希望としての介護/三好春樹 | ブログ

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おはようございます。岡本大輔です。
本日の紹介はこちらです。
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【出会い】
帯広図書館の介護関連の特集の棚にあったので手に取りました。たまには介護関係の書籍も読まなきゃね。

【本書紹介のねらい】
介護関係で働く方へ。……極論が多く、好みもあると思います。


介護をするときに大切なこと……それは”人間”だということ。介護者も介護をされる人も”人間”だということ。僕たちは同じ人間なんだと再確認しましょう。

【気になった抜粋】
老人たちを人里離れた山奥に隔離するのではなく、街中でケアすべきだと考えられるようになった、老人にとっては住み慣れた地域を離れなくてすむし、家族も地域の人も訪問しやすい、いいことばかりと考えられてきた、しかし今回の震災はそれが仇になったような気がしてしょうがない(中略)思い返してみれば、私がかつて勤めた特養ホームは、交通の便が悪くても家族の訪問は他施設の3倍もあったし、地域との交流は豊かだった、空間的距離なんか関係の力と工夫で超えられるのだ。

グループホームの火災が何度かあった、夜勤一人では何もできない、そこで、近所の人にかけつけてもらうための日頃の交流やシステムをつくり始めた、でも火災ならともかく、地震と津波では近所の人にもそんな余裕はない。

介護職は食事、排泄、入浴介助のプロではあるが、人命救助のプロではない、だとしたら、彼らよりもっと自分の身の安全を優先しなければならない。

私が介護という仕事が抱えているホントの問題点であると思うのは「権威主義」「管理主義」「金もうけ主義」の3Kである。

介護までもが効率主義に巻き込まれたこんな時代に、身体や精神を犠牲にせず、覚醒剤にも頼らずに、健全に、いやそれなりに生きていく方法はあるのだろうか。

「目がトロンとしたまま長生きするより、自分らしく生きて短いほうがいい」と、タバコも酒も自由にし、出前、外食も積極的にすすめる特養ホームが現れます、すると意外な結果が出てくるんです、少しずつ老いていくだけだった老人が見違えるようにイキイキしてきます、酒、タバコ、出前、外食するほうが長生きするんです。

そもそも「プライバシー」というのは「奪われたもの」ということばからきていて、公的なところに出る資格を失っている、という意味です、つまり、もともとは奴隷とか犯罪者に向けて使われていたことばだそうです。

「介護は重労働・低賃金だから処遇を改善せよ」という主張は、現在の社会の側の価値観の中で介護にもっと金を出せと言っているに過ぎないのだ。

【響いた抜粋と学び】
まずは僕が共感できない部分を紹介します。

私は原発問題を責めるべきは政府でも原発でもないと思う、電力会社に責任はある、原発を推進してきた自民党政府はもちろん、それを継承した民主党政府にも責任はある、しかし、私たちみんながそれを選んだのだ。

なぜ日本の若者たちはもっと激しく反原発のデモを起こさないのだろう、ボランティアと同じくらい大切なものではないか、もっとも多くの「若者」は就活で忙しい、「正規雇用かホームレスか」という二者択一を迫られているからだ。


抜粋にはいれていませんが、冒頭から石原さんを呼び捨てにして批評してしまっているところはかなりマイナスだと僕は感じました。”福祉”の仕事をしている人が自分の書籍で個人批判をしてしまうことは共感を呼び込めないと思います。
三好さんの人間観は僕は好きですが、このようなことはよろしくないと感じます。

上記抜粋で言えば、結局今の時代を創りあげたのは三好さんたちの世代なんじゃないですか? と僕は思ってしまいます。それを政治が悪いとか何が悪いなんて今更言っても変わりません。

必要なのは、現状を把握して「今何をするのか?」を考えて行動することです。

本当に老人や家族が求めているサービスとは何か、それは「様」をつけたり「ご利用者様」と呼んだりすることとは違う、老人と家族が本当に困ったときに見放さないでなんとかしようとしてくれることだ、たとえ結果としてうまくいかないとしても、いっしょに困ってくれることだ、それさえあれば、ふだんは無口でも無愛想でもいい、言葉遣いなんかどうだっていい。

