私が初めてセブ島を訪れたのは1972年でした。当時は

車も少なくてボーイポンセのジープに彼の友人の警察官、

税関員を乗せて夜な夜な飲み屋に行ったものです。

ビンビールのラッパ飲みでつまみは30cmくらいの竹串に

刺された焼肉です。情緒なぞはありません。

無免許の私がジープを運転しても行き交う車がほとんどない

状態でした、

帰りには道端で売っているバルーを彼らは食べましたが

ゆで卵かと思い手にしますと卵の中はひな鳥姿です。

さすがに気が進みませんでした。

 

後年にマニラの国際線の売店を時間つぶしに手伝ってやると

お礼にとバルーくれましたがやはり」断りました。

 

今ではマクタン島はセブ有数のリゾート地ですがかっては

古ぼけた木造の空港があるだけのひなびた漁師町でした。

休みの日にはボーイ夫婦たちと漁師のバンブー船で対岸の

サンタロサによく行きました。

サンタロさにはホテルがありましたが、船に目いっぱいの

ビールを積み込み浜辺で温かくなったビールを楽しみました。

ホテルと言っても皆さんが想像するようなものではありません

でした。

数年後にミセスポンセがサンタロサに別荘を建て、以後は

そちらを利用しました。

ダナオの浜辺にも従業員の福利用に小屋を建て従業員たちと

海水浴を楽しんだものでした。

さらにタリサイの浜辺近くにも家を建て運転手家族を住まわせ

そこにはブドウ畑を作っていました。

収穫できた話は聞きませんでした。

 

マクタンの南側の海岸線は岩地で紫ウニが沢山生息して

とても海水浴に適した浜辺ではありませんでした。

 

今では他の島から砂を運び海岸線及び海中も整備されて

ホテルが立ち並んでリゾート地に変貌しています。

 

電気水道は元より道路も整備されていなくて、両サイドの

原野は隆起サンゴの岩が至る所に飛び出ていました。

平坦な土地は見受けられませんでした。

貝の業者(漁師)のところに行くのも一苦労でした。

注)空港のわきにゴルフ場がありますがヘアウエイの芝生の

下には隆起サンゴの石灰岩が隠れています。

注意しないとゴルフクラブを破損します。)

集めたクチムラサキサンゴヤドリの製品パーツです。

40㎝長さに拾ってみます。

上の9本が出来ました。

上からマクタンリィリィ、マクタンローズ、マクタンオーキッド、

最後がマクタンヒーシーです。

ユリ、バラ、ランの花の名が付けられています。

フィリピンでも紫の色は高貴な色でしょうか。

このヒーシーなどが出来たころのマクタン島はまだひなびた島

でした。

リゾート地、メプサ(輸出加工区)など今日の発展を予測して

貝にマクタンの名を付けられたのであれば驚きです。

まだ40cmの長さに出来ないパーツの残りです。

相交じるパーツが出来るまで保管です。

 

マクタン島とセブ島はマクタンに空港が出来ても渡し船で対岸を

行き来したようです。

第一の橋は日本の賠償で作られました。

この橋は開設以来有料でした。

当時のマルコス大統領がセブに来た時に彼の一声で無料に

なりました。

通行料収入で橋のメンテナンスが行われていましたので賛否両論

があったようです。

その後、係留中の日本のタンカー船が台風で流され橋げたに

衝突して暫くは渡し船でした。私も当時これを利用しました。

これを機会に第2の橋がやはり日本の援助で作られた訳です。

 

空港といえばマクタンに現在の空港が出来る前は現在の

セブカントリークラブの北にあったようです。

滑走路はせいぜい300mくらいで荒れ果てていました。

せいぜいセスナ機程度の飛行ではなかったでしょうか。

 

マクタンの空港も70年代は木造で雨漏りがするような粗末な

建物でした。

 

タクシーは三菱コルトの車がアメリカのダッジの名で走って

いました。

その後、三菱の軽360ccがPUとして走り出しました。

PUとはメーターはなく、料金は運転手と交渉次第です。

 

取り引き先まで行き、取引先に代金を借りようとしますと

取引先が料金が高いと半額に値切ってくれました。

 

その後のタクシーは中古の日本製三和メーターを付けて走り

出しましたがメーターの数字は手書きでした。

中には後部座席の足元に穴が開き地面が見えるような車も

ままありました。

 

その後さらにメーターに手を加え、乗客が外国人だとメーターを

2度倒すと速度が速くなり料金が見る見るうちに加算される設定

がなされていました。

これをターボメーターと呼んでいました。

この場合はメーターを元に戻して再度一度だけ倒せと指示します。

メーターの位置もタクシーによってはチェンジレバーで見えない

所に付けてあるのもあります。

 

今ではあまりにも古い車は許可が下りないようですし、

どのタクシーもドライブレコーダーが付けられており歳月を

感じます。

 

