不登校の子には、居場所が必要。
そう言われることがあります。
僕も、それは本当に大事なことだと思います。
学校以外に行ける場所があること。
家族以外の大人と出会えること。
同じような経験をしている子と知り合えること。
そういう場所に救われる子は、たくさんいると思います。
でも、子どもの頃の僕にとっては、
「居場所」と呼ばれる場所に行くこと自体が、もう一度失敗しに行くようで怖かったのです。
小学生の頃、寮制の学校をすすめられたことがありました。
今振り返ると、親は親なりに必死だったのだと思います。
学校へ行けない僕が、この先どうなるのか。
家にいるだけでいいのか。
どこか別の場所なら、少し変わるのではないか。
きっと、いろいろ考えてくれていたのだと思います。
でも当時の僕には、そうは受け取れませんでした。
寮制の学校と聞いた時、
「自分は家にいてはいけないのかもしれない」
と思いました。
両親にとって、自分は邪魔な存在になっているのかもしれない。
このままどこかへ連れて行かれて、もう迎えに来てもらえないのかもしれない。
小学生だった当時の僕には、本当にそう感じられました。
「捨てられる」
そんなふうに感じて、悲しくなりました。
親の知人の集まりに連れて行かれたこともあります。
そこには、僕のことを心配してくれる大人たちがいたのだと思います。
きっと、話を聞いてくれようとしていたのだと思います。
でも、僕は知らない人たちに、自分の気持ちを話すのが嫌でした。
そもそも、うまく話せませんでした。
何が苦しいのか。
どうして学校へ行けないのか。
これからどうしたいのか。
言葉にできないから困っているのに、言葉にすることを求められる。
それが、苦しかったのだと思います。
大人にとっては「話を聞いてくれる場所」でも、子どもにとっては「話さなければいけない場所」になることがあります。
大人にとっては「安心できる場所」でも、子どもにとっては「またうまくやらなければいけない場所」になることがあります。
これは、フリースクールや適応指導教室や相談の場が悪い、という話ではありません。
そういう場所に救われる子は、たくさんいると思います。
必要な場所だとも思います。
ただ、すべての子が、そこに行けばすぐに安心できるわけではないのかなと感じます。
学校へ行けなくなった子どもにとって、新しい場所へ行くことは、決して簡単なことではありません。
新しい人間関係が始まる。
通い続けることを期待される。
他の子とうまくやらなければいけない。
そして、もしそこでも馴染めなかったら、
「自分は本当にどこにも行けないんだ」
と思ってしまうこともあります。
学校がだめだった。
それなら、学校以外の場所へ。
でも、その場所もだめだった。
その時の絶望は、子どもにとって、とてもとても大きいものです。
僕自身、場所や集まりに入った瞬間、強い拒否感が生まれることがありました。
そこにいる人たちが悪いわけではありません。
ただ、当時の僕にとって、いちばん息がしやすかった場所は、外にある場所ではありませんでした。
小学校高学年から中学生の頃。
昼間、父が仕事に行っていて、母も出かけている時の家の中。
誰もいない家の中。
そこが、いちばん息がしやすい場所でした。
もちろん、それがずっと良い状態だったとは思いません。
寂しさも、不安もありました。
学校へ行っていない負い目もありました。
でも、誰かに見られずにいられること。
何かを説明しなくてもいいこと。
うまく話せなくてもいいこと。
その時間が、当時の自分には必要だったのだと思います。
「居場所」は、人が集まる場所だけを指すわけではないのかもしれません。
誰かに受け止めてもらえる場所も、居場所です。
でも、誰にも見られずに、少し息ができる時間も、その子にとっては居場所になることがあるのだと思います。
もちろん、学校以外の場所を否定したいわけではありません。
むしろ、必要だと思っています。
実際に僕自身も、あとになって学校以外の場所に助けられました。
フリースクールの前に通ったアニメの専門学校で、年上の友人たちと出会えたことがありました。
そこで笑えた時間が、その後フリースクールに入った時、自分で友人関係を作ろうと踏み出す力になっていたのかもしれません。
これは、ここ最近になって気づいたことです。
居場所は、一度で見つかるとは限りません。
最初にすすめられた場所が合わないこともあります。
見学に行っただけで、もう無理だと思うこともあります。
それでも、その子がだめなわけではありません。
その場所が悪いとも限りません。
ただ、その時のその子には、まだ合わなかっただけなのかもしれません。
親御さんに伝えたいことがあるとすれば、
「行けなかったから失敗」と思いすぎないでほしい、ということです。
フリースクールに行けなかった。
適応指導教室に馴染めなかった。
相談の場で何も話せなかった。
習い事も続かなかった。
そういうことがあっても、その子の人生が終わるなんてことは、まったくありません。
学校に行っているか、行っていないか。
どこかに通えているか、通えていないか。
それだけで、人生は計れません。
命を落とさない限り、やり直せないことなんて、ほとんどないのだと思います。
大人になってから、楽しい経験はいくらでも待っています。
人との出会いもあります。
もう一度、何かを始められる時もあります。
だからこそ、今の毎日を、不安や悲しみに押しつぶされすぎないで暮らしてもらえたらなと願っています。
親がずっと苦しそうにしていると、子どもも苦しくなります。
自分のせいで、親まで不幸にしているように感じてしまうからです。
「居場所」は大事です。
でも、居場所は、そこへ連れて行けばすぐにできるものではありません。
その子が、
ここにいてもいいのかもしれない。
そう思えるまでの時間も含めて、居場所なのだと思います。
【お知らせ】その1
6月28日(日)に、オンライン講演会でお話しさせていただきます。
不登校だった当時の気持ちや、親や先生との関わりについて、僕自身の経験をもとにお話しする予定です。
この記事に書いたような、学校へ行けなかった子どもの側から見えていたことも、少し丁寧にお伝えできればと思っています。
参加費は無料です。
オンライン開催ですので、ご都合が合いましたら、ぜひご参加ください。
詳細・お申し込みはこちらから。
【お知らせ】その2
7月25日(土)、愛知県教育・スポーツ振興財団さん主催の「不登校に関する講演」でお話しさせていただきます。
今回は、不登校経験者の鬼頭信さんと2人で、
「学校に行けなかった僕たちは、どう大人になったのか
〜キッチンカーとマンガ、それぞれの場所から語る不登校経験〜」
というテーマでお話しします。
会場参加とオンライン配信のハイブリッド形式で、参加は無料です。
詳細・お申し込みはこちらから
●棚園正一の著作紹介
このブログでは、不登校だった当時の気持ちや、漫画制作のことを少しずつ綴っています。
必要な時に、また読みに来てもらえたら嬉しいです。








