目配り・気配り・心配り |  もともと偏屈男の世迷い言

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【2011-04-23(土)②】

 

 もう何年も前からのことなんでしょうが、人が多さん往来するところでの人々の歩き方が下手になってきてるなあとお嘆きの方おられますよねえ、駅とか繁華街とか。

 

 耳にイヤホン目にケータイでは、周りのことにはお構いなしで歩いているんでしょうとお考えの方多いんだろうかなあ。

 

 でも、あれで結構目配り気配り心配りしてるって思ってるらしいんですってねえ、今の人達。


 

 目を配ることは大切なことですよねえ、自分の周りのことや世間のことに関心を持ち、それに目を配れる能力を高めておくことは人としての基本中の基本でしょうねえ。

 

 でないと目配りの次にすべきことの対象を見付けられないからでしょうかねえ、目配りしてるよって合図はそりゃなんてったって目配せでしょうかねえ、やっぱり。

 

 目配りしてみると色々なことが見えてくるらしいんですねえ、そしてそのことに対して気を配ることができちゃうんですってねえ。

 

 気配りするってことは気配を察知できるようになるってことなんだそうです、気配を感じ取れるようになるってことなんだそうです。

 

 ここまでできる人のことを目端の利く人と呼ぶそうです、けどもこれだけじゃ足りないんですってねえ。

 

 せっかく目配り気配りできたってんなら心も配ってこその人の道なんだそうです、心を配るということは心配するということなんですよねえ。

 

 そして、心配をすれば何かをしてあげたくなっちゃうというのが人情というものなんですよねえ。

 

 目配りすれば目配せすることができ、目配せしといて気配りすれば気配を察することができ、気配を察して心配りすれば心配することができる。

 

 その上で、初めてしなきゃならない何かをすることができるようになるということなんだかなあ、もっと徳があって善根を積んできてたならはっきりと分るんだろうになあ。