このようにタクシーもずいぶん改善がされましたが、いまだに

不思議に思うのは実車、空車の標識灯です。

車の屋根にoccupied、vacantと表示されていますが、乗客が

あっても全ての現地人でもドライバーに手を挙げます。

つまり標識灯は役に立っていないのです。

これは交通警察の指示だと思います。

なぜ日本のようにフロントガラスの近くにvacantだけにしないか

といつも思います。

 

台湾では全く日本と同じで空車表示のみです。

 

それに乗客が手を挙げますととほとんどのタクシー運転手は

すぐにメーターを倒しています。

このような運転手にはチップなしか少なめです。

中には前の乗客の料金でメーターをそのままにしているのも

ありますので要注意です。

現在のメーターはデジタルです。

 

タクシーと言えば70年代にザンボァンガに行った時です。

空港で待っているタクシー(?)は古いアメ車の大型車でした。

現在のキューバで走っているような車です。

当時はイスラム教徒の反乱私兵と政府軍とが戦っている最も

過激な時期でした。

運転手も郊外の行き先を告げると拒否反応です。

料金は倍くらいの支払いで貝の業者所に行きました。

マゼランホテルのレターヘッドです。

ホテルはマゼランホテルが定宿でした。

ここの土地はクラブフィリピーノ(ゴルフ場)と地続きで州政府から

50年で借りていました。

返済期限間近に焼けました。一説には放火と云われていました。

朝、レストランに行きますと必ず同じ席が予約席になっていました。

ホテルのボーイからアメリカ人が数年滞在していると聞きました。

しかし火事の数日前に系列のホテルに移されたとのことでした。

 

ホテルの部屋はいつも同じ部屋でした。

3階からゴルフ場のスタートホールが間近に見えます。

駐在の日本人グループが見えますと上から声をかけ急いで降りて

参加させてもらいました。

当時のお世話になった駐在員グループは川鉄鉱業の皆さんでした。

駐在員の人達は変わっても40年近く親しくさせていただきました。

 

今はアイヤラビジネスセンターとして開発されています。

ホテルも大小数多出来ており、コンドミニアムなどビル群が天を

衝いています。

発展は喜ばしいですが常時交通渋滞で取引先への往来に苦労します。

 

私の取引先のミスターナンはマクタン島に土地を持っており1㎡50

ペソで売ったとのことでした。

マクタン島が開発されて脚光を浴びている頃でした。

私が50ペソは安いのではないかと彼に言いますと1㎡2.50ペソ

で買った土地だと言いました。

いつ買ったのかは聞きませんでしたが現在1ペソは2.50円前後です。

1970年代の1ペソは45円くらいでした。

ペソの価値も随分と変貌しました。

 

70年代のセブ行きはフィリピン航空でマニラに行き,国内線に

乗り換えでしたが、3,4時間遅れはざらで時には待った挙句に

キャンセルの表示もあり、今日中に着ければよいの覚悟でした。

国際線から国内線の間はタクシーの利用ですがドライバーは

メーターをタオルで覆っています。

メーターを見せろと言いますとこれがメーターだと言って走行距離

メーターを指さす始末です。

とにかくマニラでもセブでもタクシー利用は一大覚悟での利用でした。

 

当時、セブには日本人の経営する食堂が1軒だけありました。

日本酒を注文するとおかみは古くてフが浮いてきているので

呑むなでした。

今では本格的な日本食堂はどれくらいあるでしょうか。

私の夕食はもっぱらホテルの部屋で水割りで済ませています。

たまにスパニッシュオムレツなどを部屋に持ってこさせます。

 

70年代の娯楽といえば前述のようにボーイポンセたちとビールを

呑みながら音楽を聴くことでした。

一応ステージがあって歌手が歌っています。

私達が行くと必ず日本人が来たと言って歌うのは大津美子の

“ここに幸あり”でした。リクエストはいつもダヒルサヨ(dahil sa yo)

です。

ダヒルサヨとはbecause of you(貴方のせいよ)の意味。

歌手の歌声に合わせてダヒルサヨ ナイスクン マブハイ・・・と

歌ったものでした。

時には酔いに任せてステージに上がって歌手とここに幸ありです。

 

若者のTシャツに妊婦の絵が描かれその下にはダヒルサヨ

(because of you)の文字が書かれていました。

当時はユーモラスなTシャツを着た若者があふれていました。

 

今ではカラオケ店の時代のようです。

 

70年代、80年代、更に現代もでしょうがフィリピンは外貨不足に

悩まされていました。

セブの銀行は毎月のようにセブの主だった経営者を招いて

食事会を催していました。

招待企業は外貨稼ぎで銀行のお得意さんであったわけです。

当時、ポンセシェルノベルティ社も外貨稼ぎの優良企業でした。

従って私が滞在中に食事会がありますとママさんは誘ってくれ

ました。

私は子豚の丸焼き(ㇾチョン)を見てもあまり食欲はわかず、

いつも隅の方でビールを飲んでいましたが、すると私が遠慮して

いると思い見知らぬご婦人が皿にㇾチョンを盛って持参してくれる

のには閉口したものでした。

 

