先月の25日に横浜で開催された哲学サロンに出席してきたのですが、実存主義の創始者であるキルケゴールの問題定義をテーマにした深い洞察に富む話題の中、沢山の質疑応答が出るなどして大いに盛り上がり、非常に有意義な時を過ごせました。
Wikipediaリンク セーレン・キルケゴール
この日の朝は、自分が生まれた場所で己の人生を振り返り、サロンの予習としようという意味もあって、昔から馴染みの横浜市場のお店で朝食を食べようと思いました。
幼い頃から馴染んだ土地を歩き、食べ、そして空気を吸いながら、考えることが頭と気持ちの整理になると思ったからです。
先日ブログに「新しい社会が到来した」という主旨の記事を書きました。
リンク 世界の終わり
この中で記述した新しい社会とは具体的にどのようなものになるかを、物質的な側面のみから話すことは無意味です。
無意味どころか有害であるとさえ言えるでしょう。
なぜならそれは人間の知覚的な行為に係るもであり、意識に関する形態は、物質的な構造に依るものとは根本的に性質が違うからです。
我々は永遠というものを抜きにしては、一瞬たりとも現実の社会で活動することができません。
皆さんも毎日の生活の中で、次の事を考えた場合、きっと不思議に思うことでしょう。
”なぜ人間はいつかは死ぬと分かっていて、日々を活き活き過ごすことができるのか?”
”一寸先は闇であり、もしかしたら今日交通事故にあって死ぬかもしれない(実際交通事故は毎日起こっている)のに、なぜ人間はひと月先、一年先の予定に胸をワクワクさせることができるのか?”
これはあらゆる哲学者が注目した事象です。
答えは時間と空間、死を内包した物質社会の中で生きる人間は、同時に永遠という軸を重ねあわせているからなのです。
人間の実存と社会の実存。
物質的な世界と精神の世界。
そして時間と永遠。
上記より導かれる、
より良き社会への貢献か、個人の幸福の追及のいずれかの選択。
物質的幸福か精神的充足かの二者択一。
生か死かの選択。
この二つの実存のいずれか一方の選択に判断を下した時から、我々の苦難が始まったのです。
以来多くの優れた先人達の、究極の二者択一でない持続可能な社会と個人の併存を実現するための格闘が始まりました。
私の場合もその例外ではなく、これらが重ね合せによって如何に存続が可能で、それはどのようにして?というテーマの上で二十数年の間、考え続けてきたのです。
これは近代から現代を生きた、そして今生きている人類全体のテーマだと言えるでしょう。
矛盾することを言うようですが、これは決して答えが出ない問いです。
しかし答えは既にあるのだとも言えるのかもしれません。
まさに相反するものが重ね合わさった、「シュレーディンガーの猫のパラドクス」と全く同一の構造を含むものであるため、17世紀にニュートンとデカルトが発明した実軸的認識に立つ限り、決して理解することができない性質のものなのです。
Wikipediaリンク シュレーディンガーの猫
こういうことを考えだすと精神的な袋小路に陥って、泥沼に嵌り込むこと(だから哲学する人って鬱っぽい人が多いと思いません?)を、既に嫌というほど体験していた私は、人が行き交う活気ある場所で食事を一人で摂ることにより、ドツボにはまることを躱しているのですよ。( ̄▽+ ̄*)ハッハッハ~
時々私がフザケているというご意見を頂戴する時がありますが、それはあまりにも一面的にすぎると思います。
私は常に真剣ですよ。
市場で哲学するというのはフザケているのではなく、ちゃんと理由があるのです。
ただこれは私のスタイルであり、別に他人にオススメするとかいう訳ではありません。
人それぞれに合ったスタイルがあると思うからです。
ところで横浜市場といえば、デカ盛りファンに人気の「秋葉屋さん」や、全国的に有名な「もみじやさん」などが真っ先に思い出されますが、今回はもっと渋いところで朝食をいただきました。
市場の建物と、向こうにはインターコンチネンタルホテルが見えます。
大きなアンテナが立つ建物、横浜メディアタワーと左側のランドマークタワー。
新社会人時代の若きに日に、それぞれの建物のオフィスでサラリーマン人生を送っていました。
ちなみに奥さんと結婚式をあげたのは、ランドマークタワーのホテルです。( ̄▽+ ̄*)
