東日本大震災から今日で13年。
先日書きました内容と重なりますが、私にとっては重要のため、まずはここから書き始めたいと思います(;^ω^)
平成23年。2011年3月当時。
実は転職活動をしていました。
当時、都内の学習塾に勤務していたのですが、いろいろあって、同業他社を探していたんです。
結果的に入社することになったとある千葉県市川市内の学習塾。
面接日時がなんと、3月11日金曜日の午前10時からでした。
フランチャイズのオーナーさんと、後に上司となった、その部下の方との小一時間の面接を終え、勤務地であった都内に。
当時まだ神奈川県某市在住であったため、市川の学習塾までは、自宅から1時間半程度かかったんです。
学習塾のため、勤務開始は午後のため、面接を終えて、しばらく時間を潰してから、都内の勤務地の学習塾へと移動。
書類整理や掃除などをしていた時…
「あの瞬間」が突然やってきました…
「おっ、地震だ…」
最初はこんな感じでしたが…
「あれ?ヤバくない?ヤバイよヤバイよヤバイよヤバイよ…(;・∀・)」
揺れが起き始めた「14時46分」からの数分間…
ホントにその瞬間何度も「ヤバイよ」と叫びつつ、倒れるはずのない「本棚」が大きく傾き始めたため、必死で手で押さえて…
何分間か揺れが続きました。
ビルの二階だったんですが、窓の外を見ると、信号機が揺れていたり、人々の叫び声が聞こえたり…
ここからは業務的な対応が続くことになりますので、割愛させていただくとしまして…
夕方。JRの全面停止が発表され…
その勤務地の学習塾も、ものの見事にJRの駅近辺だったため、帰れなくなりました。
ダメ元で、19時過ぎに周辺のありとあらゆるホテルを探したんですが、まあ時すでに遅し。
どこもすでに満室…
その学習塾本部からの指示で、ついに教室で一夜を明かすことにまでなりました。
まあ、毛布なんてないですよ。
いわゆる学校机二つ並べて、スーツを上にかけて応急措置で寝た感じです。
翌朝、再び本部からの指示で、「休校」の指示が来て、ようやく帰宅することに。
深夜に見た、ケータイメール(当時はガラケー)で、「○○町が壊滅状態」なんてニュースメールを見るたびに、「一体東北で何が起きているんだろう」って思ってましたからね。
とにかくスマホじゃなかったので、「映像」として、「東日本大震災」を目の当たりにしたのは、翌朝帰宅してからだったんです。
私自身は「ガラケー」だったものの、多分、世の中的にも多くが、「スマホ」や「LINE」の普及前だったと思うんですよ(・_・;)
家(アパート)の部屋では、多少棚から落ちた物が散乱していたくらいでしたね。
神奈川県南東部の某市でしたので。
さて、それではメディアのお話し。
今日は各種様々な震災関連の特番が予定されていますが…
「ニュース7」
本日の放送で、ついに13年連続での「拡大版」を敢行します。
放送内容としては、この日だけは例外として、普段の内容とはガラッと変えて、様々なアナウンサーを動員しての、被災地からの中継を挟んでの拡大版となります。
そのため、「通常ニュース」は恐らく「正味10分」もないと思われます。
先の「戦争」を知らない人が社会で大半を占めたように、
そして、「阪神・淡路大震災」を知らない人も、若い世代で出てきたように、
「東日本大震災」も13年が経ち、もう小中学生までは、リアルタイムの記憶としては、知らない時代にまでなってきました。
今後はもう、「高校生以降世代」までも知らない世代が出てくるわけですからね。
想像すると恐ろしくはなってきますが(;^ω^)
10年を経て、次の区切りは、やはり『東日本大震災15年』ということになるんですかね(;´・ω・)
かつて、「戦後最悪の自然災害」だったのが、平成7年。1995年の阪神淡路大震災でした。
死者数6434人。
神戸市として、人口が「震災前」から回復したのが4年後の1999年でした。
「10年後」の2005年には、関西の人の記憶には残っていたものの、それ以外の地方の人たちの記憶の風化はやはり早かったように思います。
今後の「節目」は、どのような形で迎えることになるのか。
原発事故の対応。避難者数。行方不明者の捜索などなど…
そこまで大きな進展はないとは思われますがね…(*_*;
そして肝心な…
「復興のゴール」はどこになるのかということ。
やはり、ウン十年後の、「福島原発廃炉」となった時なんでしょうかね。
あくまで「希望者」を前提とした、被災者の全員帰還か…
それとも「行方不明者捜索の完遂」になるのか…
または、東日本大震災発災前の街並みをどれだけ取り戻せるのか…
といったところになってくるのかとも思われます。
では、今日はここまでとさせていただきますm(_ _)m