11月2日、高知県立坂本竜馬館館長の森健志郎が亡くなりました。
胸部動脈りゅう破裂での急死でした。
彼とは同期入社でモリケン、ダイと呼び合う仲で、
昨年は竜馬館を訪ねましたが不在で会えませんでした。
そのうち再度訪ねれば良いと思って帰りましたが、このようになっては
彼の帰館を待って会っておけば良かったと後悔しています。
冥福を祈っています。
同期会をしたのが何年前だったかとアルバムを探しましたが
見つからず、あの日は高知日赤病院で脳死患者の臓器提供で
編集局長の藤戸謙吾が(のちに社長、会長)が度々中座したのを
思い出しネットで調べると1999年の2月でした。
その後アルバムが見つかり2次会の写真です。
左から藤戸、岡田、1人置いて森健です。
この3人が亡くなっています。
会の日付けは1992年2月26日です。
同期は社長、論説委員長、局次長などの要職に就いて
活躍しました。
相次ぐ友の死で後ろを振り返る機会が多くなりましたが、
当方としましては愚直に残りの月日を一歩一歩
前を向いて歩くのみです。
ただし、酒の力を借りなければ歩けません。
立ち止まると痴呆か、認知症になりそうで不安です。
ついでに下の写真も見つけることが出来ました。
左からミセスポンセ(ママさん)、リタ、私、ダイアナ
(リタの妹)です。2人はママさんの姪です。
1992年1月16日と記されています。
リタがアメリカから帰国していて嫌がるママさんを
無理やり連れ出しました。
ママさん78歳の時です。
リタはナースの資格を取り渡米し、働いてアメリカの大学を
卒業したと聞きました。
その後アメリカ人と結婚し子供にも恵まれたが離婚したとも
聞きました。
今はダイアナも渡米し一緒に住んでいると聞きます。
ママさんと私の誕生月が1月で、毎年このころはセブでした。
ママさんは“ダイ、お前は私の息子だよ”と言って輸出業者の
X'mas,パーティ、新年会、銀行のパーティなどに連れて行って
くれたものです。
下の写真は1973年当時のママさんの店です。
ママさんの両サイドの二人はミスツーリストでマニラから
来ての記念写真です。
右端がミスターポンセでパパさんは法律家でした。
パパさんとは夕食後よく麻雀の卓を囲みました。
他の娘たちは店員です。
ママさん夫婦には子供がなくボーイを養子に貰って育て
ボーイは3人の子供に恵まれていました。
この写真の左側が事務所で2階がママさんたちの住居でした。
この家屋にはママさんの身内の子供、店員など合わせて
60名が住んでいました。
ママさんは身内の子供たちをここから学校に通わせ
卒業まで面倒を見ていた訳です。
リタもダイアナもその一人です。
下の写真はゲストハウス前の私です。
ママさんがゲストハウスを建ててやるから
ここに泊まれと言われた当時のものです。
私の滞在中は隣にボーイ夫妻も泊り、朝は女中さんが
来て3人の食事を用意してくれたものです。
ゲストハウスはキャピトルヒルズの工場の敷地内に
建てられ、前には沢山のランの花が植えられていました。
ママさんはダイここに桜の木を植えたいと言っていましたが
望を叶えてやれませんでした。
工場には300名の従業員が働いていました。
ママさんは学校の教師を辞め一代でこのポンセ王国を
築きました。
キャピタルヒルズの地名はママさんの功績を讃え
ポンセヒルズと変更されました。
私のフィリッピンでの運転免許証もここになっています。
タリサイには家を建て運転手に住まわせ、周りにはブドウ畑
を作り、ダナオには海水浴場に従業員のために小屋を建て
休みの日は数台の車を連ねて従業員の慰安に
連れて行ってました。
ダイ!サンタロサに別荘を持つのが夢だとも話していましたが
後年にはこの夢も叶えました。
この王国もパパさん亡きあと他人の保証人となり
住宅も、工場も全てを失ってしまいましたた。
ボーイも早く死に嫁のギンギンも子供たちを残し
アメリカに渡り、アメリカ人と結婚したと聞きます。
ママさんは3人の孫たちの面倒を見なければならず
晩年は寂しいものでした。
3人の孫たちも助けとはならず、細々と商品を作り続け
私の取引先に持って行かせ買い取りを続けました。
面倒を見てくれたママサンさんに万分の一も恩返しが
出来なかったと思います。
享年80歳でした。
グランドマジェスチックで一緒に食事をした2年後です。
この墓標にはdaughter in lawと刻まれています。