小さな頃から大人になってからも、朝昼晩いつも見てきた街であり、とても思い出の詰まった場所なのでした。
水産部の敷地に入ります。
飲食街が入る建物が入口の右方向にありますが、今回はそちらには向かいません。
初めて来る方には「本日のおすすめ丼」を本当にオススメします。
運が良いと、その日に入ったばかりの最高のマグロの中落ちなどがテンコ盛りの丼などが出てきますよ。
ここは看板にメニューが出ていても、その時にあるかどうかの保証はないので、最初にお店の人に聞いてみるといいと思います。
今回注文したのは、「極上お刺身定食 800円」。
もう一つの1,000円のほうのお刺身定食ができないと言われたので。
主に市場関係者が使う食堂なので、飾りっけはなし。
メニューもお魚よりも煮込みや麺類などが人気だったりします。
魚を仕事にしている人は、カレーとかのほうが喜びますよね。
お水も当然セルフ。
懐かしいCokeの冷蔵ケースの上にテレビ・・。(これはこれでオシャレ。)
こういう放っとかれてる感が、私にとって最高に落ち着くのです。
逆に色々なサービスをされると、自然とそういうのを避ける自分がいつも居たのでした。
極上お刺身定食 800円。
美味しいものを食べている間は幸せです。
なぜなら全てを忘れることができるから。
マグロの中落ち、赤身、大トロ、コハダ、水ダコ、甘エビ、イカ。
どれも味はとびきり上等!!
カレイの煮付け(かな?)。
ジャジャ~ん!!
大トロ!!
この大トロを食べれば、哲学し過ぎによる鬱など一発で吹っ飛びます!!
相変わらずの市場のお得感。
飾りっけなしの、でも味はピカ一の混じりけなしの本物の味。
これだけで今のボクには充分です。
迷いも吹っ切れたところで、店長にご馳走様のお礼を言った後、腹ごなしに横浜駅まで歩きました。
やはり生まれ育った故郷を歩いていると、景色が身体に馴染むが分かりますね。
なんとなく暖かく迎えてくれているような、心が安らぐような安堵感があります。
昔はここにこんな建物は無かったのですけどね。
移り変わりゆく街の光景を観ながら、自分が生まれて以来ずっと感じ続けていた、生きていることに対する正体不明の罪悪感について考えていたのを思い出しました。
家族や周囲の人たち、自然や社会に対する贖罪意識はどのように努力しても、どのような方法を使っても払拭することができませんでした。
人に気を遣われることに対する、申し訳のなさや落ち着かない気持ちの揺れの原因は、この得体の知れない罪悪感から来ているのかもしれません。
しかし多くの人が私と同じような気持ちを、少なからず持っていることを理解した時に納得できたことがありました。
それは逆説的に聞こえますが、その気持ちがあるからこそ自分は今まで生きてこられたのだと、同様の思いを抱える人達の生きる力の源泉がそこにあることがハッキリと解ったのです。
そのことが心から解った時の私は、まさにもう一人のキルケゴールでした。
今までで最も重要なことを書きます。
「”悩みの原因となる事象を発生させる思考からの解放が、人間を救う”などという発想から、あらゆる誤解が発生しているのであり、そのような思考を放棄した態度は、仮に最初こそ心の重圧の解放から心の安寧を得られたとしても、少しの時を経過してそれが外側に向いた時に、”カリスマ”や”階層構造”という形態での反動が待っているのであり、逆に内向きに出た場合の反動が”虚無”や”自殺”などというものに結びついてゆくことになるのです。
この事こそが人間に与えられた思考能力という、自然からの至高の贈り物を否定して、一段階次元の低い領域に身を置くという事の構造的な仕組みだったのです。
故に我々が真に警戒すべきものは恐怖や苦悩自体ではなく、逆にそれらを無視する、”無関心”という行為なのです。」
ベイクオーターを通ってJR横浜駅まであと少し。
あと少しで社会と個人の実存の両立は可能なのか?
この答えを本当に知る人間は、まだこの世にはいないのかもしれません。
ただその答えを出す日は近いのかもしれません。
しかし同時に、もう答えは出ているのだと思う自分が既にいるのかもしれません。
なぜなら私が考えるキルケゴールの実存主義とは、人に死ぬ覚悟を与えるものであると同時に、生きる覚悟も与えるものだと思うからです。
<オマケ>
妻の大好物「ウニ」。
口の中でトロけて、匂いが鼻から抜けるのでした。
ご馳走様でした。ー人ー)