たぶん、三好さんは「無口で無愛想になれ!」と言いたいのではなくて、”いっしょに困ってくれること”を求めているんだ! と言いたいのだろうと思います。

あまりに三好さんらしくて好きなんですが、共感まではいかないところです。「様」をつけていっしょに困ってくれればなおさらいいんじゃないのかなと感じます。

極論過ぎて、捉える人によっては間違える可能性はありますね。

介護によって人間関係が壊れてしまうくらいなら、入所という距離をおくことで、人間関係を取り戻すこともできるではないか。

これについては、介護によって人間関係が壊れてしまうのではなく、すでに人間関係はヒビが入っているんだと思います。結果として”介護”によって壊れてしまっただけで、もともと人間関係は良好ではなかったんじゃないのかなぁと今まで自分が関わってきた人たちを思い返して感じました。

地元で開かれる大学教授を講師にした難しそうな研修会には「寮母」と当時呼ばれていた介護職は誰も行きたがらなかったが、2泊くらいで出かける温泉地で開かれる大会には喜んで参加したものだ、もちろん参加費用も旅費も施設の負担なので、職員は同僚への土産物代の心配させすればよいのだ。

この時代の研修費用というのは施設負担、つまり税金負担と言うことですよね? 国民の血税はどれだけ有効活用されていたのか? 僕はちょっと疑問です。


次に僕が共感できる部分です。

ナースコール……なにか漠然とした不安があったり、自分は見捨てられているんじゃないかと感じていたりするときに、とりあえず押してみる、あるいは、本当に困っているときに来てくれるんだろうかと思って、試しでナースコールを押してみる、患者さんにとってこのボタンは、命綱というか、世界との信頼を結んでいる最後の砦なのです、だから、ずっと離さない人もいます。

助けを求めればだれかがサポートしてくれるという安心感が基本にある人は、一人でいても大丈夫なんです、その世界に対する信頼、安心感は、どこで作られるのでしょうか、とにかく他人を呼びつけるというのを繰り返す人がいて、介護職はそれに振り回されるんですが、そういう人を見ると、その基本的なところが作られていないという感じをもつんです。


下の子の夜鳴きを思い出します。自分が不安や恐怖でいっぱいのときに誰か傍にいてくれる、抱きしめてくれる安心感があれば、実際に抱きしめてもらえればすぐに泣き止みます。

ナースコールは「用事があるときに看護師を呼ぶ」というのは看護師側の勝手な解釈であり、患者さんにとってはもっと意味のあるものなんですね。

私たちの最大の根拠は、認知症という世界を、理解しえない異常な世界としてではなく、人間のあり方のひとつとして理解可能ではないかという現場の実感にこそある。

私たち介護職は医療のような、治そうという立場ではない、どうやって認知症老人といっしょに生活していくかという立場だ。


看護の対象は基本的に病人である、命が危険な人たちもいる医療現場での方法論だ、だから命を救い治療効果を高めるためのものであり、その代表的方法が安静である。

認知症が深まると、お年寄りは最後の母を求めます、母というのは、無条件に受け入れてくれる他者という意味ですから、介護現場ではそれは介護者です、最後の母として、その求めを受けとめられるかどうかが勝負でしょうね。


三好さんの魅力は何か? 介護について、”人間”というフィルターを通して考えていることです。
現場に多い考えは、目の前のお客様を「患者」だとか「利用者」と称し……称するのはいいとしても、一人の人間ではなく病気のある人、高齢者という括りに入れてしまい、自分とは別次元の生き物と捉えていることです。

目の前のお客様は人間です。あなたと同じ人間です。この基本を忘れずに介護をしましょう。

感染の防止には免疫力を高めねばなりません、免疫力はどうやって高まるか、それは生活空間を広め、人間関係を豊かにして、いっしょに泣いたり、笑ったりすることが一番だと最新の科学が証明しています。

人間は、共同体の中でなければ生きていけない存在なのに、その共同体がなくなってしまっているのです。

豊かな人間関係がある共同体を作ることが福祉職の使命ですね。そもそも高齢者ばかりでなく、若い世代も人間関係が希薄になっています。

僕の取り組みの一つに帯広の老舗書店「ザ・本屋さん」を中心に帯広市を文化・教養の高い街にすることがあります。

ベストセラー本を平積みにしても売れません。だったら、本を仲介した「人が集まる場所、行きたくなる場所、文化人が集う場所」にしたいと思っています。

今こそ、福祉職は活動の幅を広げ地域に貢献していく時代です。


総括すると、なんだかんだ、共感できない部分があったとしても、やっぱり僕は三好さんの考えが好きです。



【編集後記】

本日は始発に乗って早朝ミーティングです。議題は3月に急遽開催することになった書店での「NEXT READING」開催についてです。

読書会の普及と読書文化の普及、書店のPRも兼ねて行ないたいと思います。



ここまでお読みいただきありがとうございます。

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