意外と難しい「ことわざ」

以前。こんなやりとりがありました。

「暖簾(のれん)に腕押し」 → 「暖簾(のれん)」が、何だかわからない。

「糠(ぬか)に釘」 → 「糠(ぬか)」が、何だかわからない。

「棚からぼた餅」 → 「ぼた餅」が、何だかわからない。

「帯に短したすきに長し」 → 「たすき」が、何だかわからない。

「たで食う虫も好きずき」 → 「たで」が、何だかわからない。

と、まあ、こんな感じです。

「え?」と、最初は思ったのですが、でも、よく考えてみると、確かに、都会に住む人には馴染みのない言葉がいっぱい。
 
今時、「のれん」をしている和室は、ないかもしれません。

「ぬか漬け」を、自宅で作っている方は、少ないかもしれません。

ということは、「ぬか床」がなんだかわからなくても、しょうがないのかもしれません。

毎年年末になると、今年どういう言葉が流行したか、取り上げられますよね。

新しい言葉が増えるぶん、古い言葉が使われなくなっていくのは、仕方のないことだと思います。

だって、言葉は生き物ですから・・・・・・。

「日本語」よりも、「英語(カタカナ)」の方が、若い世代には広く知れ渡ったであろう言葉。

例えば「さじ(おさじ)」よりも、「スプーン」の方が、馴染みのある言葉だったりします。

「さじを投げる」という言葉一つ取ってみても、「さじってなに?スプーンのことなの?なぁんだ。」なんていうやり取りも、決して不思議なものではありません。

「機会」と漢字で見れば分かるかもしれませんが、いざ会話で「そういう機会があったよねぇ」といっても、ピンと来ない。「そういうチャンスがあったよねぇ」という方が、しっくり来る場合もあったりします。

キリがなくなりますので、もう一つだけ挙げますと・・・

「仲睦(むつ)まじい」という言葉。

恐らく若い世代にはもはやピンと来なくなっているかもしれません。

若い世代が日常会話で、「あいつら仲睦まじすぎだよなwww」なんて言うわけないですしね。

では、今はなんと言っているのか。

そう考えると恐らく「超ラブラブ~」なんていう表現に取って代わってしまったのでしょう。

「正しい日本語」が次から次へと「死語」となっていく現代社会。

できれば、おじいさんやおばあさんと、たくさんお話しをして、その中で出てくる知らない日本語を、尋ねてみるのもいいのではないでしょうか。

たとえば、テレビ番組の「笑点」。

あの番組は、長年の制作スタッフの意志で、あえて他の番組のように「字幕」をつけたり、「ワイプ」を入れたりしないんだそうです。

「分からない言葉が出てきたら、自分で調べさせる」意味で、昔の言葉をあえて用いることもあるんだとか。

今度それを気にしながら番組を見てみるのもまた「一興(いっきょう)」かと思いますよ\(^o^)/