情報は、エルビス・プレスリーを目撃したという情報と
同じ程度の信頼性のものしかなかった」

元海軍特殊部隊長
「特殊部隊の兵士は、もし拘束されるなら、死んだ方がましだと考えていたことでしょう。」


2011年4月29日、オバマ大統領は、オサマ・ビンラディン捕獲にGOサインを出した。
大統領は、何事もないように当時竜巻で多大な被害を受けていた米国南部を訪問。

秘密裏に作戦が開始した。

CIAは情報をパキスタンにビンラディン氏が潜んでおり、あの邸宅にいるという情報を
昨年から掴んではいたが、ビンラディン氏本人かどうか確証がなかった。

CIA長官
「5mを超える高い壁に囲まれており、邸宅の中は伺えない状態でした。
背が高い人物が庭を歩いるようでしたが、確認できませんでした。
実は“何もやっていない”ことが問題となったのです。
映画にも行かない。買い物にも行かないのです。
また5mの壁も、建築業を営んでいたビンラディン家らしい考え方です。
しかし全てが間接証拠なので、確率は50:50でした。」

そして、バネッタCIA長官は、オバマ大統領に
「これまでにないほど高い確率」と報告する。
当初3つの選択肢が考えられた。
作戦1:空爆で邸宅を爆破する
  ビンラディン氏の遺体を回収できなくなる。証拠がなくなる。
作戦2:無人機での攻撃
  民間人の犠牲者がでる可能性がある。
作戦3:特殊部隊による攻撃
  危険性は高いが、遺体を持ち帰りDNA検査ができる。

オバマ大統領は、
「特殊部隊の突入は、何が起こるか分からず危険だ。
ドアを開けたら罠が仕掛けられていて、爆発するかもしれない。
そして最大の危惧は、隊員たちを帰還させることができるかどうか、だ」

最終的に、オバマ大統領は特殊部隊による攻撃を選択する。

そして選ばれたのが、海軍特殊部隊「SEALSチーム6」だ。
海軍の最高のエリート部隊だ。元隊員はいう。
「アメフトに例えるなら、スーパーボールに出場するような人たちの集まりだ。」

元隊員「今回の作戦で一番の問題は機密の維持だと思います。
ソマリアの急襲作戦で、私は足を3発撃たれ、もう切断するしかないと思ったほどでした。
この時は国連軍との合同作戦だったのですが、機密が漏れていました。」

この時の苦い経験を活かし、オバマ大統領は、この作戦を
現地パキスタン政府に伝えないことにする。
しかしもし失敗した時、ビンラディン氏がいない時に、
現地政府の了解を得ない軍事作戦に対して、非難を避けることは難しい。

大きな賭けだった。

しかし、オバマ大統領は、竜巻の被災地視察では、そんな顔をおくびにも出さず、
ポーカーフェースを貫く。

(続)






1992年6月。
ブラジル、リオ・デ・ジャネイロでの「環境と開発に関する国連会議(環境サミット)」に
集まった世界の指導者たちを前に、たった12歳の少女、セヴァン・­スズキは伝説のスピーチをした。

何度聞いても素晴らしい。

Thanks

ビンラディンの父親はイエメンからサウジアラビアに移住した。
貧しい労働者から、建設業界で成功した人物で、
「2m以上の高さの建物は全て、ビンラディン家が作った」
と言われるほどの権勢を誇り、まさにサクセスストーリーの人物として有名だった。
その成功物語は知らない人はいない。

ビンラディンは学生時代、成績はそれほどではなかったが賢い生徒だった。
シャイで静かな子で、必要なこと以外はほとんど話さず、もっぱら聞き役であった。
とても指導者になるような子供ではなかった、と当時の親友は語る。

欧米風の服装でサッカーが好きな少年だった。
親友「好きなテレビは、西部劇とブルース・リー。
サッカーでは長身を生かしたヘディングが得意だった。
とても平和的で、他の友達のいさかいを暴力なしに仲介していた。
宗教には熱心で1日5回の礼拝なども厳格に行っていた。」

親友「将来はイスラムを守るために戦いたいと、
サウジの広大な砂漠で自ら兵士になるための訓練を始めた。
厳しい環境の中で砂の上で眠る。寒くても毛布は使わない。
彼は神の愛のことばかり考えているようだった。」

1970年代半ばに従姉妹と最初の結婚したビンラディン氏は20人の子供をつくった。
また大学に進学。
義従兄弟は当時を振り返り「乗馬が好きでよく砂漠を旅した。
水とポケットに入るだけの食料だけしか持たない厳しい旅を。
時には子供を連れて行ったが、子供達には厳しすぎたようだ。」

「ビンラディンは、莫大な資産があるにも関わらず、安アパートに住んでいた。
カーペットも安物で、部屋の中はガランとして何もなかった。
本人は当時、指導者などにはなりたくなかったようだ」

では、何がビンラディンを変えたのか?