ママさんに養女が居たのかと思いましたが
考えて見るとボーイの嫁のギンギンのことです。
養女はadopted daughterでした。
ギンギンはポンセ王国の崩壊の一因でもあったと
思いますが墓標にはギンギンと3人の孫たちに
謝意を表す言葉が刻まれています。
人を疑わず、恨まず、ママさんらしい墓標です。
晩年は元の従業員が世話をしていましたが
私が訪ねますとベッドで寝ていても起き上がり
正座してパジャマの乱れを直すくらいの
奥ゆかしいフィリッピン女性でした。
土佐焼酎いごっそう。
ネットのお客さんが土佐に行き、お土産に焼酎を買って
来てくれました。
早速片瀬海岸に釜揚げしらすを買いに走り、呑んでいます。
今年も長野からりんごが送られてきました。
プロが選んだだけあって密をたっぷり含んだ
甘いリンゴです。
ベトナムからのサンプル。
20年以上前のサンプルです。
白蝶貝にパウア、マベ貝などでフルーツ、人の顔などを
巧みに埋め込んでいます。
技術的にはかなりの高度な品物です。
これ以前の品はベトナムで調達できる池蝶貝などの
淡水の貝のみで作られていましたが外国から海の貝の輸入が
出来だしたことが判ります。
こんな物も出てきました。
約4mmくらいのフトコロ貝を貼ったイヤリングです。
右のノシ貝が10mmくらいです。
片方に24個と中央にピンクの別の貝が付いています。
40年余り前の台湾製です。
イヤリング、ブローチを作ってもらいましたが1つだけ
残してありました。
台湾、高雄の張清奇氏から輸入しました。
キムタクのプカシェル。
ついでにキムタクが付けているプカシェルのコピーも
出てきました。プカシェルそのものはあまり良いプカでは
ありませんが見事に着けこなしています。
さすがです。
SCRAP & BUILTの毎日です。
白ヤタラのネックです。
ブレスレットは良く出ますが、ネックレスは不評です。
プルメリアに花の色はピンク、ブルー、イエローです。
注文が来る度にフィリッピンで作らしていましたが
ネックを左のようにブレスに変更して残りの白ヤタラは
40cmの糸通しにします。
これもネックレスでは売れません。
右のようにブレスにしましたら早速注文をもらいました。
日本製黒蝶貝の丸一つ穴。
40年近く前、ヒーシーの流行った時に関西の業者が
真似て作ったものです。
あまり気が進まなかったのですがプカブームの後でしたから
総額300万円ほど仕入れました。
確か仕入れ価格は5円だったと思います。
ネットでは13円を付けていましたが最近5円に値下げしました。
しかし上の糸通しが20cmの長さで113個付いています。
すると113X@5=565円となります。
ブレスで500円近く、ネックレスでは1,000円となります。
1個1個を見れば10円余りの価値は充分あると思いますが
仕入れが500円のブレスは末端価格はいくらになるでしょうか。
これも思い切って更に価格を下げます。
20cmで30g、100個あまりです。厚さに寄って数は変動が
あります。
日本製の物は丸ナツメ、角ナツメ、タイコなどありますが、
おいおい検討してみます。
やはり義理買いはしてはいけないと判っていますが
ついつい買ってしまう癖が治りません。
今でもフィリッピンで同じことをしています。
創業60数年ともなりますと在庫も多々あります。
間口を広げるのは簡単ですが、終末にかけてsoft landing
する難しさをつくづく感じています。
間に真鍮の円盤を挟みネックレスを作ってみました。
とにかくこの黒蝶貝は数万個あります。
ムラサキと白のヒーシー2/3mmです。
このような輪にしてイヤリングとして売りましたが
残った物は糸通しして材料売りにします。
クチムラサキ(セブビューティ)ヒーシーは貴重品です。
白蝶貝菊彫り55mm。
写真右上のツメ止め金具(ブローチ、ペンダント兼用)が
出てきましたので早速ペンダントを作り、
花芯には本サンゴ、または本真珠をつけて見せましたら
10個の注文をもらいました。
オーストラリアの白蝶貝です。真っ白の白蝶です。
残り少なくなりました。
今ではこの様な彫り物をする職人さんも日本には
いないでしょう。
ある程度は記念に残しておきます。
今年も残り少なくなりましたが年末、年始に懸けても
SCRAP &BUILTを続けます。
良いお年を迎えて下さい。