10年後くらいには貝の業界にも若手経営者が台頭してきました。

それはほとんど華僑の2世たちでした。

資力のない者には輸出のライセンスをもらえませんでしたから

です。

しかし今では2世、3世の時代になり自由に輸出業務を行える時代

になっています。

 

ママさんは輸出業者のクリスマス、新宴会のパーティーにも

連れて行ってくれました。

全て輸出業者の会だからと固辞してもママさんは気にかけず私を

連れての参加でした。

 

ママさんも私も1月生まれで、一緒に誕生日を祝おうと言って

毎年セブでしたので誕生日には自宅に居たことがありません。

 

上はフィリピンでの私の運転免許証です。

住所はママさんの工場があったキャピタルサイドヒルです。

免許証にはポンセキャピタルサイトとなっています。

いつの頃からは知りませんが市は頭にポンセキャピタルサイトに

変更したのです。

当時、いかにポンセの力が強かったかが伺られます。

工場には300名が働き、広い庭にはゲストハウスを建てて

くれました。

庭には沢山のランの花が植えられて専用の係が手入れをして

いました。

ママさんは“ダイ(私)ここに桜の木を植えたい”と言ってましたが

希望をかなえてやれませんでした。

 

外貨不足で外貨収入には海外に働きに行っている労働者の

家族への送金が政府の財政を潤したのです。

海外での労働者がクリスマスでマニラ空港に着くと連日のように

政府高官が出迎えたとも聞きました。

 

40年前には連日のようにどこかで火事がありました。

木造家屋はラワン材作りで乾燥しており一度火が付けば

瞬く間に燃え尽き消火は先ず不可能でした。

 

 

現在はホテルもどれくらいあるでしょうか。

大型のショッピングモールも出来て、ビール、ウイスキーを買いに

出かけますが帰りの出口が判らなくて聞く始末です。

いわゆるサンゴもどきです。

塩ビのケースに入れてシェルワールドです。

もろいですのでトイレットペーパーで何重にもくるまれています。

リュウオウスガイ85mmです。アフリカの貝です。

大きい部類です。

口元が割れていてそのまま放ってありました。

グラインダーで削って補修品としてシェルワールド行きです。

 

セブに行き始めて15年後くらいでしょうか、ある輸出業者を知り

訪ねてゆきますと”お前がシェルナカムラか、お前の注文書が

ある”と見せてくれたのは私のママさん宛てのものでした。

ここも以前はママさんの下請けだったわけです。

部屋には当時のマルコス大統領夫人のイメルダとのツーショット

の写真が飾られていました。

聞けば女主人はイメルダ夫人と大学の同級生だったようです。

その後度々訪れましたがマルコス追放後はその写真も下されて

いました。

 

ある時を境にして中安氏に頼まれてフィリピンに同行することに

なりました。

彼は標本貝などの収集が主職業です。

当時は毎回、彼と漁師村に同行でした。一度はこれで今回の

旅行費用が出来たと小さな貝を見せてくれましたが不可解でした。

帰国後、社に来て80万円の小切手を見せあの貝だと云われた

のには驚きでした。

ママさんがダイこの貝を買えと言われ見せてくれたのはこぶし大

のタカラガイでした。聞けばシプレアバレンシア貝とのこと。

余りにも熱心に奨めるので1万円と思い買う気になりましたが

聞けば100万円です。

予てより中安氏から買うなら美しい貝を買えと言われていました

し、100万あればプカシェルを買えば必ず儲けますので

断りました。

帰国後、中安氏にシプレアバレンシア貝が採れていると報告

しますと買ってくれば150万円で買ってやったのにとの返事です。

しかし翌月にはあっても買うなです。

氏曰くこの貝(シンセイタカラ貝)は砂地に住む貝だから漁師が

網を打って必ず翌月には複数採れているとのことでした。

確かにその通りでした。

この頃のセブにはある意味での宝が眠っていました。

台湾製です。30年位前の仕入れでしょうか。

愛と福の文字がくり抜かれて上のように金具枠に糊付けされて

いるのを仕入れました。

金具のメッキも良質でありませんので外しています。

貝の上部に穴をあけて販売です。

歳と共に穴あけが一苦労です。

今となっては貴重品です。

 

フィリピンに通い詰めて50年近く。

このようなコロナ禍に会うとは想像もできませんでした。

こちらも苦しいですが職人たちの生活が案じられます。

50年来の恩人TM氏に送金して職人たちに渡してもらう手続きを

したところです。

早速TM氏のライン、メールで職人たちに渡したとの報告を

頂きました。

職人あっての商売です。取りあえずクリスマス、新年を迎えて

もらいたく思っています。

 

今年も残すところあと1週間、コロナコロナの1年でした。

ワクチンも開発されて投与されていますが、まだまだ朗報は

聞きません。

来年が普通に暮らせる年になることを願っています。