1970年代はイスラム教の教えを広め、イスラム世界をもっと良くしようという
「覚醒」運動の時代。
多くの若者達が「怒れるイスラム教徒」として、宗教的な運動に身を投じていった。

大人しい若者だったビンラディンも宗教運動に参加する。
特にムスリム同胞団に共感を覚え、エジプトの考え方や政治思想に影響を受けていった。
またクトゥブ著「マイルストーン」も読み、先制攻撃は正統的なものであると認識。
完全なるイスラム国家建設を目指すようになる。

ビンラディン氏に大きな影響を与えたのが、カリスマ聖職者アブドラ・アザム氏だ。
一緒にパキスタンでイスラム戦士をアフガンに入国させるための事務所を開設した。
しかしビンラディン氏は事務作業ではなく、長年の希望である戦士として働くことを希望する。

アザム氏の息子
「最初に戦場に行った時のビンラディン氏はかなり怖がっていた。
爆発音を聞くと、飛び上がって逃げ出し、周囲から笑いものにされたものだ。」

その後、ビンラディン氏は自らの部隊を組織。
1987年のジャッジの戦いでは、勇敢で命を捨てた戦士としてソ連軍を撃退し、
アラブ部隊に勝利をもたらす。
この勝利により、ビンラディン氏の今の地位を確立した。
ジハード(聖戦)の英雄となったのだ。

アフガン戦争の英雄となったビンラディン。
その人気に目をつけたエジプト人医師で活動家のザワヒリが声を掛ける。
「国境のないイスラム社会を目指そう。そのためには新しい組織が必要だ。
君が指導者となるのだ」
師であるアザムの元を離れ、ビンラディンはアルカイダを設立する。

しかしソ連との戦闘で失敗し45kmも撤退。
多数のの兵士を死なせてしまう。
多くの非難を浴びたビンラディンは、失意のうちにサウジに帰国する。

その後起こったのがサダム・フセインのクエート進攻だ。
ビンラディンはサウジ政府にある提案を行う。
「我々がイラクをクエートから追い出してやる」

しかしサウジ政府は西側諸国に助けを求め、数十万人の米兵士がイスラムの聖地に進攻。
聖なる場所が汚される。
さらに憤るビンラディンをサウジ政府は排除しようとする。

ビンラディンは祖国を捨てた

1998年5月26日ビンラディンは米国に宣戦布告を行う。
「アルカイダの計画は米国を叩く。イスラム教徒にとっての敵だ。米国民を標的とする。」
さらに
「女性を殺すことは許されない。
しかし米国が我々の女性や子供を殺しているから、その反撃は許される」と。

一般の米国人を殺害するには宗教的な理由が必要だった。
そこで当時米国に拘束されていた盲目の聖職者ラフマン師の救出を利用。
これを聖戦の理由とする。

さらもビンラディン氏はアルカイダの訓練キャンプを開設する。
また米軍のマニュアルなどを手に入れ解析。さらに新たに兵士を集め始める。
そして練りに練った作戦を実行に移す。

1998年8月、タンザニアとケニアの2つの米国大使館が
わずか9分以内にトラック爆弾のテロにあう。
200名以上が死亡。4000人以上が負傷。
世に言う米大使館同時爆破事件だ。

ビンラディン氏の戦いが始まった。

そして、2001年9月11日。ビンラディンは数年来の計画を実行にうつす。
19人のアルカイダの兵士が4機の航空機をハイジャック。3000人以上が死亡した。

「米国は恐怖に包まれている。北から南へ。東から西へ。神に感謝する」
ビンラディン氏は神の意思で動いていると考えていた。
行動を起こさなければ、彼自身が神に罰せられると思っていたのです。

しかしその後、米国はアフガニスタンに進攻により、
タリバンの拠点をアルカイダは失ってしまうこととなる。

9.11という戦術では成功したが、長期戦略ではアルカイダは失敗したのだ。
そしてタリバン敗退とともにビンラディン氏も逃亡生活に入る。

「自分の子供に私の後を継がせたい。」
今後数千人のビンラディンが生まれてくるかもしれない。

「私はいつでも米国民の安全を狙っている」

そして2011年5月ビンラディン氏は米国にパキスタンで殺害された。